頼みと命令
「なんと……」
輝虎から一昨年の善光寺宿坊の件の話を聞き終えた政景が、頬を引き攣らせながら小さく息を吐いた。
「数日前に戦場で刃を交わした相手と、ふたりきりで酒を酌み交わしたとは……。いやはや……」
「ふふ……そのご様子だと、やはりお呆れになられたようですな」
「呆れというよりは、肝が冷えたのです」
呑気に笑う輝虎に困り顔で言った政景は、険しい目を庭の片隅で控えている上村伊勢松へと向ける。
「何をしていたのだ、伊勢松。傍にお仕えしているお主が、何としてでもお止めせねばならぬ事だぞ」
「は……誠に申し訳御座りませぬ、越前様」
政景には珍しい厳しい口調で咎められた伊勢松は、恐縮した様子で深々と頭を垂れた。
「もちろん、それは某も重々分かっており、必死で思い留まるよう言葉を尽くしてお願いしたのですが……」
「あまり伊勢松の事を責めないでやって下され、義兄上」
輝虎が慌てて口を挟んで、叱られた伊勢松を庇う。
「あの時、確かに伊勢松からはさんざん止められました。ですが、私が『大丈夫だ』とそれを振り切ったのです」
「何を根拠に大丈夫だと……」
義弟の言葉に嘆息しながら、政景はふるふると首を横に振った。
「わらわらと敵がいる宿坊の真ん中にひとりで乗り込むなど……露見したらどうなさるおつもりだったのですか」
「まあ、その時はその時」
咎める政景に、輝虎は涼しい顔で答える。
「もちろん、タダで捕まってやるつもりはなく、見つかったら散々に暴れて逃げおおせてやるつもりでした」
「なんとも能天気な……」
輝虎の答えを聞いた政景は、呆れとも嘆きともつかない表情を浮かべた。
そんな義兄の顔を見て、輝虎は苦笑する。
「何せ、私は毘沙門天の生まれ変わりですから。武田の雑兵如きに討ち取られるはずが御座いませぬ。違いますか?」
「……」
誇らしげに胸を張りながら、さも当然そうに言ってのけた輝虎から逆に訊き返され、政景は返事に詰まった。
……と、
「まあまあ、あなた様。今更、もう過ぎた事へのお小言を虎千代殿に申してもしょうがありませんわ。実際、虎千代殿はこうして無事に帰ってこられたのですから、それで良いではありませんか」
輝虎が宿坊の件を話している最中に現れ、それまで黙ってふたりの話を聞いていた女が、政景にやんわりと言った。
女――輝虎の実姉であり、政景の妻である綾の言葉を聞いたふたりは、両極端な反応を見せる。
「いや、綾……そうは言うても……」
「さすが姉上。良くお分かりになっておられる!」
困惑の表情を浮かべる政景と、得たりとばかりに膝を打つ輝虎。
そんなふたりの顔を交互に見て穏やかに微笑んだ綾は、「それにしても……」と輝虎に言う。
「そんなに楽しかったのですか? その武田家の将とお酒を飲んだ夜が」
「ええ」
綾の問いかけに大きく頷いた輝虎は、薄雲がかかった初春の坂戸の空を見上げ、当時の事を思い出した様子で微笑んだ。
「話してみると実に気持ちの良い男でしたよ、左馬助は。とてもあの生臭坊主奴の弟だとは思えぬほどに」
「まあ……」
「……!」
彼の横顔に浮かぶ柔らかな笑みを見た政景と綾が、思わず顔を見合わせる。
――そして、
「……っ」
庭の隅で片膝をついて控えていた伊勢松の美しい顔が、一瞬だけ醜く歪んだ。
だが、距離が空いていた上、伊勢松が顔を僅かに伏せていたせいで、政景たちが伊勢松の表情の変化に気付く事は無い。
輝虎も、己の寵童が垣間見せた激しい感情の発露には気付かぬ様子で話を続けた。
