息子と寝顔
「これは……!」
野尻城の本丸御殿の一室――長尾卯松に割り当てられた部屋の前で宿直番をしていた近習は、思いもかけぬ人物が現れた事に驚いて、思わず上ずった声を漏らした。
「え……越前守様?」
「ああ、そのままで良い」
慌てて平伏しようとした近習を軽く手を挙げて制した長尾政景は、穏やかな笑みを浮かべる。
「不寝番ご苦労。こんな夜更けに驚かせてすまぬな」
「い、いえ、滅相もない……」
政景の詫びに恐縮しきりの様子の近習だったが、ふと怪訝な顔をして尋ねた。
「あの……何故斯様な時間に卯松様のお部屋へ……?」
「……いや、なに」
近習の問いかけに、政景は少し返事に迷った様子で頬を掻き、それから口の端を僅かに上げてみせる。
「その……急に卯松の顔が見とうなってな」
「はあ……左様に御座りますか」
政景が口にした答えに、納得したようなしてないような表情を浮かべる近習。
背後の襖をちらりと見て、彼は「ですが……」と続ける。
「折角に御座りますが……卯松様は既にお寝みになられており……」
「ああ、それはもちろん分かっておる」
近習の言葉に、政景は苦笑しながら頷いた。
「もう、亥の刻 (午後十時)も過ぎておる。寝ていて当然だ。むしろ、童のくせにこんな時間まで夜更かししておったら、説教のひとつでもかましてやらねばならぬところよ」
そう冗談めかして言った政景は、改めて近習に言う。
「別に、卯松に会いに来たわけではない。ただ、顔だけ見に来ただけだ。中に入れてくれるか?」
「はっ。そういう事でしたら……」
政景の答えを聞いた瞬間、(何故、急に越前守様は卯松様のお顔を見たくなられたのだ……?)という疑問が脳裏を過ぎった近習だったが、すぐに気を取り直し、主の求めに応じた。
彼は片膝を立て、音を立てて中で寝ている卯松を起こさぬように気を付けながら、慎重に襖を開ける。
「……どうぞお入り下さい」
「うむ」
近習に向けて鷹揚に頷きかけた政景は、忍び込むような足取りで部屋の中に入った。
――暗い部屋の真ん中に薄い褥が敷かれており、その上に横たわった卯松が微かな寝息を立てて眠っている。
その寝顔は、起きている時よりも年相応に見えた。
「……ふ」
褥の傍らに腰を下ろした政景は、まだあどけなさを残す卯松の寝顔を見て、思わず表情を緩める。
乱れた夜着を卯松の体に掛け直してから、おもむろに己の袷の間に手を入れ、折り畳んだ一枚の紙を取り出した。
「……」
政景は、取り出した紙を一瞥してから、卯松が寝ている褥の下にそっと差し入れる。
「……これでよし」
そう小さな声で満足げに呟いた政景は、最後に卯松の頬をそっと撫でて立ち上がった。
そのまま、来た時と同じように足音を忍ばせて部屋から出ようとしたが……。
「……父上?」
「……ああ、すまぬ。起こしてしもうたか」
背中にかけられた訝しげな声に、困り笑いを浮かべながら振り返る。
褥から上半身を起こした卯松は、寝ぼけ眼で父を見上げ、首を傾げた。
「……どこかへ行かれるのですか? こんな夜更けに……」
「ん? ああ……」
平服の上に厚手の防寒着を着込んだ政景は、卯松の問いかけに小さく頷く。
「これから、ちと野尻湖までな」
「野尻湖……ですか?」
政景の答えを聞いた卯松は、思わず目を丸くし、更に問いを重ねた。
「一体、何をなさりに?」
「……なに、大した事ではない。駿河守の自慢に付き合わされに行くだけだ」
卯松の問いかけに、政景は一瞬だけ間を置いてから答える。
「何でも、彼奴が上様から短筒を賜ったらしくてな。その試し撃ちを野尻湖で行うから付き合えと申してきたのだ」
「試し撃ち……ですか」
そう返して、卯松は襖の隙間から覗く夜空を見た。
「でも、別にこんな夜遅くにしなくても……」
「それは……まあ、年を取ると意固地になるからな。あの剣幕では、私が何を言っても聞く耳を持たぬだろうなと思って承諾したという訳だ」
卯松の疑問を冗談めかした出まかせで答えた政景は、ふっと真顔になって、「……そういう訳で」と続ける。
「駿河守が待ちかねておるだろうから、もう行く」
「あ…………はい」
政景の声に何かを感じたらしい卯松は、一瞬だけ当惑の表情を浮かべたが、ぎこちなく頷いた。
「畏まりました。……どうかお気を付けて」
「ああ、分かっておる」
小さく頷いた政景は、ふっと表情を和らげて卯松に言う。
「……起こして悪かったな。明日も早いから、すぐに寝るのだぞ」
「はい。畏まりました、父上」
政景の言葉にコクンと頷いた卯松は、おとなしく横になり、自分の体に夜着を掛け直した。
「では……お休みなさいませ、父上」
「ああ、良く眠れよ、卯松」
目を瞑った卯松に穏やかに声をかけた政景は、一瞬引き返そうとする。
だが、踵を返しかけた脚を止めると、何も言わずに小さく頭を振った。
彼は、早くも安らかな寝息を立て始めた卯松の顔を名残惜しげに一瞥してから、そのまま部屋を出る。
「卯松の事、確と頼んだぞ」
部屋に両手をついて深々と頭を下げる近習にそう声をかけた政景は、「はっ!」という返事を背中で聞きながら部屋を立ち去る。
「――卯松よ」
廊下を静かに歩きながら、彼は当人に聴こえぬと重々承知しながら、自分の嫡男に呼びかけた。
「……もし、私に万が一の事があったら、後の事は任せたぞ。私の代わりに、お前の母と――そして、上様の事を支えてやってくれ……いいな」




