夢と短筒
「……ん……むう」
微かなうめき声を上げながら、ゆっくりと目を開けた政景は、枕代わりにしていた脇息から頭を上げ、寝ぼけ眼で周囲を見回した。
「……おや? ここは……?」
ついさっきまで坂戸城の庭で上杉輝虎と話していたはずの自分が、簡素な造りの寒々しい部屋で布団も敷かずに横になっていた事に一瞬戸惑ったが、すぐに状況を察して苦笑いを浮かべる。
「ああ、そうか。ここは野尻城だったな……。では、さっきのは夢の中か」
そう独り言ちながら、それまで横たわっていた床から身を起こした。
「痛ちちち……」
肌寒い初春の夜に、薄布一枚敷かずに固い板敷の床の上で寝ていたせいで、すっかり体が強張ってしまっている。
「武田殿との話が盛り上がったからといって、些か飲み過ぎたな……」
ほんの少しだけ横になって回った酔いを醒まそうとしたつもりが、すっかり寝入ってしまったようだ。
いつも使っている枕よりも少し高さのある脇息に頭を乗せていたせいで、すっかり凝り固まってしまった首と肩を手で揉みながら、政景は少し離れた所に置かれていた円座に腰を下ろした。
円座の前には小さな膳が置かれ、その上には木椀が載っている。
木椀の中に半分ほど残っている透明な液体は、武田信繁と酒を酌み交わした後に酔いを醒まそうと小姓に用意させた白湯である。
ふと喉の渇きを感じた政景は、木椀に手を伸ばし、中に残った白湯をグビリと飲み干した。
「……すっかり冷めてしまっておるな。これでは、ただの水だ」
そう呟いて苦笑した政景は、空になった木椀を膳の上に置き、ふと先ほど見た夢――坂戸城で輝虎と会った時の記憶を思い返す。
『彼奴が妙な気を起こさぬよう、お主が余の代わりに目を光らせておいてくれ』
あの時――輝虎が、どこか愁いを帯びた表情を浮かべながら、人目を忍ぶように身を寄せて囁いた言葉。
それは多分、“命令”というより、“頼み”……いや、“希い”に近いものだった――そう、政景には感じられた。
「……分かっております、上様……いえ、お虎殿」
自然と表情を引き締めた政景は、この場に居ない主君……否、義弟に向けて呟く。
「宇佐美駿河守の事は、私にお任せ下され。彼奴が何を考えていようと、武田殿には指一本触れさせはしませ――」
――と、
決意に満ちた彼の独白は、途中で止まった。
閉められた襖の向こうで、何者かが床に膝をついた音が上がったからである。
思わず傍らに転がっていた刀に手を伸ばしながら、政景は襖の向こうに声をかけた。
「……何奴だ?」
「――越前守様」
「……っ」
返ってきた声を聞いた政景は、思わず息を呑む。
そのしわがれた声は――、
「宇佐美……駿河守か」
「はっ。左様に御座ります」
政景の誰何に、老声は淡々とした口調で答えた。
「夜分遅くに失礼いたします……もうお寝みでしたでしょうか?」
「……いや」
小さく頭を振った政景は、一瞬だけ迷ってから自分の右手側に刀を置き、寝乱れた衣服を直しながら円座の上に座り直す。
「――構わぬ。入れ」
「はっ。……それでは、失礼仕ります」
政景の声に応じて、そろそろと襖が開き、桐箱を携えた宇佐美定満が部屋の中に入ってきた。
軽く一礼してから政景の前に腰を下ろした定満は、持っていた桐箱を慎重な手つきで傍らに置き、両手をついて深々と平伏する。
そんな彼に探るような目を向けながら、政景は小さく頭を振った。
「……虚礼は不要。頭を上げよ」
「はっ……」
政景の許しを得た定満は、ゆっくりと面を上げる。
そんな彼の事を油断ない目で見据えながら、政景はさりげなく尋ねた。
「このような夜更けに、何かあったか?」
彼の問いかけに対し、定満は微かに頬を緩めただけで答えず、その代わり、無言で傍らに置いていた桐箱を政景の前へとずらす。
「これは……?」
目の前に置かれた桐箱に、思わず怪訝な表情を浮かべながら、政景は尋ねた。
定満は、そんな彼の顔を見てニヤリと微笑い、桐箱の蓋をゆっくりと開ける。
ゆらゆらと揺れる燭台の灯りに照らし出した箱の中身を見て、政景は目を丸くした。
「これは……短筒?」
「左様に御座ります」
真紅の錦布に包まれていた短筒を慎重な手つきで取り出しながら、定満は小さく頷く。
「……殿が某に御下賜下さったものです」
「……っ」
定満の言葉を聞いた政景は、思わず息を呑んで、彼が手に持った短筒を凝視した。
「上様が……お主にそれを?」
「ええ」
政景の問いかけに、定満は黒光りする短筒の銃身を指で撫でながら答える。
「何でも……元々はご上洛の際に前の公方様から賜ったものだったとか。それを、殿が某にと……」
そう言いながら、定満はふっと表情を緩めた。
「実に有難く……勿体なき事に御座ります」
「……そうか」
まるで孫孝行を受けた老爺の如き満ち足りた貌でしみじみと呟く定満につられるように、政景も口元を綻ばせる。
「それは良かったな、駿河」
「はい、実に」
政景の声にコクンと頷いた定満は、ふと襖の間から覗く夜空に目を遣った。
「……それでですね。ここからが本題なのですが」
「なんだ」
定満の言葉に、政景は呆れ混じりの声を漏らす。
「“ここから”という事は、今までの話は前座だったという事か」
「あぁ、いやいや」
少しからかうような政景の言葉に、定満は苦笑しながら手を横に振った。
「殿から頂戴した賜り物を話の枕にするなどという無礼は致しませぬ」
そう言って手元の短筒に目を落とした定満は、「実は……」と続ける。
「せっかく殿から頂戴したこの短筒、試し撃ちしてみたいと思いましてな。せっかくなので越前守様もお誘いしようかと思いまして」
「試し撃ち……今からか?」
「今からです」
訝しげに訊き返した政景に、定満は妙にきっぱりと答えた。
その反応に、政景は眉を僅かに顰めながら、更に問いを重ねる。
「試し撃ちといっても……どこで行うというのだ? こんな真夜中に……更に武田家の一行が滞在している城内で行うのは、何かと障りがあろう」
「城内で、とは申しておりませぬ」
短筒を桐箱にしまいながら、定満は静かに首を横に振った。
それを見た政景は、ますます怪訝な表情を浮かべながら尋ねる。
「では、一体どこで……?」
「……人や物に流れ弾が当たる恐れが無いほどに広く、銃声で城中で眠りこけている者どもを起こす心配が無いほどに遠く、余計な邪魔が入る事も無い場が、この野尻城には御座います」
政景の問いかけにそう答えた定満は、白髯に覆われた口の端を上げながら、襖の向こうを指さした。
「――野尻湖に小舟を出し、湖の真ん中で試し撃ちを致しましょう。さすれば、試し撃ちはもちろん……他人の耳を気にする事なく、色々と込み入った話も出来まするからな」




