迷い込んだ、風の魔法使い
―――カイゼル―――
放課後。中庭のベンチに、見慣れた上着がぽつんと置かれていた。
リリーのだ。
昼休み、今日は少し冷えるのに、あいつは「大丈夫!」と言って上着を脱いで予鈴が鳴るとそのまま走っていった。バカだ。
(……届けるか)
行き先は、わかっている。生徒会室。
入ったことはない。用がないからだ。というより、あの場所は、なんとなく俺のような人間が足を踏み入れる場所じゃない気がしていた。
扉の前で、三度深呼吸してノックする。
「はーいどうぞ!」
開けた瞬間、光が溢れた。
窓から差し込む陽。大きな机を囲む、六人の笑い声。紅茶の甘い匂い。
「あ、カイゼル!」
リリーが、ぱっと顔を上げた。
「どうしたの? 珍しい」
「……上着。忘れてただろ」
「あっ! ありがとう! 寒かったんだ、実は!」
「だから、着ろって言っただろ」
用は、済んだ。帰ろう。
踵を返そうとした俺の袖を、誰かがぐいっと掴んだ。
「待って待って! 君、リリーの幼馴染のカイゼルくんだよね! 入学式で会った!」
水色の髪の男。ラウリ、とかいう会計だ。
「せっかく来たんだから、お茶していきなよ! ほら、このケーキ、僕の自信作なんだ!」
「用は済んだんで」
「ケーキ好きなんでしょ?」
……ぐ。
その一言で、足が止まってしまった。
「おや」
窓際の席から、金髪の王子が、穏やかにこちらを見た。
「せっかくだからどうぞ。リリーの大切なご友人なら、僕たちも歓迎するよ」
その碧い瞳が、俺の顔をゆっくりと観察している。王子の目だ。何かを、見定める目。
「あ? 誰だこいつ」
奥から、赤茶の髪の男がぎろりと睨んできた。庶務の、ギャラントとかいう男。
「リリーの幼馴染だってさ!」
「ああ、あの、風の。……ふん。ひょろいな」
「それ褒め言葉になってない!」
「リリーがいつも世話になってるらしいからな。……座れ」
睨みながら、椅子を引いてくれた。
意外と、悪い奴じゃないのかもしれない。
結局、俺は山盛りのケーキを目の前に置かれることになった。
「あら。あなたがリリーの言っていた、幼馴染?」
窓際の席から、栗色の髪の女生徒が、値踏みするように俺を眺めた。書記の、三年らしい。
「……そうですが」
「そう。リリーをちゃんと守っているようね。……偉いわ」
え、と思った。
この人は、どうして俺が「守っている」と知っているんだ。
「リリーは、私の可愛い後輩だから。あの子に何かあったら、あなたのところへ一番に苦情を入れるわ」
「……はあ」
「部外者の、生徒会室への立ち入りは本来、事前の届け出が」
書類の山の陰から、銀縁眼鏡の男が堅苦しい声を出した。副会長と、誰かが呼んでいた。
「エルンスト。堅いことを言わないの」
「規則です、ローゼンバーグ書記」
「じゃあ、その規則に『お茶を出してはならない』とは書いてあるの?」
「…………書いてはありません」
「ではお出ししなさい」
「……承知しました」
眼鏡の男は、ため息をついて立ち上がった。俺の前に、紅茶のカップが置かれる。その手つきが、妙に丁寧だった。
――さっきから、気になっていたことだが。
この二人、互いのカップをいつの間にか取り違えて飲んでいる。書記の女が副会長のカップを、副会長が書記のカップを。両方とも、気づいていない顔で。
(……あれだけ、お互いしか見てないのに)
どちらも、言わないのか。
人のことは、言えないが。
*
生徒会室は、うるさかった。
「だからさ、この予算案だとランタンが足りないんだって!」
「けれどもう予算を上げることはできないよ」
「うーん……なら、光の魔石を僕が余分に」
「お前の光だと、逆に眩しすぎんだろ」
「じゃあ、私の炎で色を」
「それは去年の文化祭で火災報知器が鳴ったのよ。張り切りすぎた演出係の子が」
「始末書が三枚でした」
「し、始末書……!」
誰かが話す。誰かが突っ込む。誰かが笑う。
賑やかで、あたたかくて。
俺は、紅茶を一口飲み込みながら、その中で笑っているリリーを眺めていた。
あいつは笑っていた。銀の髪を揺らして、口を開けて、心から。
(……よかった)
不意に、そんな言葉が胸に落ちた。
あの雪の夜から、ずっと怖かった。
俺の願いが、あいつを縛ったせいで、あいつが笑えなくなるんじゃないかと。呪いのせいで、誰にも心を開けなくなるんじゃないかと。
でも、違った。
あいつは、こんなにも自然にこの場所に溶け込んでいる。
胸が、じんと熱くなって。
同時に、鋭い痛みも走った。
(この輪の中に俺の席はない)
当然だ。俺は、あいつを縛った張本人なのだから。
あいつが本当に自由になるとき、俺は、あの輪の外から見ていればいい。
「カイゼルくん、口の端にクリームついてるよ!」
「…………」
「あはは、取ってあげる!」
「やめてください、 自分で取れます」
ラウリの手を、慌てて避ける。それを見て、リリーがげらげら笑った。
「カイゼルが慌ててるの、久しぶりに見た!」
「笑うな」
「ふふ、だって」
「彼女とは、幼い頃からの知り合いなんだね」
突然、王子が穏やかに切り込んできた。
「どんな関係なのか、聞いてもいいかな」
「……幼馴染だ」
「そう。幼馴染」
王子は、にっこりと笑った。その笑顔の意味がわからなくて、背筋が、うすら寒くなった。
「ふうん。なるほどね」
何が、なるほどなんだ。
「ま、まあ、いいじゃないですか、会長! カイゼル、せっかくだから、また来てよ!」
リリーが慌てて割って入った。
「私の幼馴染、口は悪いけど、風の魔法はすっごいんだから!」
「余計なこと、言うな」
「本当のことだもん」
……こいつは。こういうことを、平気で口にする。
「ごちそうさま」
俺は、逃げるように席を立った。
「もう帰るの?」
「ああ」
「またおいで! 君の席、ちゃんと作っておくからね!」
ラウリの能天気な声が、背中を追いかけてきた。
「…………来ねえよ」
扉を閉めながら、ぼそりと呟く。
でも。
廊下を歩きながら、気がつけば口元が、少しだけ緩んでいた。
*
その夜。窓辺で、俺は空を見上げていた。
あの輪の中に、席はない。
でも、あの輪が、あいつをあたためている。それが、俺にとって唯一の救いだった。
(いつかこの呪いが解けて、あいつが本当の意味で自由になったとき)
あの輪の中には、あいつを愛してくれる誰かがいるだろう。
その誰かの隣で、あいつが笑っている姿を想像する。
胸が、きりと痛んで。
それでも、俺は、目を閉じて静かにその光景を思い描いた。
それが、俺の願いで。
それが、俺の罰だから。




