祝福(カイゼル後日談②)
―――カイゼル―――
春。
海を越える船の甲板に、二人は並んで立っていた。
潮風が、リリーの銀の髪をふわりと揺らす。
遠くに、白い港町の屋根が小さく見えてきた。
「わあ……! 見て、カイゼル! 本当に大きな街!」
「ああ」
「あそこに行くはずだったんだね、私」
「……ああ」
「変な感じ。行かなかった、もうひとつの人生の場所に、今こうして向かってるなんて」
リリーは、船の手すりから身を乗り出した。
「危ないぞ」
「大丈夫。カイゼルがいるから」
言った瞬間、ふわりと、優しい風が彼女の背中を支えた。
「……ほらな」
「ふふ」
リリーは、俺の肩にこてんと頭を預けた。
「ねえ、カイゼル」
「なんだ」
「私ね、今、すごく幸せ」
「…………」
「離れられないんじゃなくて。離れなくていいんだね」
俺は、彼女の肩をそっと抱き寄せた。
「ああ」
声が、少しだけ掠れた。
「離れなくていいんだ。……ずっと」
空を、白い海鳥が飛んでいく。
波が、船の腹を優しく叩く。
あの雪の夜、震える声で願った。
『リリーと、ずっと、いっしょにいれますように』
その願いは、九年の遠回りをしてようやく、本当の意味で叶った。
呪いではなく、約束として。
二人の手首には、もう鎖はない。
ただ、揃いの青い石だけが、春の光を浴びてきらきらと輝いていた。
*
―――リリー―――
結婚式のあと二人は港町の小さな宿に泊まった。
私が幼いころ暮らす予定だった町はとても穏やかなところで、二人は気に入って定期的に訪れていた。
結婚式のあとこの町に寄ろうと言い出したのはどちらだったか。
夜の波は穏やかで、二人を祝福しているようだった。
宿の二階。カイゼルは窓辺で緊張した様子だった。
黒い瞳が、ランプの灯りに揺れている。窓の外からは、遠く波の音が規則正しく聞こえていた。
「……リリー」
「なに?」
「今更だけど。……本当に、俺でよかったのか」
「なんで、そんなこと聞くの」
「お前には他にも選択肢があっただろ」
少し不安げな、その言葉に。
私は彼の頬にそっと両手を添えた。
「私が選んだのはカイゼルだよ。九年前も今も」
「……」
「あなたが、隣にいてくれたから、私はずっと怖くなかった。呪いのことも、それ以外のことも」
「リリー……」
「今夜も。……これからもずっと」
彼の手がそっと私の背中に回された。指先が震えているのが伝わってくる。
「……ありがとう」
掠れた声。
彼の目に光るものがあった。
「泣いてる?」
「泣いてねえ」
「泣いてるよ」
「……うるせえ」
照れ隠しのいつものぶっきらぼうな声。
それでも、彼の腕は優しく、私を包み込んでいた。
「……ずっと唇にしたかった」
鐘楼のあの言葉を彼はもう一度囁いた。
「今は何度でもしていい?」
「うん」
唇が、そっと重なる。最初は確かめるように。それから、彼の手が私の後頭部をそっと支えると、口づけはより深くなっていった。
波の音が、遠くから規則正しく寄せては返している。
窓の外で夜風が静かに吹いていた。
もう誰かを縛る風ではない。
ただ、二人を優しく、包み込むあたたかい風だった。
*
夜半。
波の音を子守唄に、カイゼルの腕の中で私はまどろんでいた。
「……起きてるか」
「うん、少しだけ」
「……九年長かったな」
「そうだね」
「その分、これから埋め合わせる」
「埋め合わせ?」
「一日分の幸せを、二日分にして返す」
あまりにも彼らしくない、まっすぐな言葉に、私は思わず笑ってしまった。
「なんだよ」
「ううん。……カイゼルが、そんなこと言うなんて思わなかった」
「……お前限定だ」
ぶっきらぼうにそう言って。
カイゼルは私の髪にそっと顔を埋めた。
「……この匂い、昔から好きだった」
「え?」
「今、言うことじゃなかったな」
「もう遅い」
くすくすと笑いながら、私は彼の胸に頬を寄せた。
波の音と彼の鼓動が重なって、ゆっくりと子守唄のように響いていた。
*
―――カイゼル―――
眠ってしまった、リリーの顔を、俺は飽きることなく見つめ続けていた。
九年間、ずっと、この寝顔を見てきた。呪いで白く固まった顔ではなく、こうして安らかに眠る顔を。
(……ようやく、だな)
あの雪の夜。俺が身勝手な願いを口にしたせいで、こいつはずっと苦しんできた。
それでも、こいつは一度も、俺を恨まなかった。
「ありがとう」って、いつも笑って言ってくれた。
その笑顔に、俺は何度、救われたかわからない。
銀色の髪を、そっと指で梳く。壊れ物を扱うみたいに、そっと。
(大事に、する)
もう、呪いなんかじゃなく。
俺自身の意思で。俺自身の想いで。
こいつを、この先ずっと大切にしていく。
愛おしくてたまらなくて。
胸の奥が、痛いくらいにあたたかかった。
「……好きだ、リリー」
誰に聞かせるでもない、小さな声で呟いた。
波の音だけが、その言葉を静かに聞いていた。
*
翌朝。
潮風の匂いに私は目を覚ました。
「……おはよう」
隣でカイゼルが静かにこちらを見つめていた。
「おはよう、カイゼル」
「……よく眠れたか」
「うん。……すごく」
彼は少しだけ微笑んで。私の乱れた髪をそっと指で整えた。
窓の外には港町の朝の景色が広がっていた。
カモメの声。船の汽笛。潮の匂い。
二人は手を取り合って、ゆっくりと新しい一日を歩き始めた。




