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封紙と筆跡

 ――静寂に包まれた初春の冷たい空気を震わせる轟音が、穏やかなさざ波を立てる湖に響き渡った。


「ほほう……」


 野尻湖に浮かんだ小舟の舳先に立ち、虚空に向けて短筒を撃ち放った宇佐美定満は、掌に感じた衝撃の余韻を味わいながら感嘆の声を上げる。


「これが短筒……。種子島は何度か撃った事があり申すが、やはり銃身が短い分、それとはだいぶ反動が違いますな」


 新たな弾を銃口に込めながら、定満は言った。


「何より、片手で撃てるのがいい。弾込めの手間さえ何とか出来れば、弓の代わりに馬上でも撃てそうですな」

「左様か……」


 小舟の真ん中に腰を下ろした長尾政景は、小舟の舳先に取り付けた松明の炎に照らし出された定満の顔を見ながら言う。


「随分と良いものを賜ったようだな」

「ええ、実に」


 政景の言葉に、定満は大きく頷いた。


「げに珍しきものを頂きました。老いさらばえた某の事を斯様に気にかけて下さる殿の慈悲深き御心に、この宇佐美駿河守定満、甚(いた)く感じ入り申した」

「そうか……」


 満足げな笑みを浮かべながらの定満の答えを聞いた政景は、思わず口元を緩める。


「それは良かった……」


 彼の声は、再び鳴り響いた轟音によって掻き消された。 

 銃口から細く上がる硝煙を見ながら、定満はしみじみと言葉を紡ぐ。


「……次は、敵に撃って威力を確かめたいところですな」

「……」

「そう……次(・)の(・)川(・)中(・)島(・)の(・)戦(・)で――」

「駿河守っ!」


 定満の呟きを聞き咎めた政景は、思わず声を荒げた。


「お主……今自分が何を申したのか分かっておるのか? “次の川中島”とは、敵はつまり……」

「左様に御座る」


 政景の詰問に、定満は悪びれた様子も無くあっさりと答える。


「川中島で上杉軍(われら)と戦う敵など、ひとつしかありませぬでしょう」

「呆けたか、駿河守!」


 落ち着き払った定満の顔を見上げながら、政景は鋭い声で一喝した。


「よもや忘れた訳とは言わせぬぞ。我が上杉家と武田家が和睦を結ぼうとしているのを!」

「無論、忘れてなどおりませぬ」


 新たな弾を短筒に込めながら、定満は感情の見えない淡々とした口調で答える。


「……ですが、それはあくまで『表向きには』に過ぎませぬ」

「なに……?」


 定満の言葉に、政景は胡乱げに眉を上げた。


「表向きだと? お主は、当家――上様が未だに武田家との敵対を望んでおるとでも申すのか?」

「……左様」

「たわけた事を申すでない!」


 キッと目を剥いた政景は、定満を一喝する。


「上様がそのような事をお考えならば、この私にご相談なさらぬはずがないだろう!」

「……それは、恐らく――」


 松明の光の反射で不気味に光る眼で政景をじっと見据えながら、定満はひび割れたような響きの声で答えた。


「大変畏れ多き事に御座りますが、率直に申し上げますと……越前守様を信じ切れぬと思われたのでは……と」

「駿河守ッ!」


 定満の答えに激昂した政景は、日頃温厚な彼には珍しい激しい怒声を上げて立ち上がり、彼の胸倉を掴まんばかりの勢いで詰め寄る。


「勝手な想像で私を嘲弄するかっ! 上様は、決してそのような事は――」

「想像では御座いませぬ」

「なに……っ?」


 首を横に振った定満に意表を衝かれ、政景は声を上ずらせた。

 そんな彼の顔を真っ直ぐに見つめながら、定満はおもむろに懐に手を入れ、一枚の折り畳まれた紙を取り出す。


「……これが、動かぬ証拠に御座ります」

「証拠……だと?」


 定満の言葉に怪訝な声を上げる政景。

 頷きながら、定満は紙――書状の封紙を広げ、


「……こちらです」


 と、狐色に変色した部分を指し示した。

 政景は、胡乱げな表情を浮かべたまま、定満が指さした箇所に目を落とし、


「……っ」


 思わず息を呑む。

 彼の目に映るのは、松明の灯りに照らし出された『討 左 マ』の文字。


