目撃と顛末
――時は少し遡る。
「……っ!」
野尻湖の真ん中にぽつんと浮かぶ小舟の上で、ふたりの男が縺れ合うようにして湖水の中へ落ちたのを見て、佐助は息を呑んだ。
彼は、反射的に湖に向かって駆け出そうとしたが、
「やめておけ、若いの」
先ほど彼を呼び止めたしわがれ声が、再び制止する。
「今更助けに行ったところで、どうせ助からん。今迂闊に飛び出せば、無駄に姿を他の者に見られるだけだぞ」
「……っ」
“声”を聴いた佐助は、一瞬躊躇したが、すぐに再び足を踏み出そうとした。
そんな彼の背中に、再び“声”は忠告する。
「あの小舟の近くで泳ぐお前の姿を、上杉家の兵に見られたらどうする。まず確実に、お前があのふたりを殺めたものと疑われるぞ」
「……」
「お前の主である武田信繁も同様だ。『お前を遣って、敵である上杉家の将ふたりを謀殺した』とな。そうなれば、せっかく成りかけた上杉と武田の和睦の話も立ち消えになり、足利将軍家の意向に背いた武田家の信用も地に堕ちよう」
「……っ!」
“声”の言葉に、佐助はハッとして足を止めた。
「……確かにそうだな」
そう小さく頷いた佐助は、声が聴こえてきた方へと振り返り、闇の中に潜む何者かに向けて言う。
「……だから、さっきオレが湖に潜って舟に近付こうとした時に止めたのか。はじめからこうなると知っていて……」
「かかかっ、さすがにそうではないわ」
佐助の言葉に、“声”は乾いた笑い声を上げた。
「さすがのワシも、先の事を“予知”する事は出来ぬ。……だが、これまでの蓄積を元にして、これから起こるであろう事態を“予測”する事は可能じゃ」
「……予測していたのか、ああなる事を?」
「まあ……半分はな」
「……」
“声”の答えを聞いた佐助の表情が、僅かに険しくなる。
「予測していたのに、何もしなかったのか?」
「然り」
「……」
あっさりと認めた“声”に、今度は当惑の表情を浮かべる佐助。
「何故だ? ああなるのを予測していたのに、どうして何もしなかった?」
「くくく……簡単な事よ。『宇佐美駿河守の動きを監視せよ』とは言われたが、『阻止せよ』とは命じられておらなんだからな」
「……」
「それに――」
と、話を続けかけた声だったが、すぐに「……おっと」と呟き、
「いかんいかん。さすがに少し喋り過ぎたな」
と自制した。
「久しぶりに骨のありそうな忍びに会って、年甲斐もなくはしゃいでしもうたようじゃわ、くくく」
「……」
愉しげに笑う声に、佐助は僅かに眉根を寄せる。
……と、
「……さて」
一頻り笑った“声”は、気を取り直すように言葉を継いだ。
「何はともあれ、これで一段落。そろそろワシはお暇するとしよう。――お前も早くこの場を立ち去った方がいいぞ」
「…………ああ」
“声”の忠告に、佐助は小さく息を吐いてから頷いた。
返事を聞いた“声”は、満足げに小さく笑い、佐助に向けて別れの言葉を告げる。
「――では、さらばじゃ、武田の忍びよ。まあ……また会う事もあろう。――味方としてか、それとも敵としてかは分からぬがな」
――そして、時は今に戻る。
「……これが、オレがあの場で見聞きした全てだ」
「ふむ……」
佐助の話を聞き終えた信繁は、顎髭を指で撫でながら、難しい顔で考え込む。
「お主が見た通りなら、確かに長尾殿と宇佐美殿は……」
「……万に一つも生きてはおられないでしょうね」
信繁の言葉に、昌澄が沈鬱な表情で頷いた。
一方、昌幸は佐助に鋭い目を向ける。
「それで……お主を制止したという声の主は、一体何者なのだ?」
「……残念だが、分からん」
昌幸の問いかけに、佐助は憮然としながら頭を振った。
彼の答えを聞いた昌幸は、胡乱げに眉を顰める。
「分からんって……立ち去る後を尾けたりする事も出来なかったのか?」
「……あの声の主は、かなりの手練れだった。オレであっても後を追う事は容易ではなかっただろう」
そこで一旦言葉を切った佐助は、ふうと細く長く息を吐き、「……それに」と続けた。
「もし、あれ以上正体を探ろうとしていたら、あの場で戦いになっていただろう。そうなったら……正直認めたくはないが――勝てるかどうか分からなかった」
「……っ! お前にそこまで言わせるほどの者だったという事か……」
昔からの付き合いで、佐助の大層負けず嫌いな性格を知っている昌幸は、彼が「勝てるかどうか分からなかった」とまで言った事に驚いて、目を丸くする。
「左様か……」
そんなふたりのやり取りを聞いた信繁は、佐助に小さく頷きかけた。
「ならば、深追いしなかったお主の判断は適切であろう。ご苦労だった」
「……すまん」
「ははは、お主は十分に最善を尽くしてくれた。何を謝る事がある」
珍しく気落ちした様子で肩を落とす佐助を苦笑交じりに宥めた信繁だったが、つと表情を引き締める。
「……今は、その“声”の正体が何者なのかより、この後の状況がどう流れるかを考える方が重要だ」
「そうですね……」
信繁の言葉に、昌幸も神妙な顔で頷いた。
「この城の城主と、典厩様を迎えに参った当主の義兄……その両方が身罷って動揺している上杉家の者たちがどのように動くか……」
「……どうやら、今宵は眠れそうにもないな」
そう言って小さく溜息を吐いた信繁は、おもむろに立ち上がり、着ていた寝間着の帯を緩める。
「平服に着替える。昌幸、手伝ってくれ」
「はっ、畏まりました」
信繁の声に応じて、昌幸も腰を上げ――ようとした、その時、
「――夜分遅くに畏れ入ります、武田左馬助様」
閉めた襖の向こうから、凛とした――だが、少年の幼さを隠し切れていない声が聞こえてきた。
それを聞いた信繁たちは、思わず顔を見合わせる。
今の声は――。
「――長尾越前守政景が嫡男、卯松にございます。父の事で……火急にお知らせしたき儀がございまして、不躾を承知で罷り越しました――」




