温室の薬と、焦がれる心
文化祭の朝は、憎らしいほどの快晴だった。
中庭には屋台が並び、あちこちで音楽が鳴っている。焼き菓子の甘い匂い、子どもたちの笑い声、色とりどりの旗。二百個のランタンは、昼でもほのかに光っていた。
警備隊員が、要所要所に立っている。土の見張り台が、あちこちにそびえている。
これだけ厳重なら、きっと大丈夫。そう自分に言い聞かせて、私は、午後の巡回の時間を迎えた。
「行くぞ」
ギャラントが私の前を歩き出す。
私たちの間には、一メートルの見えない壁があった。
言葉のない道を、二人で歩く。楽しそうな人ごみの中で、私たちだけが別の世界にいるみたいだった。
「……あの通路、詰まってる」
「うん。人が多いね」
それだけ。
それだけの会話が、こんなにも胸に重い。
そのときだった。
「あははははは!」
甲高い笑い声が、通路の奥から響いた。
振り向くと、一年生の女の子が噴水の縁でげらげら笑っていた。目が、据わっている。瞳孔が、不自然に大きく開いている。
彼女の指先から、ばちばちと水しぶきが弾けた。勝手に。
「え……?」
「おい、あっちも」
ギャラントが顎で示す。別の男子生徒が、ふらふらと歩きながら指先から火花を散らしている。自分の魔法を、まるで制御できていない。
一人二人三人。
いつの間にか、様子のおかしい生徒が、あちこちに増えていた。
どぉん、と音を立てて噴水が爆ぜた。水柱が、空に跳ねる。
「危ない!」
ギャラントが、瞬時に地面に手をついた。
『大地よ、盾となれ』
土の壁が、せり上がって降り注ぐ水を受け止める。その陰で、女の子がへなへなと座り込んだ。
彼は、迷いなく駆け寄ってその子の肩を支えた。
「おい、しっかりしろ。何を飲んだ」
「……あ、あっちの……ふるい、おんしつ……フードのひと……」
「……ドラッグか」
ギャラントの声が、低く沈んだ。
「噂は、本当だった。しかも、この人数……もう、ばらまかれてる」
私は、拳を握りしめた。
「会長に報告を。それから、元を止めなきゃ」
「ああ。……リリー」
ギャラントが私を見た。
この数日で、初めて、まっすぐに。
「お前は、部屋に戻れ」
「嫌」
「頼む。これは、警備と俺たちでやる。お前を、危ない目には――」
「嫌」
私は、はっきりと首を横に振った。
「意地でも、帰らない。私は、私のできることをやる」
「お前、まだ怒って――」
「怒ってるよ、すごく」
胸を張って、言い返す。
「でも、それとこれは別。目の前で、みんなが苦しんでるのに隠れてなんかいられない」
ギャラントの赤茶の瞳が、揺れた。
「背中は預けるって言ったのは、あなたでしょ」
「……覚えてんのかよ」
「忘れるわけないでしょう」
彼は天を仰いだ。長い息を、ひとつ吐く。
「……勝手にしろ。ただし、俺の視界から出るな」
「うん」
私たちは並んで走り出した。
一メートルの壁は、いつの間にか消えていた。
*
旧温室は、訓練場の裏手にあった。
ひび割れたガラスの壁。絡まる蔦。今は使われていない、その建物の入口に、生徒たちがふらふらと吸い込まれていく。
「ここだ」
「うん」
目配せして、そっと扉を押す。
薄暗い温室の奥。木箱の前に、黒いフードの男が立っていた。手には、小さな包み。周りには、目を輝かせた生徒たちが列を作っている。
「さあさあ、無料だよ。文化祭の特別な贈り物だ」
「そこまでだ!」
ギャラントが叫ぶ。
男が、ゆっくりとこちらを振り向いた。フードの奥で、細い目が細められる。
「おや。生徒会の、お嬢さんと坊やか」
「その薬を置け」
「それはできない相談だなあ」
男は、にやりと笑った。
次の瞬間。
視界の端で、何かが動いた。
――しまった。
背後にもう一人。
太い腕が、私の首にぐいっと回された。
「リリー!!」
喉元に、冷たいひんやりとしたものが押し当てられる。割れたガラスの破片だった。
