密談と諜報
激しく降り続いていた雷雨は、一刻ほどで完全に止んだ。
まだ日暮れまでは少し時間があったものの、信繁と政景、そして光秀が話し合い、先ほどの大雨でただでさえ雪解けで緩んでいた土壌の状態が更に悪化した可能性を考え、今日はこのまま野尻城に一泊する事に決めた。
急遽、信繁や光秀たちとその供回りたちを泊める事になった野尻城は、にわかに慌ただしくなる。
城主の宇佐美定満が各所へ指示を出して、五十人以上もの人員を城内へ受け容れる準備をする中、広間の信繁たちは急拵えの夕餉を摂った。
昌幸や昌澄は、当然のように夕餉の膳の中に何か仕込まれているのではないかと疑い、また、いつ何時刀を携えた城兵たちが乗り込んできても対処できるようにと気構えていたものの、政景が保証していた通り、そのような不埒な事は起こらなかった。
だが――、
「……なに?」
夕餉の後、小用に立った厠の中で、昌幸は訝しげな声を上げる。
「宇佐美駿河守が……自分の部屋で誰かと会っていただと?」
『ああ』
昌幸の問いかけに対し、厠の壁の向こうから潜めた声が返ってきた。
それを聞いた昌幸は、眉間に皺を寄せながら、当然のように浮かんだ疑問をぶつける。
「……会っていたのは誰だ? 佐助よ」
『それは分からん』
厠の外壁の陰に身を潜めた佐助は、昌幸の問いかけに対し、首を横に振った。
『曲者が入らないかを警戒して、オレはずっとお前たちのいる広間に引っ付いていたからな。宇佐美定満が二度目に広間を出た時には後を尾行けたが、奴が部屋の中に入っていた時には、その相手は既に中で待っていたらしく、姿を確認することはできなかった』
「部屋の中を覗き見る事は出来なかったのか?」
『無茶を言うな』
昌幸の問いかけに、佐助はムッとした声を上げる。
『気配を殺していたが、あの部屋の屋根裏と軒下には上杉方の軒猿 (忍び)が潜んでいたのが分かった。あれ以上近付いたら、逆にオレの存在が向こうにバレて、面倒な事になっていただろう』
「そうか……」
佐助の答えを聞いた昌幸は、髭の無い顎に指を当てながら、「だが……」と呟いた。
「部屋に自分の忍びを潜ませていたという事は……盗み聞きされたくないような話をしていた可能性が高いという事だな」
『恐らくな……』
昌幸の言葉に、佐助も小さく頷く。
それを聞いた昌幸は、ますます表情を険しくさせた。
「中でどんな話をしていたのか……少しでも聴けなかったか?」
『……すまぬ』
板壁の向こうからの問いかけに、佐助は沈んだ表情で頭を振る。
『いつもなら、あの距離くらいならば“遠聴き”出来るのだが……さすがにあの雨と雷の中では無理だった』
「あ、そうか……」
佐助の話で先ほどまで降りしきっていた凄まじい豪雨を思い出した昌幸は、少し残念に思いながらも納得した。
納得はしたが……やはり、定満と話していたのがどこの誰で、何を話していたのかは気になる。
「このような時に、俺たちに隠れてコソコソと話し合うような内容……碌な事ではないのは確かだろうな」
『……恐らく、な』
昌幸の言葉に、佐助も同意した。
それを聞いた昌幸は、厳しい表情を浮かべながら厠の戸を開ける。
そして、脇の脇の手水場で手を洗いながら、身を潜めた佐助に囁いた。
「……佐助、お前は宇佐美を張れ。あの男が何か怪しい動きをしたら、すぐ俺まで知らせろ。いいな」
「分かった。……が、いいのか?」
少しだけ訝しげに、佐助が訊き返す。
「そうすると、そちらへの警護には手を回せなくなるが……」
「構わぬ」
佐助の問いかけに、昌幸は濡れた手を手拭いで拭きながら小さく頷いた。
「典厩様は、俺と武千代 (香坂昌澄)で護る。何があっても、典厩様のお身体には傷ひとつ付けさせやせぬ」
「それは大層勇ましい事だが……上杉方の人間は、宇佐美定満だけではないぞ」
意気込む昌幸に、佐助が少しだけ心配そうに言う。
「越後から出迎えに来た長尾政景とかいう男……あいつも警戒すべきじゃないか?」
「十中八九、長尾越前守の方は大丈夫だ」
昌幸は、佐助の言葉に小さく首を横に振った。
「山道で会ってからここまでずっと見ていたが、その間に怪しい素振りを見せる事は全く無かった。あの男に関しては、二心は無いと信用しても良いと思う」
「……なんだ、根拠は印象だけか」
「なにも、印象だけという訳では無いさ」
佐助の呆れ声にムッとしつつ、昌幸は答える。
「どうやら宇佐美は、俺たち武田側の者だけではなく、長尾越前守からも密談の件を隠したいらしい。宇佐美が『腹が痛い』と言い訳をして席を外した時、越前守は彼奴の事を本当に案じていた。あの反応から見て、越前守が宇佐美の企みを知った上で口裏を合わせているとは考えづらい」
「演技ではないのか?」
「乱破のお前ほどじゃないが、俺も人の嘘を見破る目は人並み以上にあるつもりだ」
昌幸は、疑う佐助の声に苦笑しながら頭を振った。
「……」
そんな彼の返事を聞いた佐助は、小さく息を吐いてから凭れ掛かっていた板壁から背を離す。
そして、背中越しに昌幸の方へ振り返った。
「……承った。お前の言う通り、俺は宇佐美定満の動きを監視する。オレの代わりの乱破をそちらの方に回しておくから安心しろ」
「分かった。頼む」
手を拭き終えた手拭いを懐の中にしまいながら、昌幸は微かに頷く。
「……何か異変があった時の合図は」
「“狐声四つ”でどうだ?」
「ああ、それで構わん」
と、短く手筈を確認し合ったふたりは、そのまま何食わぬ顔をして、それぞれの行く先へと戻っていくのだった……。




