【BAD END】手を離した日
――ギャラント編・もうひとつの結末――
※本編とは別の世界線です。ギャラント編・第五章、文化祭の日の告白(「でも俺じゃお前は守れない」)の直後から始まります。
翌朝。空が白み始めた頃、私は中庭に走っていた。
二百個のランタンの残る木の下に赤茶色の背中があった。
脚立に乗って、黙々とランタンを外している。
「ギャラント!」
彼の手が止まった。
「……なんだ。まだ寝てろよ」
「言いたいことがあって」
息を整えて、私は彼を見上げた。
「私もギャラントが好き」
ランタンが彼の手から、滑り落ちた。
ごとんと地面に転がる。
「……は?」
「好きだよ。甘いものを食べてるときの嬉しそうな顔も、髪をおろした夜も、私を庇って青ざめた顔も全部。……だから、守れないなんて、言わないで」
沈黙。
朝の光が木々の間から、ゆっくりと差し込んでくる。
「……俺もだ」
絞り出すような声だった。
「好きだ、リリー。お前が。……世界で一番」
視界が涙で滲んだ。
嬉しかった。息ができないくらい。
なのに。
彼は脚立から降りて、私の前に立って――そのまま、一歩後ろに下がった。
「だから、無理だ」
「……え?」
「お前があの日、人形になるのを見た」
彼の拳が震えていた。
「一瞬な。お前が崖の下に落ちていくように見えた。ミナと重なった。……足が動かなかった。声も出なかった」
「ギャラント……」
「あの日、あいつが来なかったら。俺はお前が動かなくなるのをただ、見てただけだ」
赤茶の瞳が私を見ていた。
泣きそうなほど優しくて。
どうしようもなく、怯えていた。
「お前を愛してる。愛してるから、無理なんだ。いつかまた、お前が動かなくなったとき。俺は今度こそ壊れる」
「壊れてもいいよ」
私は彼の手を掴んだ。
「壊れたら私が拾う。……ねえ、私の呪い、思い合っていれば、解けるんだって。カイゼルが教えてくれたの。今、試してみよう? ほっぺたにひとつでいい」
彼の顔がこわばった。
「もし、それで解けなかったら?」
「そしたらまた違う方法を二人で探せばいいよ」
「俺が良くねえんだよ!」
叫び声が朝の中庭に響いた。
「もし、解く方法が見つからなかったら……?お前はこれから先もずっとあの体で生きていくことになる。いつか動かなくなる日に隣にいるのが俺で。…………俺は、何もできなくて……」
彼は私の手をそっと振りほどいた。
「……ごめん」
その声はひどく、静かだった。
「俺はお前を愛する資格がねえ」
――どうして。
どうして、そんなふうに言うの。
好きな人がこんなにも目の前にいるのに。
手を伸ばしても届かない。
その距離が地面に線みたいに引かれていた。
*
ギャラントが学園を去ると知ったのはその三日後だった。
王立山岳土木院への編入。崖崩れや土砂災害から、村を守るための技術を学ぶ学校。
「ずっと決めてたんだ」
生徒会室で彼は淡々と言った。
「この学園の課程は途中で切り上げる。あっちの方が俺がやらなきゃならねえことに近い」
「……逃げるのね」
窓際の席から、セシリア先輩の冷たい声が飛んだ。
「あなた、逃げるのね、ギャラント」
「……ああ」
「臆病者」
セシリア先輩の声は震えていた。
エルンスト先輩が静かに書類を机に置いた。
「編入の書類は受理しました。副会長として、庶務の解任はいたしません」
「……は?」
「席は空けておきます。あなたが帰ってくるまで」
ギャラントは目を見開いて、それから顔を背けた。
「……余計なことすんな」
「余計なことをするのが副会長です」
「行っておいで」
ユリオス会長が穏やかに微笑んだ。
「君が行きたいところへ。……ただ、覚えておいて。ここはいつでも君の席がある」
「ギャラントぉ……!」
ラウリ先輩がぼろぼろと泣きながら、彼に抱きついた。
「やだよぉ、行かないでよぉ……!」
「泣くな、うるせえ」
言いながら、ギャラントはラウリ先輩の頭をぽんぽんと叩いた。
その手があんなに優しいことを私は知っている。
私はその様子を部屋の隅でずっと見ていた。
彼は一度も私を見なかった。
*
出発の朝、私は駅に走った。
早朝の小さな駅。人はほとんどいない。
ホームの端に大きな荷物を提げた、赤茶色の背中があった。
「ギャラント!」
彼は振り向いた。
驚いた顔。それから諦めたように笑った。
「……なんでいるんだよ」
「ラウリ先輩が教えてくれたの。何時の電車か」
「あのおしゃべりが」
私は彼の前に立った。
「行くなって言ったら」
「言うな」
即答だった。
「言われたら、俺は行けなくなる」
「……行けなくなっていいのに」
「駄目なんだ」
彼はポケットから、小さな包みを取り出した。
「これやる」
開けると石の小さな猫が入っていた。
灰色のふわふわした、耳の丸い子猫。土の魔法で何日もかけて、削り出したのだろう。手のひらにすっぽりと収まる。
「パフェ……」
「……たまにパフェの様子、見てやってくれ」
「……自分で見に来て」
「無理だ」
彼は笑った。
ひどく優しい顔で。
「なあ、リリー。俺はお前が好きだ。一生他の誰も好きにならねえ。それだけは本当だ」
「だったら……!」
「でも、駄目なんだ」
汽笛が鳴った。
列車がゆっくりとホームに滑り込んでくる。
私は彼の袖を掴んだ。
