闇と声
「待たせたな、駿河守」
本丸御殿の玄関を出た政景は、先に外で待っていた宇佐美定満に声をかけた。
短筒を納めた桐箱を小脇に抱え、片手に火の点いた松明を持った定満は、政景に軽く会釈をしてから、大手門の方を指し示す。
「それでは、早速参りましょう。こちらです」
「……うむ」
定満に促された政景は、小さく頷いてから、背後の本丸御殿をちらりと見た。
「……」
「……越前守様、いかがなされましたか?」
「ああ……いや、何でもない」
少し訝しげな定満の声に、小さく頭を振った政景は、昼間の雷雨が嘘のように晴れ渡った星空に目を移す。
「良い夜だな」
「……ええ」
政景の言葉に、定満が言葉少なに応じた。
顎を上げたまま、目だけを動かして定満の顔を一瞥した政景は、彼の返事に感じた違和には気付かなかった体を装って、大げさに身を震わせてみせる。
「だが、やはりこの時間になると冷えるな。湖の上では、尚更であろう」
「……かもしれませぬな」
軽口めいた政景の言葉に固い表情で頷いた定満は、「さすれば……」と続けた。
「越前守様がお風邪を召さぬよう、疾く済ませる事にいたしましょう」
「……そう願いたいものだな」
定満の返事に、政景は小さく溜息を吐く。
そんな彼に小さく頷きかけた定満は、促すように松明で足元を照らした。
「では、参りましょう。……お足元に気を付けて」
「ああ」
定満の声に応じた政景は、最後にもう一度首を巡らす。
「……」
ほんの一瞬、無言で本丸御殿を一瞥した政景は、すぐに正面へ向き直り、定満が照らした松明の光を辿るようにして船着き場へ向かう坂道を下りて行った――。
――そんなふたりの後を、鬱蒼と茂る木々の間を縫うようにしながら尾ける、ひとつの影。
武藤昌幸の命を受けて、秘かに宇佐美定満の動きを見張っていた佐助である。
城外へ繋がる山道にポツンと灯る松明の光から十分な距離を取りつつ、濃密な闇に覆われた林の中をまるで真昼の陽の下を往くが如き確かな足取りで後を追う。
松明の灯りに照らし出された定満と政景の顔に、彼の追跡を知覚しているような色は見えない。
そのままふたりは本丸のある小高い丘を西へと下り、二の丸から三の丸を通り抜け、琵琶島の西端にある船着き場へと到った。
そこに予め用意されていた小舟へ乗り込むようだ。
(さて……)
ふたりに気付かれず後を尾けてきた佐助は、船着き場を見渡せる場所に生えている一際大きな木の幹の陰に身を潜ませ、はたと思案する。
(ここからどうするか……)
湖に浮かんだ船に乗った政景と定満の会話を聴く為には、当然ながらふたりの声が聴こえる距離まで近付く必要がある。
まず思いついたのは、船着き場の艀に繋がれた小舟の一艘を拝借して湖に漕ぎ出すという手。
……だが、深く考えずとも、それは現実的ではない事は明らかだ。
(船着き場の見張りの目を盗んで舟を奪う事はまず無理だ。船に乗るどころか、この森から出た時点で姿が丸見えになる……)
当然ながら、森と船着き場の間の空間には複数の見張りの視線が向いている。通り抜けようとしたら、いかに優れた忍びである佐助でも見つかってしまうだろう……。
そう考えて、速やかに第一の選択肢を捨てた佐助は、今度は横へと目を遣る。
(さすれば……森の木々に紛れて北の湖岸まで行き、そこから湖に潜るか……)
そうすれば、船着き場の見張りの目に自分の姿が触れる事は無い。
もちろん、まだそこかしこに雪の残る初春の、しかも真夜中の冷たい空気に冷やされた湖の水は、さぞかし冷たい事だろう。
しかし、佐助は過酷な修行を経て様々な技術と強靭な体を得た忍びだ。当然ながら、真冬の川を渡り切る術も心得ている。
(泳いでふたりの乗る舟に近付けば、どんな話をしているのかを具に聴き取れよう……)
そう考えて、佐助が動き出そうとした――その瞬間。
「――悪い事は言わん。やめておけ、武田の乱破よ」
不意に、彼の背中に声がかけられた。
「ッ!」
まるで自分の心を見透かしたようなしわがれた声にハッと息を呑んだ次の瞬間、即座に佐助は袖の下に仕込んであった苦無を取り出し、声のした方向に投げ込もうとした。
「いやいや、そう逸るな。ワシは、お前の敵ではないぞ。今のところは、な」
「……っ」
佐助が苦無を投げる手を止めたのは、苦笑交じりのしわがれた声に従ったからではない。さっき声がしたと思われ、佐助が苦無を放とうとした方向とは別の位置から同じ人物の声が上がったからである。
周囲に油断なく目を配りながら、佐助は姿なき声の主に向けて声をかけた。
「……『今のところは敵ではない』という事は、味方でもないという事か」
「然り」
佐助の問いかけに、姿なき声は短く応える。
それを聞いた佐助は更に警戒を強めたが、その気配を悟ったらしいしわがれた声の主は、愉快そうな笑い声を上げた。
「くくく、そう構えるでない。そのままおとなしくしておれば、戦り合うつもりはない。……お前を仕留めるのは、些か難儀そうだからな」
最後の一言は、世辞や揶揄ではない、紛れもない本音のようだった。
言われた佐助自身も、全く同じ印象を相手に対して抱いている。
……ならば、徒に戦闘に及ぶのは適切ではない。そう考えた佐助は、構えていた苦無を下ろし、ふと船着き場の方に目を遣った。
そして、舫を解いてゆっくりと湖へ向かって動き出す小舟の上に宇佐美定満と長尾政景の姿を見止めると微かに舌を打ったが、すぐに気を取り直して、森の奥の気配に向かって問いを投げた。
「……お前は、宇佐美定満の手の者ではないのか?」
「然り」
先ほどと同じように短い答えが返ってくる。
それを聞いた佐助は、小さく頷くと更に問いを重ねる。
「なら……長尾政景か?」
「……先ほどよりは正解に近いが、否」
「……」
少しからかうような、或いははぐらかすような答えに、佐助は胡乱げに片眉を上げたが、小さく息を吐いて問いを変える。
「それで……お前は、なぜここに居るのだ?」
「知れた事。お前を……武田方の乱破が首を突っ込みに来るのを止めてやる為よ」
「……止めて……やる?」
しわがれた声が口にした答えに引っかかった佐助は、思わず訊き返した。
「『止める』のではなく『止めてやる』だと? それは、どういう意味だ?」
「くくく……」
佐助の問いに対し、姿なき声は底意地の悪い響きを帯びた笑い声を上げるだけだった……。




