閉じた扉の向こう側
秋の生徒会室は、書類の山と夕焼けの色に満ちていた。
魔法祭の会計整理。ギャラントとラウリは先生に呼ばれて出ていき、部屋には私とユリオス会長の二人だけ。
「これで最後の束だね。お疲れさま、リリー」
「会長こそ。ずっと座りっぱなしで――」
言いかけて私は言葉を失った。
つま先の感覚が、ない。
(……こんな、ところで)
背筋が凍る。人前で発動したことは一度もなかった。ましてやこの人の前でなんて。
「リリー?」
ペンを止めた会長が、私の顔を覗き込む。
「顔色が悪い。……足が、震えてる?」
白く硬くなっていく脚に、彼の視線が落ちた。碧い瞳が大きく見開かれる。
「これは……リリー、先生を呼ぼう。すぐに医務室へ」
「……大丈夫です」
「大丈夫なわけないだろう!」
「大丈夫、ですので」
それしか言えなかった。声が軋んで、うまく出ない。手首のバングルを震える指で押す。
お願い、カイゼル。早く。
こんな姿、見られたくなかった。気味悪がられるのが、怖かった。この人に、人形の女の子だと思われたくなかった。
バン!
扉が乱暴に開いて、風が吹き込んだ。
「リリー!」
カイゼルは会長には目もくれず、私の前に膝をつく。黒い瞳が、ただ私だけを見ている。
「待たせた」
そして、私の額にそっと唇を落とした。
――あたたかい。
脚が、指が、色を取り戻していく。ほっと息を吐いた私の視界の端で、ユリオス会長が立ち尽くしていた。
*
「……説明、してくれるかな」
いつもの穏やかな声だった。でも、指先が強く握られている。
私はすべてを話した。呪いのこと。つま先から人形になること。カイゼルの口づけが、一時的にそれを解くこと。この学園に来た、本当の理由。
話し終えても、彼はすぐには何も言わなかった。怖くて、顔が上げられない。
「……話してくれて、ありがとう」
やがて聞こえたのは、驚くほどやさしい声だった。
「僕でも、呪いを解く方法を探してみるよ」
「え……」
「王族の閲覧許可があれば、禁書庫にも入れる。君ひとりで探すより、ずっと早い」
「気持ち悪く、ないんですか。私、人形に……」
「なぜ?」
ユリオス会長は、本当に不思議そうに首を傾げた。
「君が、君であることは変わらないよ」
目の奥が、熱くなった。人形になる私を、そんなふうに言ってくれた人は、カイゼル以外にいなかった。
「王子様」
黙っていたカイゼルが、低い声で口を開く。
「この話は、口外するな」
「約束するよ」
「……お前の『約束』を、信じていいのか」
二人の間に、火花のような緊張が走った。ユリオス会長は、少しだけ笑った。
「信じなくていい。行動で示すから」
カイゼルはしばらく彼を睨んで、やがて小さく頷いた。
*
それから私たちは、放課後になると図書館の奥に通うようになった。
埃の匂いのする禁書庫。ろうそくの灯り。古い呪術書をめくる指先が、時々ふれる。
「会長、寒くないですか?」
「君の火が隣にあるからね。ちょうどいい」
雨の日は、傘をひとつ差して寮まで歩いた。彼の肩が濡れていることに気づいて傘を押し返すと、「共犯者の風邪は困る」と、押し戻された。
夕焼けの屋上では、彼が水で小さな睡蓮を作ってくれた。
「呪いは解けなくても、これくらいならね」
手のひらの上で揺れる、透明な花。
「……きれいです」
「君が笑うと、もっときれいだ」
顔が熱くなって、私は必死に空を見上げた。
日を重ねるごとに、この人のことを考える時間が増えていく。名前を呼ばれると、嬉しい。呼ばれない日は、少し寂しい。
これは、たぶん、もうごまかせない。
*
その夜、私は眠れずに窓辺に座っていた。
月のない夜。寮の門のあたりで、黒いフードの人影が動いた。そっと、誰にも気づかれないように、門を抜けていく。
風に揺れたフードの下から、金色の髪がちらりと覗いた。
(……ユリオス会長?)
どこへ。こんな夜中に、一人で。
翌日、生徒会室で二人きりになったとき、私は思い切って聞いてみた。
「昨日の夜、どこかへお出かけでしたか?」
ほんの一瞬。ペンを持つ手が、止まった。
「夜の散歩だよ。生徒会長にも、眠れない夜はあるんだ」
いつもの、完璧な笑顔。
なのに、私にははっきりと聞こえた。笑顔の向こうで、静かに、扉が閉まる音が。
あんなに近くにいたのに。一緒に笑って、秘密を分け合ったのに。
この人の一番深いところには私はまだ、入れてもらえていない。
それが悲しくて、そして――どうしようもなく、知りたかった。




