守れなかった手、守らせてほしい背中
―――ギャラント―――
俺が十三の頃の話だ。
山あいの小さな村に、ミナって女の子がいた。
薬草を摘むのが好きで、いつも土だらけの手をして笑っていた。口が悪くて喧嘩ばかりしていた俺に、「ギャラントは、ほんとは優しいでしょ」って平気な顔で言うやつだった。
初恋だったと思う。言葉にする前に、終わっちまったが。
その日、俺たちは村の裏の崖沿いの道を歩いていた。ミナが、崖の途中に生えている珍しい薬草を見つけて、「取ってくる!」と走り出した。
「危ねえぞ、やめろ!」
「大丈夫、大丈夫!」
――ずる。
嫌な音がした。
足元の土が、崩れた。ミナの小さな体が、宙に浮く。
俺は走った。詠唱を、叫んだ。
『大地よ、我が声に応え、彼女を――』
遅い。
土の魔法は、詠唱が長い。丁寧に唱えなきゃ形にならない。それでも、必死に唱えた。
土の壁が、せり上がる。ミナの真下に。
間に合え。間に合え、間に合え――
崖の縁で、俺の手がミナの手を掴んだ。
指先が、触れた。細い、土まみれの指。
その手が、するりと俺の手から抜けていった。
『……ギャラント』
ミナは、笑っていた。落ちながら、泣きそうな顔で笑っていた。
『泣かないで』
土の壁が完成したのは、そのほんの一瞬あとだった。
*
語り終えても、俺は顔を上げられなかった。
隣でリリーが息を殺している気配がする。
「……それから、俺は女に近づけなくなった」
乾いた笑いが、出た。
「近づけば、また失う。だったら最初から、寄せつけなきゃいい。冷たくして嫌われりゃ、そいつは安全だ。……そう思ってた」
「ギャラント……」
「なのに、お前が来た」
顔を上げる。銀色の髪が月の光の中で揺れていた。
「首席で、生意気で、口が達者で。何度追い払っても、喧嘩を買ってきやがって」
「売られてたら、買っちゃうでしょ」
「うるせえ」
少し笑えた。
「気づいたら、お前と笑ってた。一緒に甘いもん食べて。……ついつい、親しくなっちまった」
拳を握りしめる。
「あの書棚のときだって、お前が潰されると思った瞬間、あの日が蘇ってな。……頭が、真っ白になった」
「だから、あんなに顔が……」
「文化祭の巡回も、そうだ。違法な薬を配るようなやつらが相手だ。危ねえ目に遭うかもしれねえ。……お前が」
声が、震えた。情けねえ。
「また、守れないのが怖い」
絞り出すように、言った。
「あのときは、間に合わなかった。今度も、間に合わなかったら。お前まで、手からすり抜けたら……」
沈黙。
軽蔑されるかもしれない。呆れられるかもしれない。
それでいい。そう思っていたのに――
「私は」
リリーの声が、夜にまっすぐ響いた。
「ギャラントに守ってもらわなくても、自分の身は自分で守れるよ」
俺は目を見開いた。
言い切った彼女は、逃げずに俺の目を見ていた。
強い瞳だった。
「詠唱も速いし、火の魔法だって使えるし、学年首席だし」
「……自分で言うか」
「事実でしょ?」
悪戯っぽく、口の端を上げる。
「ギャラントが、その子を守れなかったのは悲しいことだと思う。でも、私はその子じゃない。守られるだけの女の子じゃないよ」
息が止まった。
――ああ、こいつは。
こんなにもまっすぐに、俺の恐怖を打ち砕いてくる。
「……お前は強いな」
自然と、笑みがこぼれた。
胸の奥で、十三の夏から凍っていたものが、少しだけ音を立てて割れた気がした。
「でもね」
リリーが少し真面目な声になる。
「もし、私が本当に危なくなったら。そのときは、ちゃんと背中を頼るから」
「……背中?」
「うん。ギャラントは、土の魔法で壁を作れるでしょう。私は、その後ろから火を撃てる。二人なら最強だよ」
彼女が差し出した手を、俺はしばらく見つめた。
あの日、掴み損ねた手と、同じ小さな手。
でも、この手は離れない。そんな気がした。
「……巡回は、俺と組め」
「え?」
「背中はお前に預ける」
握った手は、あたたかかった。
*
―――リリー―――
それから、私たちは文化祭の準備と警備の打ち合わせをぐんぐん進めた。
巡回のルート。交代の時間。土の魔法で仮設の見張り台を作る位置。
夜の生徒会室で、二人だけで地図を広げて。
「ここの死角を、お前の火で照らせるか?」
「うん。低い位置に灯りを置けば、影が出ないよ」
「ふん。……悪くねえ」
もう喧嘩にはならなかった。肩を並べて、同じ方向を見ている。それが、こんなに心地いいなんて。
ギャラントが地図の端をおさえるとき、私の手の上に、彼の手が重なった。
「あ」
「わ、悪い」
「ううん……」
どちらからともなく目をそらして、赤くなった顔を隠した。
――こんな時間が、ずっと。
そう思った、その瞬間。
