酒と終宴
一方、その頃――。
「ふぅ……」
夕餉を摂った後も広間で信繁と酒を酌み交わしていた政景は、すっかり赤らんだ顔で満足げに息を吐いた。
そんな彼に、片口を掲げた信繁が声をかける。
「さ、長尾殿、もう一献」
「あ……いえ」
空になった盃に酒を注ごうとする信繁に、政景は少し慌てた様子で片手を挙げた。
「些か飲み過ぎました。もう、これで結構に御座ります」
「ああ、これは失敬」
政景の返事を聞いた信繁は、コクンと頷いて片口を置く。
そんな彼に穏やかな笑みを向けながら、政景が感心した様子で言った。
「武田殿は、なかなか酒がお強う御座りますな」
「いやいや……」
政景の言葉に、信繁は些か面映ゆそうに頭を振る。
「それほどでは……。現に、もうだいぶ酔いが回っておるようで、先ほどから舟に乗っているかのように視界が揺れ続けておりまして……」
「ははは、私も同じです。まあ、私の方は暴れ馬に跨っておるかのように、ですが」
冗談めかした信繁の答えに笑い声を上げながら軽口を返した政景は、ふと目を細め、しみじみと言葉を継ぐ。
「……上様の酒に付き合った時も、いつもこうです。いつも私が先に潰されてしまって、上様の方はケロリとしていて……」
「噂には聞いておりましたが、随分と酒が強いようですな、上杉弾正少弼様は」
「ははは、甲斐の方まで噂になっておりますか。上様の蟒蛇っぷりは」
信繁の言葉を聞いて愉快そうに顔を綻ばせた政景は、「ええ」と大きく頷いてみせた。
「まったく……さほど体も大きくないのに、どこにそんな大量の酒が入るのかというくらいお飲みになられますな。それでいて、どんなに深酒をしても酔った素振りなど毛ほども見せぬという……」
「ほう……それほどにですか」
感嘆した様子で相槌を打ちながら、信繁は一昨年の善光寺の宿坊を思い返す。
(そう言われれば……確かに、あの時の上杉殿は、全く酔った様子を見せなかったな)
「――武田殿は、上様とお会いになった事があるのですよね? 一昨年に」
「…………えっ?」
唐突な問いかけに不意を衝かれた信繁は、同時にドキリとした。
――ちょうど、善光寺の宿坊で上杉輝虎と会った時の事を思い返していた彼は、自分の心の内を見透かした政景が、実の兄であり主である信玄にすら気後れして話していない密事を言い当てたのかと驚愕したのである。
「そ、それは……」
どう答えるべきか激しく迷って、信繁は口ごもった。
一方の政景は、そんな信繁の狼狽を知る由もない様子で言葉を継ぐ。
「川中島での乱戦の中、互いに刀を振るって勇ましく戦ったと伺っております」
「あ、あぁ…………そちらの方ですか」
「? そちらの方……?」
「あ、いえ……何でも御座らぬ」
宿坊の事ではないと知って思わず安堵の表情を浮かべた信繁だったが、それを見て訝しげに訊き返す政景に慌てて首を横に振った。
そして、誤魔化すように盃に残った酒を一口飲み、話を戻す。
「……不意を衝かれたとはいえ、軍を預かる総大将ともあろう者が手傷を負った事が上杉方まで伝わってしまっているとは……お恥ずかしい限り」
「あぁ、いえいえ」
弱り顔で頭を掻く信繁に、政景は軽く首を横に振った。
「その事を知る者は、当家中にはほとんどおりませぬ。私を含めても数名といったところかと」
「あ、そうでしたか」
政景の言葉にホッとする信繁だったが、新たな疑問が湧く。
「……では、なぜ長尾殿はご存知なのですか?」
「直に聞きました。上様ご本人から」
「ご、ご本人の口から……ですか?」
信繁は、思わず目を丸くした。
その反応に対し、政景は愉快げに口元を綻ばせながら、「左様」と頷く。
「ふたりきりで飲んでいた時に、一昨年の戦の話になりましてな。その際に、上様が楽しそうに話しておられたのですよ」
そう言って、政景は目を細めた。
「……考えてみれば、あの時の上様はいつもより大分饒舌でした。もしかするとあの方なりに酔っておられたのかもしれませんな。……あんな事まで口になさるほどに」
「……あんな事?」
「あ……いえ、ただのひとり言です」
訝しげに訊き返した信繁に軽く頭を振った政景は、「さて……」と居ずまいを正す。
「すっかり遅くなってしまいましたな。明日の出発に備えて、この辺りでお開きといたしましょう」
「ああ……そうですな」
政景の言葉に、信繁も微笑みながら頷いた。
「今宵は楽しい酒で御座った」
「こちらこそ。下戸の酒飲みにお付き合い頂きまして、ありがとうございます」
そう言って軽く会釈した政景は、ゆっくりと立ち上がろうとする。
……が、
「おっ、とと……」
「あ、大丈夫ですか?」
「はは……情けないところをお見せしてしまいました」
酔いが回っていたのか、立ち上がりばなによろめいた政景は、慌てて腰を浮かせかけた信繁を軽く手を挙げて制し、それから照れたような笑いを浮かべた。
そして、今度はしっかりと足を踏ん張って立ち上がると、信繁に向かって目礼する。
「それでは、これにて失礼仕りまする。今宵はゆるりとお過ごし下され。……とはいえ、ついこの前まで互いに戦っていた相手の城の中では、気など休まらないかもしれませぬが」
「あ、いえ、そのような事は……」
「ですが、どうぞご安心召されよ」
政景はそう言うと、信繁の目を真っ直ぐに見つめた。
「先ほど……この野尻城へ渡る前にも申し上げましたが、武田殿と供回りの者たちの身に何か危害が及ぶ事など起こらぬと、この私が確と保証いたしましょう。ですから――」
「相分かり申した」
口元を僅かに綻ばせながら、信繁は大きく頷く。
「そうおっしゃられるのなら、お言葉に甘えて、存分に寛がせて頂く事にいたしましょう」
「ふふ……それで結構」
信繁の返事を聞いた政景は、満足げに頷くと、廊下へつながる襖を開けた。
そして、廊下に出る前に再び信繁の方へ振り返り、軽く頭を下げる。
「それでは、また明朝」
「はっ。長尾殿もゆっくりとお休み下され」
「……また、武田殿とは違う機会にゆっくりと話をしとう御座いますな」
そう、しみじみと呟いた政景は、穏やかな微笑を浮かべた。
「そう……今度は酒ではなく、茶でも点てながら……」




