願いの冬
カイゼル ルートスタートです!
―――カイゼル―――
あの冬のことを、俺は一日たりとも忘れたことがない。
八つの年の、雪の日だった。
「あのね、カイゼル。わたし、来月遠くの町に引っ越すの」
雪だるまの頭を丸めながら、リリーはいつもの笑顔で言った。父親の仕事の都合で、海を越えた先の大きな港町に移るのだという。
「でも、大丈夫! 手紙たくさん書くから! カイゼルも書いてね!」
笑っていた。けれど、鼻の頭が、真っ赤だった。
俺は、何も言えなかった。
その夜、俺は家を抜け出した。
行き先は、決めていなかった。ただ、雪の降る森の奥へ奥へと歩いた。町の大人たちが「森の奥には魔女が棲んでいる」と噂していたことだけを、覚えていた。
魔法ならば、大体の人が使える。
けれど、魔女という響きはなんだか普通とは違っていて。
魔女なら、なんとかしてくれるかもしれない。
子どもの、浅はかな、けれど本気の期待だった。
「――おや。迷子かい、坊や」
振り向くと、雪の中に小さな灯りの家がぽつんと建っていた。戸口に、金色の瞳の女が立っている。老女のようにも、若い娘のようにも見えた。
「願い事があるんだろう? 顔に、書いてあるよ」
女は、金色の目を細めて笑った。
「ひとつだけ、叶えてあげよう。さあ、言ってごらん」
俺は、震える声で答えた。
「……リリーとずっといっしょにいたい」
女の笑みが、すうっと深くなった。
「くくく……いい願いだ。あまりにまっすぐで愛らしくて――恐ろしい」
「え……?」
「叶えてあげるよ。ただし、あの子がお前から離れられないように」
女が指をぱちんと鳴らした。冷たい風が、森を吹き抜けた。
「離れようとする足から、順番に人形にしてあげる。そうすれば、あの子はどこへも行けない。ずっとお前のそばに」
「ま、待って! そんなつもりじゃ……!」
「願いとはそういうものさ」
金色の瞳が、俺の顔を覗き込む。
「解きたければ、方法はひとつだけ。愛し合う二人の口づけ。心から想い合う者同士が身体のどこかに口づけをしたとき、呪いは砕ける」
俺は、へなへなと雪の上に座り込んだ。
「ただし、覚えておおき。願いには対価がある。呪いは時間をかけて少しずつ、育つよ」
高らかな笑い声が、雪の森に響いた。
*
夜が明ける頃、俺は、泣きながら家に走って戻った。
玄関の前に、小さな人影がうずくまっていた。
「……カイゼル……」
リリーだった。
寝間着のまま、裸足で俺を探しに来たのだろう。その両足が、膝まで真っ白な陶器みたいに固まっていた。
「足がね、動かないの。冷たくて……」
「リリー!」
何をすればいいのか、わからなかった。ただ、彼女の顔が、あまりに白くて冷たくて、このまま消えてしまう気がして。
俺は必死に彼女を抱きしめて、その額に唇を押し当てた。
「戻って……お願い、戻って……!」
ぬくもりが、流れた。
白い色が、ゆっくりと肌に溶けていく。リリーが、目を丸くして俺を見た。
「あれ……? 動く。カイゼル、あったかい……」
その日、リリーは、高い熱を出した。
引っ越しの話は、その熱をきっかけに立ち消えになった。父親の遠い町への転勤は、なぜか急に取りやめになった。
リリーは「運がよかったね!」と、笑っていた。
俺は笑えなかった。
その日から、俺は、リリーを縛りつける鎖になった。
*
あれから九年。
魔女は、二度と姿を現さなかった。
リリーの呪いは、時折思い出したように発動する。つま先から白く固まり、俺が額にキスをすれば一時的に戻る。
そのたびに、俺は思い知らされる。
愛し合う二人の口づけが呪いを砕くなら。
俺がどれだけリリーを愛していても、リリーが俺を愛していない限り、呪いは解けない。
バングルが鳴るたびに、突きつけられる。
――お前の想いは報われていないと。
*
王立グローリア魔法学園の入学式の朝。
俺は、石畳の坂をリリーの隣で登っていた。
「……本当に来ちゃったんだ」
「今さら何言ってんだ。首席で受かったやつが」
軽口を叩いて、目を逸らす。