つま先に、あの感覚が走った。
(え……)
感覚が、消えていく。
(うそ。今、ここで、ギャラントの前で……)
「リリー? どうした」
「なんでもない。大丈夫」
立ち上がろうとして、足が、動かなかった。
膝から、こつんと硬い音がした。
ギャラントの視線が、私の足元に落ちる。
白い、陶器のような脚。
「……は?」
「見ないで……お願い」
「お前、これ――」
手首のバングルを、震える指で押す。声が軋んで、出ない。
ばんっと扉が開いて、風が吹き込んだ。
「リリー!」
黒い髪。黒い瞳。
カイゼルは、そこにギャラントがいることも構わず、私の前に膝をついて額にそっと唇を落とした。
――その瞬間。
冷たく固まっていた脚に、血が通う。指が、動く。
私は目を開けた。
目の前に、立ち尽くすギャラントがいた。
赤茶の瞳が、大きく見開かれている。血の気が、引いている。あの日の書棚のときと同じ、真っ白な顔で。
「……今のなんだ」
「ギャラント、これは――」
「説明しろ」
低く、絞り出すような声だった。
カイゼルが、私を庇うように立つ。
「お前には、関係ない」
「関係ねえわけあるか!」
ギャラントは、カイゼルを押しのけるようにして私を見た。
「リリー。お前、俺に言ったよな」
拳が震えている。
「『守ってもらわなくても、自分の身は、自分で守れる』って」
息が止まる。
「なのに、なんだ今のは。足が人形みたいに固まって、声も出せなくなって……あんなの、一人でどうにかできるもんじゃねえだろうが!」
怒鳴り声に、悲鳴が混じっていた。
怒っているんじゃない。この人は、また怖がっているんだ。
あの十三歳の夏の、崖の縁と同じ場所で。
「なんで……なんで、黙ってた」
赤茶の瞳に、みるみる涙が溜まっていく。
「俺は、お前に全部話したのに」
その一言が、胸に深く突き刺さった。
私は何も言えなかった。
「……ごめん」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「ごめんじゃ、わかんねえ。説明しろって言ってんだ」
私は、震える声ですべてを話した。人形になる呪いのこと。つま先から始まること。カイゼルの口づけが、一時的にそれを解くこと。
ギャラントは黙って聞いていた。聞き終えたとき、その顔からは涙の気配が消えていた。代わりに浮かんでいたのは、押し殺した怒りだった。
「……つまりお前は」
低い声。
「いつ動けなくなるかわからねえ体で、『自分の身は自分で守れる』って俺に言い切ったのか」
「っ、それは、魔法の腕の話で――」
「言ってることが違えじゃねえか!」
拳が、机を叩いた。がん、と重たい音が生徒会室に響く。
「守られなくていい? 笑わせんな。人形になったお前は、指一本動かせねえんだろ。そんなもん、誰かに守られなきゃどうしようもねえじゃねえか!」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
図星だった。だから、痛い。
「……そうだよ」
私は唇を噛んだ。
「呪いの間、私は何もできない。それは、認める」
声が震える。それでも、目は逸らさなかった。
「でも、それを言ったら、あなたは、また私から離れるでしょう?」
「――っ」
「怖かったの。あなたが、私を『守れなかったあの子』の代わりにして、勝手に苦しむのが。だから言えなかった。……間違ってた?」
「間違ってるに決まってんだろ!」
「じゃあ、どうすればよかったの!」
怒鳴り合う。数か月ぶりの、本気の喧嘩。けれど、あの頃のじゃれ合いのような軽さは、どこにもなかった。
カイゼルがそっと私の肩に手を置いた。
「リリー、もういい」
ギャラントの視線が、その手に落ちる。彼は、唇を白くなるほど強く噛んだ。
「……勝手にしろ」
背を向ける。扉の前で、一度だけ立ち止まって。
「文化祭の巡回は、予定通りだ。……公私は分ける」
そして、乱暴に扉を閉めて出ていった。
残された部屋で、私はその場にへたり込んだ。
カイゼルは何も言わず、黙って隣に座ってくれていた。
*
それから、文化祭までの数日間、私たちは仕事の話しかしなかった。
巡回のルート。交代の時間。見張り台の位置。
「ここ死角になる」
「……低い位置に灯りを置く」
最低限の言葉だけが行き交って、目は、決して合わない。
ラウリ先輩が、何度も間に入ろうとして、そのたびに困ったように笑って引き下がった。ユリオス会長は、遠くから私たちを眺めて、一度だけ小さく呟いた。
「雨降って地固まる、といいんだけどね」
答えを出せないまま、時間だけが、容赦なく進んで。
そして、そのまま――文化祭は始まってしまった。