「お願い。一回だけでいい。ほっぺたにキスして。それで私の呪いが解けるかもしれない。試すだけでいいから」
「……」
「怖いなら目瞑ってて。私がするから」
背伸びをして、彼の頬に唇を近づけた。
その、瞬間だった。
つま先の感覚がふっと消えた。
(え――)
こんなときに。
白い陶器の色が足首を這い上がってくる。
「リリー……?」
ギャラントの声が震えた。
膝がこつんと硬い音を立てる。
私は崩れるように彼の腕の中に倒れ込んだ。
「リリー! おい、リリー!」
彼の顔から、血の気が引いていく。
あの日の書棚の下で見た、真っ白な顔。ううん、それ以上に。
赤茶の瞳が私を見ているのに私ではない何かを見ていた。
――崖の縁。
すり抜けていく小さな指。
「あ、あ……ああ……」
彼の手ががたがたと震えて、私を支えきれなくなる。
(大丈夫。大丈夫だよ、ギャラント)
彼にそう言いたいのに、声が出ない。
「――リリー!」
少しして、風が吹いた。
カイゼルがホームに飛び込んでくる。
「どけっ!」
彼はギャラントの腕から、私をひったくるように抱き取った。
額に唇が触れる。
――あたたかい。
息を吹き返す。
最初に見えたのは青ざめて、立ち尽くす、ギャラントの顔だった。
「……悪い」
彼はゆっくりと後ろに下がっていった。
「悪い、リリー。……悪い」
「ギャラント、待って」
「やっぱり駄目だ。俺はお前が動かなくなるとき、何もできねえ」
声がぼろぼろに崩れていた。
「……あいつがいる。お前にはあいつがいる。それでいいじゃねえか」
違う。
私が欲しいのは。
「行かないで!」
ギャラントに向かって手を伸ばした。
けれど、彼はもう列車のステップに足をかけていた。
あと少し。
もう少しで彼に届くのに。無情にも目の前で扉が閉まってしまう。
窓の向こうで彼の手がガラスにそっと押し当てられた。
大きくてあたたかい、土の魔法使いの手。
唇が動いた。
声は聞こえなかった。
でも、私にはわかった。
――すまねえ。
列車がゆっくりと動き出す。
私は走った。ホームの端まで。
小さくなっていく、その窓をいつまでも見送りながら。
握りしめた、石の子猫が手の中でひんやりと冷たかった。
*
三年が過ぎた。
私は王立学園を卒業して、呪術の研究所に席をもらった。
呪いはまだ、解けていない。時々つま先から、あの冷たさが這い上がってくる。そのたびに風が来て、額にあたたかい唇が触れる。
カイゼルは何も言わずにずっとそばにいてくれる。
机の上には灰色の石の猫。
新聞の隅の記事が目に留まった。
『山岳の村を、土砂崩れから救った、若き土魔法使い』
名前は書かれていなかった。
けれど、私にはわかった。写真の端に写りこんだ、大きな土まみれの手。
「……会いに行かないのか」
隣に湯気の立つカップが置かれた。
「……行ったらあの人はまた、離れると思うから」
「お前はそれでいいのか」
「よくない」
私はカップを両手で包んだ。
「でも、あの人が選んだ答えを私が壊したくない。……あの人はあの人なりに戦ってるの。ミナさんのことも私のことも」
カイゼルは何も言わなかった。
ただ、私の頭にぽんと手を置いた。
窓の外に夕焼けが広がっていた。
*
―――ギャラント―――
山の夕暮れは早い。
崖の縁に俺の作った石壁がそびえている。三年かけて、少しずつ積み上げてきた。この壁の下の村ではもう、誰も落ちない。
今日、崩れかけた斜面から、村の子どもが一人、滑り落ちそうになった。
間に合った。
足首を掴んで引き上げた。細い、小さな、震える体を腕の中に抱きしめた。
『にいちゃん、ありがとう』
笑った子どもの顔がミナに少しだけ重なった。
泣きそうになって笑った。
――間に合った。
誰にでもなく、俺は呟いた。
でも、なんで。
一番間に合わせたかった手にはもう届かない。
部屋に戻ると机の引き出しに手紙が束になって入っている。
何十通も。
一通も出していない。
『元気か。』
『パフェは、太ったか。』
『俺は、まだ、崖の上に、いる。』
『お前の呪いは、どうなった。』
どれも書きかけで終わっている。
最後の一行がいつも書けない。
――会いたい。
この四文字が。
ペンを置いて、窓の外を見た。
夕焼けが山の稜線を赤く染めている。
この空はあいつのいる街に続いているのだろうか。
ふと掌を見た。
この手であの日、あいつを抱きとめた。
冷たくなった体。動かなくなった細い指。
あの記憶は今でも夢に出る。
でも、それ以上に思い出すのは。
あいつの笑った顔。
俺をまっすぐ見る青い瞳。
「守れないなら離れる」なんて卑怯な理屈で逃げた俺を、最後まで名前を呼んで追いかけてきた声。
『行かないで!』
あの声が今でも耳の奥で響いている。
俺はゆっくりと手を握りしめた。
「……リリー」
風に向かって呟く。
もちろん返事はない。
けれど、同じ時間。
遠い街の窓辺で一人の女性が同じ夕焼けを見上げていた。
石の猫を胸に抱いて。
小さな声で彼の名前を風に預けた。
「……ギャラント」
その風が山まで届かないことを彼女は知っていた。
それでも、二人は毎晩、同じ空に名前を呼び続けた。
互いを想いながら。
互いに手を伸ばせないまま。
お読み頂きありがとうございます!
明日からラウリ編スタートです!




