魔女の取引
―――カイゼル―――
夜の図書館は、静まり返っていた。
閉館後の、灯りの落ちた広間で、俺は金色の目の魔女と向かい合っていた。
「……九年ここにいたのか」
「五年というところかね。お前が、この学園を受けると聞いたから、先回りして待っていたのさ」
魔女は、司書の椅子にゆったりと腰かけていた。老女のようにも、若い娘のようにも見える。あの雪の夜と、何も変わらない。
「リリーにあの本を読ませたのはお前だな」
「あの子は、賢い子だ。放っておいても、いつか辿り着いたろうよ。私は、少し背中を押しただけさ」
「なんのために」
「決まっているだろう。時が、満ちるからだよ」
魔女は、指を一本立てた。
「言ったろう、坊や。願いには対価がある。呪いは、時間をかけて育つと」
背筋が、凍りついた。
「……最近、発動の間隔が短くなっているのは」
「そう。願いが、満ちてきている」
魔女は、窓の外の月を見上げた。
「次の満月の夜。鐘楼の鐘が、真夜中を告げるとき願いは完成する。あの子は、完全な人形になる。もう、真実の愛の口づけでも戻らない」
「――ッ!」
俺は、机を叩いた。
「そんなこと、させるか! 願いを取り消せ!」
「取り消すかい?」
魔女は、面白そうに首を傾げた。
「できないことはない。ただし、願いに紐づいた縁も一緒に消える。あの子の中から、お前の記憶が全部消えるよ。出会ったころからの、思い出がね」
言葉が、出なかった。
リリーが、俺を忘れる。
あの笑顔も。一緒に食べた菓子も。雪だるまを作った冬も。全部。
膝が、笑った。
「……それで」
喉の奥から、声を絞り出す。
「それで、リリーが自由になるなら」
「ほう」
「取り消せ。お前の、力で」
「くくく。……坊やお前は本当にいい子だ」
魔女の金色の瞳が、憐れむように細められた。
「では、ひとつだけ教えておいてあげよう」
「……?」
「私は、最初に言ったね。解く方法は、『愛し合う二人の、口づけ』だと」
「……ああ」
「私は、『お前以外の、誰かと』とはひとことも言っていないよ」
一瞬、意味がわからなかった。
「……何を」
「愛し合う二人。それが、誰と誰なのか決めつけたのは、お前自身だろう」
頭が、真っ白になった。
「リリーは、俺を迷惑がってる。俺の唇口づけられるを、嫌がって」
「そう、あの子が言ったのかい?」
「…………」
「あの子が、お前をどう思っているか確かめたのかい?」
「…………」
何も、言えなかった。
確かめたことは、ない。
怖かった。もし確かめて、「ただの幼馴染」だと言われたら。もし、「嫌い」と言われたら。
それなら、最初から確かめない方がいい。
そうして、九年間逃げ続けてきた。
「……お前が育てたんだよ」
魔女は静かに言った。
「私が呪いに込めた対価は、お前たちが互いに想いを隠して、すれ違った時間さ。それが、呪いを育てた」
立ち上がって、彼女は、俺の肩にぽんと手を置いた。
「満月まであと三日。よく考えるといい」
姿が、影に溶けるように消えていった。
俺は、その場に長い間立ち尽くしていた。
*
―――リリー―――
三日間、私は、カイゼルを避け続けた。
顔を合わせたら、また、泣いてしまいそうで。
生徒会室の隅で、ぼんやりと机に突っ伏していると、ふわりとあたたかい光が頭の上に灯った。
「リリー、大丈夫?」
ラウリ先輩だった。
「……先輩」
「元気ないなあって思って。よかったら、お菓子食べる? レモンのクッキー」
「ありがとうございます」
クッキーを一枚、かじる。優しい酸っぱさ。
「あのね、リリー」
ラウリ先輩は、隣の椅子に座って私の周りをじっと見つめた。
「僕ね、実は見えるんだ。君の中の呪いが」
「え……」
どうして。誰にも、話したことがないのに。
「靄みたいに見えるんだよ。……黒い、もやもやしたものが。ずっと、気になってた」
彼は、少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「でもね、それだけじゃないんだ」
「?」
「その靄から、細い糸が伸びてる。どこまでも、遠くまで続いてる」
ラウリ先輩の視線が、窓の外へ向いた。
図書館のある、校舎の方角。
「呪いの糸は、普通真っ黒なんだ。人を縛って締めつけるだけの、冷たい糸。……でも、この糸は違う」
「違う……?」
「あったかい光を帯びてる。まるで、誰かの必死な想いがぎゅっと詰まってるみたいに」
息が、止まった。
「この糸の先に誰がいるか、僕は、知ってるよ」
「…………」
「願いって、悪いだけのものじゃないのかもね」
ラウリ先輩は、いつもの太陽みたいな笑顔で言った。
「リリー。君は何を伝えたいの?」
心臓が、どくんと鳴った。
私は、唇を噛んで。
それから小さな声で言った。
「……ずっと好きだったって」
「うん」
「呪いのことも、関係なくて。小さい頃から、ずっと、ずっと」
「そっか」
ラウリ先輩は、にっこり笑って私の背中をぽんと押した。
「じゃあ言いに行かなきゃ」
*
でも、カイゼルは、どこにもいなかった。
寮の部屋は、空っぽ。図書館にもいない。教室にも、中庭にも。
「リリー」
仕方なく戻った生徒会室の窓辺に、ユリオス会長が立っていた。
「彼なら、さっき鐘楼の方へ歩いていくのを見たよ」
「鐘楼……!」
「今夜は満月だね。……随分、思い詰めた顔をしていた」
会長は、穏やかに微笑んだ。
「事情は、詳しく聞かない。でも、君が彼を追いかけるなら、僕たちも同行しよう」
「え?」
「生徒会の緊急事態、ということで」
「面倒くせえな……」
ギャラントがあくびをしながら、立ち上がる。
「だが、あいつがなんかやらかすなら放っておけねえ。俺も行く」
「行く行く! 僕も!」
ラウリ先輩が手を挙げた。
「みなさん……」
「さあ、行こうか。急がないと鐘が鳴る」
私は、涙をぐっと拭って頷いた。
*
鐘楼は、学園の北の端にそびえていた。
古い石造りの、細く高い塔。満月が、その真上で白く冴え冴えと光っている。
螺旋の階段を、駆け上がる。
一段、また一段。
その途中で。
つま先に、感覚が消えた。
(――来た!)
それも、今までと比べものにならない速さで。
あっという間に、足首。膝。太もも。
「リリー!?」
「先輩、だめ、止まらない……!」
バングルを押す。でも、カイゼルは、もう上にいる。
「任せて!」
ラウリ先輩が、私の前に回り込んで両手を私の脚にかざした。
『日ざしよ、彼女の時を、とどめて!』
金色の光が、溢れる。
白い色の進みが、ぐっと鈍った。
「長くは、持たない……! 急いで!」
「俺が担ぐ」
ギャラントが、ぶっきらぼうに私を背負った。
「ちゃんと掴まってろ!」
「道は僕が開くよ」
ユリオス会長が、水の帯を階段の上へ放った。行く手を塞いでいた崩れかけの石が、流されていく。
塔の上から。
ごぉぉぉんと、鐘の音が響いた。
真夜中まで、あと少し。
私は、ギャラントの背中で必死に叫んだ。
「カイゼル……! 待って! 行かないで……!」