この学園の図書館には、世に出ない古い記録が眠っているという。呪いと、魔女の記録が。
リリーは呪いの解き方を探しに来た。
俺はあの魔女を探しに来た。願いを取り消してもらうために。リリーを自由にするために。
それが叶えば、リリーは、俺の前から去っていくだろう。それでいい。それが、正しい。
そう、何度も自分に言い聞かせた。
*
講堂の壇上で、リリーが新入生代表の挨拶をしていた。
銀色の髪が、ステンドグラスの光を浴びてきらきらと揺れている。震えているはずの膝を笑顔で隠して、まっすぐ前を向いて。
眩しいほどにきれいだと思った。
(あいつは遠くへ行ける人間だ)
誰かに愛されて、誰かを愛して、どこまでも歩いていける。
それを、俺の幼い願いが縛っている。
(……俺が繋ぎ止めていい人間じゃ、ない)
拍手の中で、俺は静かに拳を握りしめた。
*
その夜。
男子寮の自室で、古い呪術の本をめくっていた俺の手首で、銀のバングルが震えた。
青い石が、光る。リリーの合図。
椅子を蹴って、窓を開けた。風を纏って、女子寮の二階の窓まで、一直線に飛び上がる。
窓を風で押し開ける。
「リリー!」
部屋の真ん中で、リリーがベッドの縁に座っていた。
膝から下が、真っ白な陶器になっている。
喉が、ひゅっと鳴った。
「……ごめん、遅くなった」
「ううん、すごく早かったよ」
声が、軋んでいる。いつもなら、これでもう少し余裕があるのに。
(……前より進みが早い)
嫌な予感を飲み込んだ。
震える指で、彼女の前髪をよけて額に唇を落とす。
俺の願いが、リリーを引き戻す。それが、いちばん罪深いことのように思えて唇が震えた。
白い色が、つま先からゆっくりと溶けていく。
「……戻ったか」
「うん。ありがとう、カイゼル」
顔を見られたくなくて、そむけた。
「別に」
声が、掠れないように努めた。
「私、頑張って呪いを解く方法を見つけるから。この学園の図書館の奥には古い記録があるって聞いたの」
リリーが明るい声で言う。
その声を聞くたびに、胸の底に冷たい鉛が沈む。
解く方法なら、知っている。
愛し合う二人の口づけ。
でも、それは――俺には叶わない方法だ。
「……そんなに思い詰めなくていい」
「え?」
「せっかくの学園だろ。どうせなら楽しみなよ」
言うな。
喉の奥でもう一人の自分が叫んだ。
それでも、俺は言った。
「……恋でもしたら?」
リリーが、目を丸くする。
「恋!? カイゼルがそんな冗談言うなんて珍しい」
声を出して笑った。
その笑顔を見て、俺は、安堵と絶望を同時に感じた。
――愛し合う相手が俺以外の誰かなら。
いつか、こいつはその相手と口づけを交わして呪いは砕ける。
それが、いちばんあいつのためになる。
俺は、目を伏せた。
「笑ってんじゃねえ」
精一杯、いつもの声で言って窓に足をかけた。
「じゃあな」
夜風に身を投げる。
女子寮の壁を蹴って地面に降りた瞬間、膝から、力が抜けた。
自分の指先を、唇に当てた。
今、あいつの額に触れた唇の熱が、まだ残っている。
(この口づけは呪いの延命でしか、ない)
解くことは、できない。ただ、先延ばしにするだけ。
それでも、俺は明日も、明後日も、あいつが呼べば飛んでいくだろう。
それだけが、俺に許された唯一の贖罪だから。
*
翌日の放課後、俺は、図書館の扉を押した。
高い天井。埃と紙の匂い。棚の間を、静かに歩く。
「あら。新入生かい? 珍しいね、こんな時間に」
カウンターの奥から、穏やかな声がした。
眼鏡をかけた、初老の女性の司書だった。名札には、「ミルドレッド」とある。
「何かお探し?」
「……古い呪術の記録を」
「まあ。熱心だこと」
彼女は、ふふと笑って眼鏡の奥から俺を見た。
その瞳が、一瞬光った気がした。
――金色に。
ぞくりと、背筋が凍る。
次の瞬間には、それはただの茶色の瞳に戻っていた。
「……気のせいか」
「何か言ったかい?」
「いえ」
俺は、踵を返して棚の奥へ歩き出した。
背中に、視線が刺さっている気がした。
忘れるはずが、ない。
あの、雪の夜の金色の瞳を。




