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人形姫と四つの口付け  作者: かん
人形姫の呪いと、水の王子の嘘(ユリオス ルート)

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【BAD END】水底の王子

※本編とは別の世界線です。ユリオス編・第五章「水路の倉庫と、法の光」の分岐点から始まります。 ※暴力・殺人の描写、執着を含みます。

 第七倉庫の柱に縛りつけられたまま、私は扉が開く音を聞いた。


「――リリー!」


 夜風と一緒に金色の髪が飛び込んでくる。


「会長……!」

「おや、殿下。ようこそ」


 樽の陰から、ボルグ伯爵が微笑みながら現れた。その背後に剣を持った男が三人。


「その人を放せ」

「それはできませんな。取引が成立するまでは」


 伯爵はあの封書をひらひらと振ってみせた。


「さあ、殿下。いつもの『お仕事』を、なさいますか?」


 会長の周りで水がざわと揺れた。

 碧い瞳がゆっくりと冷たく、細められていく。


(だめ……)


 この人は殺せる。今この瞬間にも一息で。


 あの夜、熱に浮かされて泣いていた人の顔が頭をよぎった。


「会長、だめです! 殺してはだめです!」


 喉が裂けるほど叫んだ。


「ここで殺したら、会長はあの夜に戻ってしまいます!」


 彼の指先がぴくりと止まる。


 水が迷うように揺らいだ。


 ――届いた。

 そう、思った。


「……殿下はお優しい」


 ボルグが退屈そうに溜め息をついた。


「では少しだけ、後押しを差し上げよう」


 彼が顎で合図をした。

 剣を持った男が私の前に立った。

 ひやりと冷たいものが左の二の腕をなぞった。


「――っ!」


 熱い。

 遅れて痛みが来た。細い血の線が袖の上にじわりと滲んでいく。


「リリー!!」


 会長の声が聞いたことのない音をしていた。



     *

 ―――ユリオス―――



 赤。

 彼女の白い腕に赤い線が一本走った。

 それだけで僕の中の何かが音もなく切れた。


 殺さない。殺さない。殺さない。何度も、何度も心の中で唱えてきた言葉が水に溶けるように消えていく。


(この子が傷ついた)


(この子の血が流れた)


 それ以外のすべてがどうでもよくなった。


 僕は指を一本振った。

 水が走った。


 倉庫の床を流れる水が蛇のように鎌首をもたげて。三人の男の喉を順番になぞった。悲鳴を上げる暇もなかった。


 最後にボルグが目を見開いたまま、何かを言おうとして――その唇の動きが止まった。


 静寂。


 足元の水がゆっくりと赤く、染まっていく。


 僕はリリーの方を振り向いた。

 彼女は縛られたまま、唇を震わせて、僕を見ていた。


「……もう大丈夫だよ、リリー」


 できるだけ、優しい声で言った。

 なのに彼女はひどく怯えた目をして、小さく首を振った。


 ――どうして。


 僕は君を助けたのに、なんでそんな目をするの?



