水と炎のワルツ
歓迎パーティの三日前。
放課後の生徒会室で、私は青ざめていた。
「新入生代表は、最初のダンスを生徒会の役員と踊るのが慣例なんだ。今年は僕だね」
ユリオス会長は、書類から顔も上げずに、さらりと言う。
「……会長。私、踊れません」
「うん?」
「本当に、まったく。田舎では、収穫祭で牛と一緒に走り回るのが精一杯で。足を踏みます。確実に、三回は」
「三回」
「四回かもしれません」
彼は数秒、肩を震わせて笑いを堪えてから、ペンを置いた。
「じゃあ、練習しよう」
「へ?」
「ワン、ツー、スリー。目線は下げない。足元は僕が見ているから、君は僕の顔を見て」
夕焼けの差し込む生徒会室。机を端に寄せて、二人きりの特訓が始まった。
一回目、踏んだ。二回目も踏んだ。三回目は、踏んだ上でよろけて、彼の胸に飛び込んでしまった。
「す、すみませんっ!」
「大丈夫。君は詠唱は完璧なのに、靴先には、魔法がかかっていないんだね」
「靴先の魔法って……?」
「今度、教えてあげる」
悪戯っぽく笑う碧い瞳が、夕陽の色を映していた。手袋越しでもわかる大きな手が、私の背中を支えている。どきどきしているのは、失敗が怖いからだ。きっと、そう。
*
そして、当日。
シャンデリアの光が降り注ぐ大ホール。色とりどりのドレスの海の中で、私は深い藍色のドレスを着て、銀の髪を結い上げられていた。
「さあ、行こうか」
差し出された手を取って、ホールの中央に進む。ざわめきが、さざ波のように広がった。
突き刺さる視線が痛い。特に女子生徒たちの。「なんであの子が」「会長と」――聞こえなくても、わかる。
(足、踏まない。絶対、踏まない)
必死に音楽を追う私の耳元に、ユリオス会長が顔を寄せた。
「ねえリリー。もし足を踏んでも、心配はいらないよ」
「え……?」
「王族の靴は頑丈なんだ。国民に踏まれても耐えられるよう、特別に作られている」
「それ、ものすごく国民に失礼では!?」
「バレたか」
ぷっ、と私は吹き出した。肩の力がふっと抜ける。
「ほら、笑った方がいい。皆が君を見ているのは、睨んでいるんじゃない。……いや、半分は睨んでいるけど」
「半分は睨んでるんですね!?」
「残り半分は、見惚れてる」
さらりと言われて、心臓が跳ねた。足が絡まりそうになるのを、彼の腕がやさしく、けれど力強く導く。
くるり、と回る。ドレスの裾が花のように広がる。彼の碧い瞳が、まっすぐ私だけを映している。
わかっている。この人の優しさは、たぶん計算されたものだ。相手が何を言えば安心するか、ちゃんと分かっていて、そのとおりに言葉を選んでいる。
けれど、緊張が解けたのは本当だった。その計算の中に、少しだけ本物が混ざっている気がして――それが、なんだか、胸に残った。
最後の一音が消えて、ユリオス会長が優雅に一礼する。
「お見事。一回も踏まなかった」
「え、踏んで……いない、んですか?」
「僕が全部避けたからね」
「それはずるいです!」
拍手の中で、私は真っ赤な顔で笑っていた。
*
ダンスの後、お腹が空いて軽食のテーブルへ向かうと、見覚えのある黒髪があった。
皿に、ケーキが、山になっている。
「……カイゼル。それ、何個あるの」
「十四」
「取りすぎじゃない?」
「甘いもの食ってれば、誰にも話しかけられずにすむ」
彼は表情ひとつ変えずに、フォークでケーキを崩した。
「お前、踊ってたな」
「見てたの?」
「見えたんだよ。目立ってたから」
ちらりと私を見て、すぐ目をそらす。
「……楽しそうだった」
「うん、楽しかったよ。会長、面白い人でね……」
言いかけた私の言葉を、カイゼルはケーキを口に押し込んで遮った。
*
――楽しそうだった。
自分で言った言葉が、思ったよりずっと冷たく響いて、俺は驚いた。
銀の髪が揺れて、笑って、王子の手を取って。あんな顔、俺は見たことがなかった。
呪いが発動したとき、最初に駆けつけるのは、いつも俺だ。でも、それは「役目」なんかじゃない。そんなふうに呼べるほど、きれいなものでも、なかった。
あいつの呪いのことを、俺は、誰よりも知っている。誰にも言えない理由で、誰よりも。
だから、思う。あいつが笑って、誰かの手を取れる日が来るのなら。その相手が、あいつを本当に想ってくれる誰かなら、それでいい。それが、いちばんいい終わり方だ。
「恋でもしたら」と言ったのは、俺だ。
頭では、わかっている。
それなのに、あいつが王子の手を取って笑った瞬間、胸が、悲鳴を上げた。俺には、それを痛がる資格すら、ないはずなのに。
俺は十五個目のケーキを、無理やり飲み込んだ。




