主君と義弟
――時は、数日前の坂戸城へと遡る。
「今朝、春日山に早馬が参りました」
坂戸城の本丸御殿の縁側に腰を下ろし、出された白湯を一息に飲み干してから開口一番にそう言ったのは、越後を統べる上杉家の当主・上杉弾正少弼輝虎である。
寛いだ平服を纏った輝虎は、自分を出迎えた城主の長尾政景に、どことなく弾んだ声で言った。
「なんと、本当に武田左馬助自らが和睦交渉の使者として越後まで来るそうです」
「真に御座りますか」
輝虎の言葉を聞いた政景は、驚きを隠せぬ様子で目を丸くする。
そんな彼に大きく頷いた輝虎は、嬉しげに顔を綻ばせた。
「ふふふ……去年、足利覚慶様の使者が来た時に、内心では断られるに違いないと思いつつ、覚慶様の使者に『和睦の話は武田左馬助以外とはせぬ』と吹っ掛けたのですが……いやはや、申してみるものですな」
「あれを聞いた時は、てっきり『ああ、はじめから和睦する気など無いから、武田家の副将殿を呼びつけるなどという無理難題を突き付けて交渉の決裂を狙っているのだな』と思いましたが……」
政景は、珍しく上機嫌な様子の輝虎の顔を見ながら、苦笑いを浮かべる。
「そのご様子だと……どうやら、本気のお言葉だったようですな」
「ふ……然り」
ほんの少しだけ呆れ混じりの政景の言葉に、輝虎は悪びれもせずに頷いた。
「こうでもしなければ、武田の将である左馬助には、戦場以外では再び会えませんからな」
そう言って薄い雪雲がかかる空を見上げる輝虎の横顔を見ながら、政景は内心で(敵国の副将の男に、いたく御執心なようだ)と改めて驚く。
時々、輝虎は今日のようにふらっと坂戸城へ現れては、政景や彼の妻で自分の姉でもある綾相手に取り留めのない話をしていく事があった。
その際の輝虎は、義兄である政景の事をいつもの“越前守”ではなく、義弟としての礼を弁えるように“義兄上”と呼び、いつも家臣たちに見せている顔とはまるで違う、まるで無邪気な童のような表情を見せる。
「義兄であるあなた様の前では、“上杉家の当主”ではなく、ただの“虎千代”でいたいのでしょう」とは、彼の姉である綾の言葉である。
――恐らく、彼女の言う通りなのだろう。
上杉家の当主――そして、関東管領という大任を務める輝虎の肩には、常に重い重責が乗っている。
そんな“重荷”を彼が気兼ねなく下ろせる数少ない場所のひとつが、彼の姉婿である自分の前だという事を、政景は秘かに嬉しく思っていた。
だから、輝虎が政景の元を私的に訪れた際に俎上へ上る話は決まって幼少の頃の思い出話ばかりで、政に関する話はほとんどしない。
――だが、
最近になって、なぜか宿敵の武田信玄の弟である武田信繁が話に出てくる事が増えた。
しかも、かつては激しく戦い合い、今も国境を挟んで睨み合っている敵将のひとりであるにもかかわらず、輝虎は信繁の事を妙に高く評価しているきらいがある。
「上さ……いや、お虎殿は……」
「ん?」
思わず口をついて出た呟きが、輝虎に聞き取られた。
訝しげに自分を見上げる輝虎に一瞬たじろいだ政景だったが、すぐに意を決して浮かんだ疑問を率直にぶつける。
「その……一体なぜ、敵将である武田信繁という男の事をそこまで高く買っておられるのですか?」
「それは……」
政景の問いかけに、輝虎は一瞬言い淀み、目を中空に向けた。
だが、すぐに小さく頷き、再び政景へ視線を戻す。
「……義兄上、これは他言無用に願いたいのですが――」
「殿……!」
輝虎が話を切り出しかけたところで、鋭く制止する声が上がった。
声の主は、輝虎の供として春日山城からついてきていた寵童の上村伊勢松である。
輝虎たちから少し離れた庭に敷かれた玉砂利に片膝をついた体勢で控えていた伊勢松は、その整った美しい顔立ちに険しい表情を浮かべながら主に言った。
「畏れながら、あの夜の事は、妄りに他人へ話すものではないかと……」
「妄りには話してはおらぬぞ」
伊勢松の言葉を聞いた輝虎は、少し辟易した様子で答え、肩を竦めてみせる。
「それに、“他人”などでもない。義兄上は、余の姉婿殿……数少ない身内のおひとりだ」
「ですが……」
輝虎の答えにたじろいだ伊勢松だったが、それでも負けじと言い返した。
「あの件は、未だ大和守 (直江景綱)や宇佐美 (定満)様にもお伝えしていないのに……」
「あのふたりに知られたら、一昼夜かけてこってりと搾り上げられるに決まっておるからな」
苦笑しながら首を横に振った輝虎は、政景の顔をちらりと窺い見る。
「……その点、義兄上なら、笑って許してくれるに違いない。まあ、お呆れにはなるかもしれぬが」
「いやいや。話次第では、そうと保証は出来かねますぞ」
軽口めいた輝虎の言葉に、政景は難しい顔を作りながら頭を振ってみせた。……とはいえ、いくら口でそう言ってみせたところで、結局は輝虎の言った通りになるであろう事は、自分でも薄々察しがついている。
そんな彼の内心を見透かしたように、まるでいたずらっ子のような無邪気さを帯びた笑みを浮かべた輝虎は、なおも言い募ろうとする伊勢松を目で制してから、少しだけ声を潜めて「実は……」と切り出した。
「一昨年の川中島での戦の後、善光寺の宿坊で秘かに会うて、互いに酒を酌み交わしたのです。――左馬助と」