「……いかがですかな?」


 少しの間、彼の表情が変化する様をじっと見ていた定満が、再び口を開いた。

 その声を聞いて封紙の文字から目を離した政景が、定満に問い返す。


「これが……お主の申す“証拠”か?」

「左様に御座ります」


 政景の問いかけにあっさりと頷いた定満は、白髯に覆われた口元を僅かに綻ばせながら言葉を継いだ。


「これこそが、某に下された密命の動かぬ証拠」

「……っ」


 定満の言葉を聞いた政景は、もう一度封紙の文字に目を落とし――


「下らぬ!」


 と、激しく首を左右に振り、老将の顔を睨みつけた。


「駿河守……お主、真(まこと)に上様がこの三文字を書いたと思うておるのか?」

「……と、言いますと?」

「見当違いもいいところだ!」


 訊き返した定満に苛立ちを露わにした声を浴びせた政景は、封紙の文字に指を突きつける。


「一目で分かる! 上様が直にお書きになった文字が、このように乱雑な訳が無かろう!」

「……」

「それは、軍師として上様のお近くに仕えていたお主が一番良く分かっているはずだろうが?」


 いつもの輝虎の流麗な文字とは似ても似つかない、殴り書きに近い三文字へ苛立ちに満ちた目を向けた政景は、次いで定満の顔を睨みつけた。

 彼の射るような視線を受けた定満は、それでも無表情を保ったまま、静かな声で答える。


「……あまり某の事を見くびられますな。無論、そんな事は承知の上です」

「…………何だと?」


 定満が口にした答えの意味が分からず、思わず政景は当惑に満ちた声を漏らした。


「承知の上……だと? では、お主はこの三文字が上様の手によるものではないと分かっておるのか?」

「はい」


 政景の問いかけにあっさりと頷いた定満は、口元にしたり笑いを浮かべる。


「某は、御幼少の頃から殿にお仕えし、幾通も御親筆の感状や折紙を頂戴しておりますので、あの御方の筆の癖など一目で分かり申す」


 そう言いながら、彼は自分の手にある封紙をしげしげと眺め――次の瞬間、


「――こんなもの!」


 と叫びながら、松明の火にくべた。


「……!」

「越前守様のおっしゃる通り、この文字は殿の美しき文字とは似ても似つかぬ稚拙なもの! この宇佐美駿河守定満が見破れぬはずがございますまい!」

「い、いや……それならば……」


 意味を測りかねて些か混乱しながら、政景は定満に問う。


「何故……その三文字の偽の命令に従おうとしておるのだ? これは……」

「確かに、殿の御直筆によるものではないでしょう」


 政景の言わんとしていた言葉を先回りして言った定満は、「ですが……」と続けた。


「たとえ偽命であったとしても、敢えてこの密命に乗って武田左馬助の排除を果たす事こそが、殿の……いえ、上杉家の将来の為になる事であると、某は確信しておるのです!」

 上杉謙信の自筆書状は、現代にも数多く残っています。

 当時の戦国大名が書状を出す際には、自分で全部書くのではなく、右筆という専門の役目の者に本文を書かせ、大名自身が書くのは最後の花押のみという事がほとんどでした。

 ですが、上杉謙信は当時の戦国大名にしては珍しく、自分で書状を書く事が多かったようです。

 そして、彼が書く文字も流麗で教養に溢れた美しいもので、しばしば「プロである右筆よりも上手い」と評されるほどでした。


 ……右筆に任せず自分で書状を書く事が多かった結果として字が上手くなったのか、それとも字が上手かったから右筆に任せず自分で書状を書いていたのか……どちらなのかは、今となっては”本人のみぞ知る”ですw

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― 新着の感想 ―
文字の巧拙は判りませんけど複数の大名に同じ内容で書状を出すときにはコピー機代わりに右筆に書かせていたのではないかな、と思います。 また時代が降って徳川幕府の時代になると祐筆がサインを入れていない書面は…
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