「動くな、土の坊主!」
耳元で、荒い息と酒の匂い。
「詠唱したら、この娘の喉を掻き切る。わかったか」
「く……!」
ギャラントが動きを止めた。
その顔から、みるみる血の気が引いていくのが、見えた。
目を、見開いて。唇が、わなないて。
あの顔だ。書棚の日と、同じ。いいえ、それ以上に真っ白な。
「リリー……」
掠れた声が、こぼれる。
彼には見えているのだろう。崖の縁と、すり抜けていく細い指が。
土の魔法は、詠唱が長い。今から唱えても、間に合わない。
(このままじゃ、ギャラントが)
私の心臓が、どくんと大きく鳴った。
――違う。
私は、もう守られるだけのあの子じゃない。
「ギャラント」
喉に刃を突きつけられたまま、私は、声を出した。
「目を離さないで」
ギャラントの瞳が、こちらを捉えた。
次の瞬間、私は息を吸った。
『灯れ』
たった一言。私の最速の詠唱。
男の腕に、小さな炎がぱっと灯った。
「ぎゃあああっ!?」
悲鳴。腕の力が、緩む。ガラスの破片が地面に落ちて、澄んだ音を立てた。
その隙を、逃さない。
私は、踵で男の脛を思い切り蹴りつけた。肘を、鳩尾に叩き込む。体を捻って、腕の中から、するりと抜け出す。
距離が開いた。
振り向きざまに、私は両手を突き出した。
『火よ、爆ぜよ!』
どんっ!
炎の塊が、男の胸元で炸裂した。熱風が、温室のガラスをびりびりと震わせる。男の体が宙を飛んで、蔦の絡まる壁に叩きつけられた。
ガラスが、砕ける。破片が、きらきらと舞い散る。
男は、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
「な……この、アマ……ッ!」
もう一人の、フードの男が逆上して飛びかかってくる。
その前に、ギャラントが動いた。
手を、地面に叩きつける。
『大地よ、縛れ!』
床石が、蛇のようにうねって男の足首に絡みついた。ぐんと、引きずり倒す。続けて、土が男の両腕をがっちりと固めた。
一瞬の静寂。
舞い上がったガラスの粉が、光の中でゆっくりと降ってくる。
息を切らして、私は、ギャラントを見た。
彼は、自分の手を見つめていた。
――間に合った。
声にならない声が、その唇の形から聞こえた気がした。
*
駆けつけたユリオス会長と警備隊に、二人の男が引き渡された。会長は、砕けたガラスと焦げた壁を眺めて目を細める。
「見事だ、二人とも。警備を強化した甲斐があったよ」
それから、私にだけ聞こえる声でこっそり付け加えた。
「特に、君のおかげで。ありがとう、リリー」
そのざわめきの向こう。割れた温室のガラスの外にひとりの男の人が立っていた。
眼鏡をかけた、穏やかそうな横顔。着古した外套。手には文化祭の焼き菓子の小さな紙袋。
目が合った気がした。
男の人はほんの少しだけ口の端を上げて――そのまま、人ごみに紛れて、見えなくなった。
(……あの人、どこかで)
見覚えがある。でも、どこで? 廊下ですれ違った、先生の誰かだろうか。
「リリー?」
ギャラントの声で、我に返った。
「どうした」
「ううん。……なんでもない」
胸の奥に、小さな棘のようなものが引っかかったまま。
夕暮れが、学園を赤く染めていた。
騒ぎが収まった中庭の隅で、私とギャラントは二人きりで並んでいた。
彼は、しばらく黙っていた。
それから突然、ぷっと吹き出した。
「……ははっ」
「え?」
「はははは! すげえなお前!」
腹を抱えて、彼は笑う。あの、初めて見る屈託のない笑顔。
「人質になったと思ったら、自分で炎で燃やして、蹴って、殴って、吹っ飛ばしやがった! 俺の出る幕、ねえじゃねえか!」
「そ、そんなことない。最後にあの人を縛ってくれたのは――」
「あんなの、おまけだ」
彼は、笑いすぎて滲んだ涙を指で拭った。
そして、ふっと笑いを収めて。
「すげえな、お前。やっぱ俺、お前のこと好きだな」
――え?
