家と大黒柱
「……っ」
定満の問いかけに対し、咄嗟に声が出せなかったのは、上杉家の宿老の立場から冷静に考えると同意できる余地があったからだ。
(……確かに、定満の言った事にも一理あるやもしれぬ……)
と、一瞬心が傾きかけた政景だったが――、
「……い、いや! やはり、それはならぬ!」
すぐにハッと我に返り、激しく頭を振った。
それを見て眉間に深い皺を寄せた定満は、険しい目で政景の顔を見据えながら、低い声で問いかける。
「何故『ならぬ』と仰られるのですか? 上杉家を支える柱の一つである貴方が、某の申した事もお分かりにならない訳ではないでしょう?」
「それは……」
定満の問いかけに一瞬口ごもった政景だったが、すぐに毅然とした声で言い放った。
「そんな事――武田殿の暗殺を上様は決してお望みにならない。それだけで、反対する理由としては十分だ」
「……」
政景の答えを聞いた定満は、僅かに目を見開き――それから小さく溜息を吐いてふるふると首を左右に振る。
「どうやら、何もお分かりになられていない御様子じゃ」
「何だと……?」
「この際、もう関係ないのです」
気色ばむ政景の顔を睨めつけながら、定満は淡々とした口調で言った。
「――殿の御意向がどうであろうと」
「なに……?」
定満の鋭い眼光に気圧されつつ、政景は訊き返す。
「上様の御意向が関係ない訳があるか! 上様は上杉家の当主であるぞ?」
「然れど……殿は上杉家そのものでは御座いませぬ」
そう言った定満は、政景の顔をじっと見つめながら、諭すような声色で言葉を継ぐ。
「先ほど、越前守様を『上杉家を支える柱』と喩えましたが、他の者も同じです。儂も神五郎 (直江景綱)も弥次郎 (柿崎景家)も……民百姓に到る全ての者が、“上杉”という家を形作る柱や床板や壁や梁なのです」
「……」
「そして……それは殿とて同じ」
そこで一旦黙り、何かに想いを馳せるかのように目を僅かに閉じた定満は、意を決するように細く息を吸い、再び口を開いた。
「さしずめ、殿は上杉家全体を真ん中で支える一番太い柱――大黒柱で御座ろう。殿の存在がなければ、上杉という家は形を保てませぬ」
「ならば……」
「しかし、いかに全体を支える存在といえど、大黒柱は家そのものでは御座らぬ」
口を開きかけた政景を制するように声を被せた定満は、無意識に短筒の台株 (持ち手)を握る手に力を込める。
一方の政景は、定満が言わんとする意味を悟り、唇を噛んだ。
「……たとえ大黒柱であろうと、上杉という家を形作る部品のひとつでしかない上様の意向だけを是とすべきではないという事か」
「左様に御座る」
政景の言葉を聞いた定満は、僅かに表情を緩め、詰めていた息を吐く。
「ようやくお分かりになられ申したか。……いえ、ようやく分からないふりをお止めになった――と言うべきですかな?」
「……しかし」
皮肉交じりの定満の言葉に内心で臍を噛みながら、ふと頭を過ぎった疑問を政景は口にした。
「確かに知勇を兼ね備えている優れた男だとは思うが……敢えて上様の御意向を無視してでも殺さねばならぬほどの者なのか、武田殿は……?」
「無躾を承知で申し上げれば……我らが川中島で武田と戦っている時に、越後にて留守居役を務められていた越前守様にはお分かりにならぬのも無理はないかと存じます」
「なに……?」
「ですが、某は川中島の戦場において、身に染みるほどに思い知らされたのです。あの男の手強さを」
そう言った定満は、当時の事を思い出そうとするかのように目を細める。
「永禄四年の大戦……そして、永禄七年の衝突での武田信繁の戦いぶり……実に見事であった。変化する状況に即応する柔軟な指揮ぶりはもちろん、危地の只中にある味方を鼓舞せんと自ら先頭に立つ勇猛さ……」
「……」
「何より、信繁に従う兵の士気と結束の高さは凄まじかった。永禄四年と七年……いずれの戦でも、士気を執るのが信繁でなければとうに総崩れしているような窮地の中にあって、背を向けて逃げ出そうとする者がただのひとりも居らなんだ」
「それは……まるで――」
「左様」
ハッとする政景に、定満は小さく頷いた。
「似ておるのです。――殿と」
そう言うと、定満は複雑な表情を浮かべる。
「信繁の戦いぶりを見ているうちに、まるで殿を相手にしているかのような錯覚を抱き申した。殿の傍らに立っていたにもかかわらず……」
そこで定満がぶるりと身を震わせたのは、初春の湖上を吹く風に凍えただけではあるまい。
「正直……かつて殿と戦場で相見えた時の事を思い出して、恐ろしさすら感じたのを覚えております」
「……っ」
その気持ちは、政景にも良く分かる。
彼自身も定満と同様に、まだ輝虎が長尾景虎と名乗っていた頃に反旗を翻し、彼からの猛攻を受けて降伏した経験があったからだ。
(だからか……)
たとえ輝虎の意向に背いてでも信繁を斃そうとしている定満に対して抱いていた不可解が腑に落ち――それと同時に、もうひとつの事もストンと胸に落ちる。
(武田殿に対し、斯様に御執心なさっていたのは、そういう事か……)
再び、彼の脳裏に栃尾城で会った時の輝虎の姿が過ぎった。
――善光寺の宿坊で武田信繁と酒を酌み交わしたという話題で、姉の綾から「楽しかったのですか?」と尋ねられ、躊躇う事無く「ええ」と頷いた輝虎が浮かべていた、屈託のない微笑みを。
――『信繁は、自分の事をただひとりの武士として見てくれた』と語った時に輝虎が垣間見せた、”上杉家当主”でも“関東管領”でもない彼本来の表情を――。
(おそらく――上様……いや、お虎殿は、自分と似ている武田殿に強い親近感を抱いておるのだ。……いや、もしかすると……それ以上の……)
――ならば、
(やはり……駿河守の企み通りに事を進ませる訳にはいかぬな……)




