隠された一ページ
―――リリー―――
図書館の禁書庫に入る許可をくれたのは、司書のミルドレッド先生だった。
「生徒会の首席のお嬢さんなら特別だよ」
鍵を渡してくれた、穏やかな笑顔。眼鏡の奥の瞳は、優しく細められている。
「呪いの記録を探しているんだろう? 奥の棚の、古い書物にあるかもしれない」
「ありがとうございます、先生!」
その日から、私は、放課後になると禁書庫にこもった。
ミルドレッド先生は、紅茶を淹れてそっと机に置いてくれる。
「頑張り屋さんだねえ」
「先生のおかげです。私、本当に、助かってます」
「いいのさ。……久しぶりだからね。こんなに、熱心な子を見るのは」
その言葉の意味を、私は深く考えなかった。
*
「あの司書には近づくな」
突然、廊下で腕を掴まれた。
振り向くと、カイゼルが怖いくらい真剣な顔で立っていた。
「え?」
「ミルドレッドとかいう、あの女だ。禁書庫に通うのは、やめろ」
「どうして? 先生は、親切に――」
「理由は言えない」
「…………」
私は、腕をそっと振りほどいた。
「いつもそうだよね」
声が、震えた。
「大事なことは、何も言ってくれない。私の呪いのことなのに。私のことなのに、私だけ何も知らない」
「リリー、違う、俺は」
「私、わかってるよ。カイゼルが、何か隠してるって。ずっと、前から」
カイゼルの顔が、強張る。
「私は、呪いを自分で解く。カイゼルの助けは、いらない。だから、放っておいて」
言った瞬間、後悔した。
でも、もう遅かった。
カイゼルは、傷ついたような、どこか諦めたような顔で黙り込んだ。
私は、彼の脇をすり抜けて走り出した。
*
その日の、夕方だった。
禁書庫の奥の棚。薄暗い、埃っぽい通路。
本をめくっていた私のつま先の感覚が、すうっと消えた。
(……来た)
バングルに、指を伸ばしかけて。
止まった。
(呼んだら、また、カイゼルに迷惑をかける)
あの、震える唇を思い出す。
嫌なことを我慢している人に。これ以上、我慢をさせたくない。
私は、歯を食いしばって手を下ろした。
(大丈夫。少しくらいなら待てる。自分でなんとか――)
白い色が、足首を這い上がってくる。ふくらはぎ。膝。
こんなに早く進むなんて、初めてだった。
息が、荒くなる。棚に、背中を預ける。
「……おやおや」
背後から、静かな声がした。
「辛そうだねえ、お嬢さん」
ミルドレッド先生が、ランプを片手に立っていた。
「せ、先生……大丈夫です。ちょっと、貧血で……」
「隠さなくて、いいんだよ」
先生は、私の脚をじっと見つめた。
驚いた様子は、なかった。まるで最初から知っていたみたいに。
「呼ばなくて、いいのかい? あの黒い髪の坊やを」
「……!」
「いいだろう。代わりに探し物をあげよう」
先生は、古びた革表紙の本を私の膝の上にそっと置いた。
「あなたがいちばん、知りたかったことだ」
勝手に、ページがひとりでにめくれる。
ある一頁で、ぴたりと止まった。
インクの滲んだ、古い文字。
『――雪の夜、幼い少年が、私の家を訪れた。彼は願った。「リリーと、ずっと、いっしょにいたい」。私は、その願いを叶えた。少女は、少年から、離れられない。離れようとする足から、人形に。解く術は、ひとつ。愛し合う二人の、口づけ』
文字が、ぐるぐると目の中で回った。
『少年の名は、カイゼル・マリオット。少女の名は、リリー・カラティア』
息が、止まった。
――カイゼル?