時が止まった。
風の音も、遠くの音楽も、全部、消えた。
今、なんて言った?
好き、って。
顔が、一気に熱くなる。心臓が、胸を破りそうなくらい暴れ出す。
嬉しい。どうしようもなく、嬉しい。
私も、と言おうとした、その口を――
「でも」
ギャラントの声が、遮った。
笑顔が、消えていた。
「でも、俺じゃお前は守れない」
凍りついた。
「あの日、お前が人形になるのを見た。俺は、何もできなかった。あいつが来なきゃ、お前を戻せなかった」
赤茶の瞳が、私から目を逸らす。
「守られなくていいって、お前は言ったけどな。あんな目に遭うお前を、俺は助けられねえ。……だから、さっきのは忘れてくれ」
「ギャラント、待っ――」
「悪い」
彼は背を向けた。
夕焼けの中に、小さくなっていく赤茶色の背中。
私は、追いかけられなかった。
足が、動かなかった。
――呪いで固まったときと、同じように。
*
どうやって、部屋に戻ったのか、覚えていない。
気がつくと、私はベッドの上で膝を抱えていた。
窓の外はもう暗い。
こんこんと窓ガラスが叩かれた。
「……リリー」
風と共にカイゼルがそこにいた。
「文化祭で騒ぎがあったって聞いて、様子を見に来た。……お前、大丈夫か」
顔を見た瞬間、こらえていたものが、あふれた。
「カイゼル……っ」
涙が、ぼろぼろとこぼれる。
「私、ね。ギャラントのことが好きなの」
「……ああ」
「今日、ギャラントに、好きだって言われたの。嬉しかった。すごく、すごく嬉しかったのに」
しゃくり上げながら、言葉を吐き出す。
「俺じゃ、お前は守れないって言われて。……そうだよね。私、呪いがあるもの。いつ人形になるか、わからない。こんな私が、誰かと一緒にいられるわけない」
「リリー」
「この呪いがある限り、ギャラントとは、一緒にいられないんだ……!」
カイゼルは、何も言わずに私の隣に座った。
それから、そっと私の頭に手を置いた。
大きくて、あたたかい手。幼い頃から変わらない。
「大丈夫」
優しい声だった。
顔を上げると、黒い瞳が悲しそうに笑っていた。
「二人が思い合っていれば、呪いは解ける」
「……え?」
「そういう呪いなんだ」
私は目を見開いた。
「どうして、そんなこと……」
「お前のことなら、たいていわかるんだよ。幼馴染だからな」
はぐらかすように言って、彼は、ゆっくりと私の頭を撫でた。
その手つきが、いつもよりずっと優しくて。
ずっと、切なかった。
*
―――カイゼル―――
窓の外の夜風に、俺はひとりで当たっていた。
知っていた。あいつの呪いが、どうすれば解けるのかを。
『想い合う二人の、口づけ』。……あいつが誰かを想う日を、俺は誰よりも待ちながら、誰よりも怖がっていた。
言えなかった。言えば、あいつはその日へ向かって歩き出してしまうから。
あいつのそばにいる理由を、俺はほかに持っていなかったから。
最低だ。自分でも、わかってる。
でも、今日。
あいつは泣いた。あの日、「恋でもしたら」と言った俺を笑ったあいつが、涙を流しながら別の男が好きだと言った。
胸が、裂けそうだった。……それなのに思った。
ああ、あいつは、誰かを心から好きになれたんだと。
俺が欲しかったのは、あいつの隣の席じゃない。あいつの笑顔だ。あいつが、あいつ自身の足で幸せに向かって歩いていく姿だ。
「……行けよ、バカ」
ひとり、呟く。
「泣かせたら、ただじゃおかねえ」
そして、俺は少しだけ笑った。