「左馬助は、私が正体を明かした時には驚いていたようですが、すぐにこちらの意を汲んでくれて、私の事を敵将としてでも、関東管領としてでも、越後の国主としてでもなく……ただひとりの武士として接してくれたのです」
そう言って、細く息を吐いた輝虎は、
「……正直、それが何よりも嬉しかった……」
と、潜めた声で呟く。
――だが、その声は聴こえずとも、輝虎の横顔を見ていた政景には、彼が何を思っていたのか手に取るように理解できた。
小さく頷いてから表情を和らげた政景は、改めて輝虎の貌を見る。
手持無沙汰にほつれ落ちた前髪をいじっている彼の顔は、いつも春日山城で家臣たちや戦場で敵と対峙している時に見せているような“越後の虎”のそれではない。
むしろ、それとは対極ともいえる……そう、まるで――。
「……なるほど」
ふっと微笑んだ政景は、輝虎に頷きかけた。
「つまり、今日わざわざここまで参られたのは……」
「さすがは義兄上。話が早い」
輝虎は、政景の言葉を聞いて嬉しそうに顔を綻ばせ、縁側から腰を上げる。
「お察しの通りです。義兄上に、武田左馬助を出迎えに行って頂きたいのですよ」
そして、真っ直ぐに政景の目を見つめながら、言葉を継いだ。
「左馬助は、甲斐の国主であるあの生臭坊主……もとい、武田大膳大夫めの実の弟です。出迎えるにあたって、こちらも相応の者を寄越すのが筋というものでしょう」
そう言うと、彼はふと寂しげな表情を浮かべる。
「……と言っても、私にはもう実の男兄弟などおりませぬ。ですから……」
「それで、姉婿である私に白羽の矢が立ったという訳ですね」
輝虎の言葉の中途で遮った政景は、義弟がこくんと頷くのを見てから、恭しく首を垂れた。
「確と承りました」
「おお、引き受けて下さるか!」
「もちろんです」
ついさっきまでとは一変して喜色を露わにする輝虎に微笑みかけながら、政景は大きく頷く。
「殿の……いえ、お虎殿たってのお頼みとあらば、どうして引き受けぬ訳が御座いましょう」
「忝い!」
嬉しそうに声を弾ませた輝虎は、「ああ、そうだ」と呟き、伊勢松の方へ顔を向けた。
「伊勢松。馬の鞍に姉上たちへの土産を置き忘れてきてしまった。すまぬが、取ってきてくれ」
「……はっ、畏まりました」
輝虎の命令を受けた伊勢松は、一礼してから立ち上がり、厩の方へと向かう。
……と、
彼の背中が視界から見えなくなったと同時に、輝虎はやや声を潜めて政景を呼んだ。
「……越前」
「……っ」
それまでの“義兄上”ではなく官途名で呼ばれた意味を察した政景は、瞬時に“義兄”から“宿老”へと表情を変える。
「……何でしょうか、上様」
「出来れば、急ぎ……遅くとも、今夜のうちに発ってもらいたい」
政景と同じく、“上杉家の当主”へと立ち戻った輝虎は、淡々と言った。
「左馬助が、国境…………野尻城に達する前に、出迎えてほしい」
「野尻城に達する前に……?」
輝虎の奇妙な依頼に一瞬怪訝な表情で首を傾げかけた政景だったが、すぐにひとりの老将の顔が脳裏を過ぎり、ハッと息を呑む。
「――宇佐美駿河守……!」
「ああ」
思わず口をついて出た名に、輝虎は小さく頷いた。
「此度の和睦の話……駿河は心の底では承服しておらぬようだ」
「駿河守が……」
「それに……左馬助に対しても、先だっての川中島での戦以来、何やら含むところがあるきらいがある」
そう、僅かに眉を顰めながら言った輝虎は、どこか縋るような目を政景に向け、「だから……」と続ける。
「彼奴が妙な気を起こさぬよう、お主が余の代わりに目を光らせておいてくれ。――頼んだぞ、越前」