*


 あの夜のことは翌朝の新聞に載らなかった。

 ボルグの「保険」は、朝までにすべて、王宮の手で回収されたのだという。どうやって、とは聞けなかった。

 ただ、王は会長を玉座の間に呼んでこう言ったらしい。


『よくやった。お前の「影」の腕は、少しも、鈍っていなかったな』


 会長が何と答えたのか、私は知らない。

 けれど、その日から、彼は笑わなくなった。


 ――いいえ。違う。


 笑っていた。前よりもずっと完璧に。あの、絵みたいな笑顔で。


 そして生徒会室の隅の私の席のすぐ隣にいつも彼が座るようになった。


「会長。あの……お仕事の方は」

「大丈夫。全部片付いたよ」


 紅茶を差し出す指がほんの少しも震えていない。

 それが何より怖かった。


「リリー。腕の傷は痛まない?」

「はい。もうほとんど……」

「そう。よかった」


 彼は私の袖の上から、その傷の跡をそっと撫でた。


「二度と君に傷なんて、つけさせない」


 言葉はあたたかいのに。

 その碧い瞳には底がなかった。


*


 最初は確かに私を守るためだった。


 二週間後。ボルグの残党が寮の私の部屋に忍び込んだ。


 目を覚ましたとき、窓辺に黒い影が立っていた。声を上げるより先に部屋の空気がふっと冷えた。


 次の瞬間、水の帯が影を床に叩きつけていた。


「やめて……っ、会長、その人もう、動いていません……!」

「まだ息がある」


 彼は私の方を見なかった。

 静かに確かめるようにその人の胸に手を当てて。

 そして息を止めた。


「これでもう、君を狙う者はいない」


 振り向いた顔はひどく、穏やかだった。

 返り血が頬にひとすじ。

 彼はそれを指で拭って――私の頬にそっと触れた。


「怖がらないで。大丈夫。全部僕が消してあげるから」


     *


 それから私は学園に戻れなくなった。


「寮は安全じゃない。王宮の離宮に部屋を用意した」

「ですが授業が」

「先生を呼ぶよ。君に必要なことは全部、そこで学べるようにする」


 高い塀。何重もの衛兵。窓には細かな鉄の格子。

 外の世界との間にはいつも薄い、水の膜が張られていた。人が近づくとそれがぴりりと彼に知らせるのだ。


 届く手紙はすべて、彼の手を通った。


 ある日、離宮の門の前で騒ぎがあった。


 窓から覗くと生徒会の皆が来ていた。ラウリ先輩が必死に手を振っている。ギャラント先輩は衛兵に食ってかかっていた。セシリア先輩とエルンスト先輩が並んで何か、書状を差し出している。