どうして。どうして、彼の名前が。
ぐらりと、視界が揺れる。
記憶が、逆流していく。九年前の冬。
父さんの遠い町への転勤の話。準備をしていた荷造りの箱。それが、ある朝突然取りやめになったこと。
私が、高い熱を出した朝。
玄関の前で泣きながら私を抱きしめていた、小さな男の子。
『戻って……お願い、戻って……!』
あの声を、私はずっと夢の中の出来事だと思っていた。
「……うそ」
涙が、ぽろぽろ頁の上に落ちた。
カイゼルが。
あの、優しい幼馴染が。
ずっとそれを知っていて。
ずっと一人でそれを――
「ああ、いけないねえ」
ミルドレッド先生の声が、遠くで聞こえた。
「随分、進んでいるよ。早く、あの坊やを呼ばないと。……間に合わなくなる」
気がつくと、膝の上まで私の体は白く冷たくなっていた。
「……っ」
震える指で、私はバングルの石を力いっぱい押した。
*
風が、禁書庫に舞い込む。
「リリー!!」
カイゼルが、息を切らして駆け込んできた。
私の前に、崩れ落ちるように膝をついて。
その目が、私の膝の上の開かれた本に止まった。
――時が止まった。
カイゼルの顔から、血の気が消えていく。
唇が、わなないて。
「……見たのか」
私は、何も言えなかった。
「…………」
彼は、ゆっくりと視線を上げた。私の額に。
「……先に戻す」
絞り出すように言って、震える唇で、額にキスを落とした。
ぬくもりが、広がる。白い色が、引いていく。
そして、体が動くようになった私は、震える手で本を彼に見せた。
「これ本当なの?」
カイゼルは、長いこと黙っていた。
やがて、床に深く頭を垂れた。
「……本当だ」
声が、かすれている。
「八つの冬だった。お前が、遠くへ行くと聞いて。……俺は、魔女に願った」
拳が、床の上で白くなるほど握られている。
「お前と、ずっといっしょにいたいって。ただ、それだけだったのに。……お前を、こんな体にしてしまった」
「カイゼル……」
「許さなくていい」
彼は、顔を上げなかった。
「ずっと、言えなかった。お前に嫌われるのが、怖かった。……最低だ。お前が苦しんでいる間、俺は、何食わぬ顔で隣にいた」
「…………」
「呪いを解く方法は、もうすぐ見つかる。俺が、必ず見つける。だから」
顔を、上げた。
黒い瞳が、とても静かに私を見つめた。
「呪いが解けたら、俺はお前の前から消える」
――え。
「二度と、姿を見せない。お前が、好きなところへ行けるように。……それが、俺にできる唯一の償いだ」
「…………」
頭が、真っ白になった。
消える?
この人は、今なんて言った?
次の瞬間、私の中で、何かがぷつんと切れた。
「――ふざけないで!!」
叫び声が、禁書庫に響いた。
「え……」
「勝手に決めないで!」
涙が、ぼろぼろ溢れた。
「ずっと隠して。私に、何も言わずに。一人で背負って、一人で償って、一人で消えるって? そんなの、絶対に許さない!」
「リリー、俺はお前のために」
「私のためじゃない! それは、カイゼルが楽になりたいだけでしょう!」
カイゼルが、言葉を失った。
私は、彼の胸を拳でどんっと叩いた。
「カイゼルのばか! ばかばかばか!」
叫んで、本を床に叩きつけて。
涙を拭う暇もなく、私は、禁書庫を飛び出した。
*
―――カイゼル―――
静寂が、戻った。
俺は、床に膝をついたまま動けなかった。
許さないと、言われた。
当然だ。当然な、のに。
胸が、張り裂けそうだった。
「……くくく」
ふと、棚の陰から笑い声がした。
顔を、上げる。
ミルドレッドが、そこに立っていた。
眼鏡を外した、その瞳は、金色に爛々と輝いている。
「久しぶりだねえ、願いの坊や」
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
「……やっぱりお前か」
「よく育ったものだ。九年ぶりだよ。……ずいぶん、いい顔になった」
魔女は、雪の夜と何ひとつ変わらない、あの笑みを浮かべた。
「さあ、坊や。ここからが本番だ」