「リリー! 顔を見せて! 無事ならそれだけでいいから!」


 ラウリ先輩の声が風に乗って届いた。

 私は窓に手をついた。

 声を出そうとした。


「彼らは帰るよ」


 背後で静かな声がした。


「君が心配することは何もない。……ね?」


 会長がそこに立っていた。

 その手が私の肩に置かれる。

 重くはない。それなのに動けなかった。

 門の向こうで四人の背中がゆっくりと遠ざかっていく。

 私はその背中を最後まで見送ることしか、できなかった。


*


 それは雨の夜だった。

 部屋の隅で本を読んでいた私のつま先が。

 感覚を失った。


「……あ」


 白い陶器の色が足首を這い上がってくる。


「リリー!?」


 会長が駆け寄って、私を抱きとめた。


「バングル……」


 声が軋む。


「カイゼルを……お願い、します……」


 会長の指が私のバングルの上で止まった。


 長い、長い沈黙。

 彼の碧い瞳が静かに私を見下ろしていた。


「……ねえ、リリー」


 囁くような声だった。


「君がほかの男に口づけられるくらいならいっそ」


「人形のままでも僕はいいと思ってしまうんだ」


 ――やめて。


「人形なら誰にも奪われない。誰にも傷つけられない。一日中、僕が抱いていられる」


 彼はうっとりと笑っていた。

 涙がこぼれた。動かない体の代わりに。

 その涙を彼は指でそっとすくった。



「……冗談だよ」


 それから彼はバングルを押した。

 カイゼルが来るまでの間、彼は私を抱いたまま、ずっと動かなかった。

 カイゼルが額に唇を落として、私が息を吹き返したとき。


「勘違いするな」


 会長はカイゼルの胸倉を静かに掴んでいた。


「お前はリリーを人形から戻すためだけの存在だ。彼女に恋心ひとつ抱くことすら許さない。もしも変なことを考えたならその時は」


 声が氷のように低かった。


「殺す」


 カイゼルは何も言い返さなかった。

 ただ私を見て、唇を噛んで、それから風の中に消えていった。


     *


 その夜、彼は私の唇に口づけた。

 ――愛し合う二人の口づけ。

 もし、これで呪いが解けたなら。

 けれど。

 何も起きなかった。


「……どうして」


 彼の声が震えた。


「君は僕を愛していないの?」

「……愛しています」


 私は泣きながら答えた。


「好きです。今も会長のことが。あの朝、噴水の縁で倒れていた会長のことが。私の部屋で、子どものように泣いていた会長のことが、今でも大好きです」

「ならどうして」

「……怖いんです」


 言ってはいけない言葉だとわかっていた。

 でも、もう嘘をつけなかった。


「会長が怖いんです。……私を守るために人を殺す会長が」


 彼の顔から、表情が消えた。

 そして彼はくしゃりと笑った。


「そう」

「会長……」

「怖がらなくて、いいんだよ、リリー」


 彼は私を強く、強く抱きしめた。


「怖いのは君を傷つける、世界のせいだ。だから、僕が全部消してあげる。君が何も怖がらなくて、いいように」


 ――違う。

 私が怖いのは。

 言葉が喉の奥で凍りついた。

 この人にこれ以上、何を言っても。

 もう届かない。


*


 結婚式は春に行われた。

 白い大聖堂。高い天井。祭壇の前には金色の髪の人が立っている。


 参列席には王と廷臣たち。

 生徒会の皆の姿はなかった。招待状は届いたはずだった。誰かが途中で止めたのだ。


 誰がとは考えないようにした。


 カイゼルの姿もなかった。あの夜以来、彼を見ていない。


「リリー」


 差し出された手を取る。あたたかい。もうあの頃みたいに冷たくない。


 その手が昨日、何をしたのか。私は知っている。

 新しい離宮の警備に異を唱えた老侍従。私に手紙を渡そうとした侍女。


 不慮の事故だった、と誰かが言っていた。


「誓います」


 誓いの言葉の中で私の声は震えて、いなかった。

 もう震えることもできなくなっていた。


 彼が私のヴェールをそっと持ち上げる。

 碧い瞳が幸せそうに潤んでいる。


「やっと、この日が来た」


 彼は囁いた。


「覚えている? 共犯者になった夜、僕は『ユリオスでいいよ』と言った。けれど君は呼んでくれなくて」


「……はい」


「ねえ、ユリオスって呼んで。リリー」



 ――ああ。


 そうだった。

 あの夜、訓練場の噴水のそばで。

 笑って共犯者になった人に、私は「会長のままで」と答えた。


 約束をしたわけじゃない。ただ、いつか名前で呼べる日が来ると、心のどこかで信じていた。並んで笑って、名前を呼び合える日が。


「……ユリオス」


 口にした瞬間、涙があふれた。

 彼は目を見開いて、それから子どもみたいに顔をぐしゃぐしゃにして笑った。


「うん。うん……! やっと呼んでくれた」


 ぎゅうと抱きしめられる。

 骨が軋むほど強く。


「愛してる。愛してるよ、リリー。一生離さない」


 人々の拍手の中で私は彼の腕の中で目を閉じた。

 嬉しくて泣いているのだと皆は思っただろう。

 彼もそう思っただろう。


 けれど。

 本当は私は知っていた。

 こんな形で名前を呼ぶ日を、私は望んでいたわけじゃないのに。

 あの碧い瞳はもう、私を見ていない。


 彼が抱きしめているのは私という、形をしたもの。

 誰にも奪われないように閉じ込めておくための美しい人形。


 鐘の音が高らかに響き渡る。

 その音の中で私は何度も、何度も呪文のように唱えた。



 ――ユリオス。

 ――ユリオス。

 ――ユリオス。



 どこかにまだ、あの夜の少年がいるのではないかと。

 その名前に振り向いてくれるのではないかと。


 返事はいつも同じだった。


「なあに、リリー?」


 完璧な絵みたいな笑顔で。


 水底のように静かで冷たくて、どこまで沈んでも底のない瞳で。

                        ――BAD END――

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