水の王子と、炎の花嫁(ユリオス後日談②)
本日から2回更新です!
結婚式の朝は、抜けるような青空だった。
控室で、白いドレスの裾を整えていると、扉が叩かれた。
「入るぞ」
黒い髪。黒い瞳。少しだけ大人びた、カイゼルの顔。
「……カイゼル」
「お前、泣きそうな顔してんな」
「まだ泣いてないよ!」
「『まだ』ってことは、泣くんだろ」
彼は、いつものぶっきらぼうな声で言って、ポケットから、小さな包みを取り出した。
「祝いだ」
開けると、細い銀の鎖に、風の形をした小さな飾りが揺れている。
「お守りだ。お前が、どこにいても、風が吹いたら、俺が近くにいるって思えるように」
「カイゼル……」
「バングル、もう使わねえだろ。でも、何かあったら。呪いじゃなくても、何でも。……呼べよ」
視界が、ぐにゃりと滲んだ。
「泣くな。化粧が崩れる」
「だって……」
「お前が笑ってるなら、それでいいんだ。……昔から、俺の望みは、それだけだった」
ぽんと、私の頭に手を置いて、彼は背を向けた。
「幸せになれ、リリー」
「うん。……ありがとう。ずっと、ありがとう」
扉が閉まる。
廊下の向こうで、風が、一度だけ、大きく吹いた。長い間、誰かが背負っていた荷物を、ようやく降ろしたような、そんな音だった。
廊下から、ギャラントの盛大な鼻をすする音と、「泣いてねえ!」という怒鳴り声。それをなだめるラウリの、明るい声が聞こえてきた。
私は、風の飾りを胸元に留めて、涙を拭いた。
*
大聖堂の扉が開く。
光の中、祭壇の前に、金色の髪の人が立っていた。
碧い瞳が、私を見つけて、ふわりとほどける。あの日の、バルコニーの月の下と同じ顔で。
一歩、また一歩。
靴先の魔法なんて、もういらない。ただ、この人のところへ歩いていけばいい。
「リリー」
差し出された手を取る。あたたかい。もう、冷たくない。
「誓います」
誓いの言葉に、私たちの声が、重なった。
「病めるときも、健やかなるときも。……そして」
ユリオス会長が、いたずらっぽく声を落とす。
「君が人形になっても、ならなくても」
「……もう、ならないですよ」
敬語のまま、そう言いかけて。
私は、ふっと笑って、言い直した。
「もう、ならないよ。……ユリオス」
初めて、その名前を、声に出した。
彼の碧い瞳が、大きく見開かれて。それから、みるみる、潤んだ。
「……うん。でも、言いたかったんだ」
参列席から、笑い声とすすり泣きが、いっぺんにこぼれた。
*
結婚式の夜。
王宮の離れの一室。窓の外には月に照らされた噴水が静かな水音を立てている。
白いドレスから、夜着に着替えた私は寝台の縁に座って、両手をぎゅっと握っていた。
(緊張する……)
部屋には蜜蝋のあたたかい香りが漂っている。窓辺のランプの灯りが揺れるたびに壁に映る影も小さく、ゆらめいた。
扉が軽く叩かれる。
「……入ってもいいかな」
「はい」
声が少し上ずった。
入ってきたユリオスは、正装を解いてシャツの襟元を緩めた、いつもと違う姿だった。金色の髪が、ランプの灯りにやわらかく揺れている。
「……緊張してる?」
「してます。……ユリオスは?」
「僕も」
彼は少し照れたように笑った。
「意外だな。会長はいつも完璧な笑顔だったのに」
「今の僕は会長じゃないからね。……ただのリリーの夫だ」
その言葉に胸がきゅうっと締めつけられた。
彼は隣に腰を下ろした。二人分の重みで寝台が小さく軋む。
「怖かったら言って。……いつでもやめるから」
「……怖くはないです。ただ」
「ただ?」
「ちゃんと、あなたに見合う人間でいられるか、少し」
「それは僕の台詞だよ」
彼は私の手を取って、そっと指を絡めた。
「僕はずっと、計算ばかりしてきた人間だ。……でも、君の前でだけは、何も考えなくていい。それが、どれだけ救いだったか」
「ユリオス……」
「今夜も、そうだよ。何も計算しない。ただ、君のことを大切にしたいと思うだけだ」
碧い瞳がまっすぐに私を見つめる。
彼の指先が、私の頬をそっとなぞった。輪郭を確かめるように、耳の後ろの髪をひと房、指に絡めて。
「……好きだよ、リリー」
「私も好きです」
どちらからともなく、額を寄せ合った。互いの吐息のあたたかさがすぐ近くに感じられる。
「……ずっと、こうしたかった」
「……うん」
やわらかく、唇が重なる。
最初は、確かめるようにそっと。それから、少しずつ深く。
彼の腕が、私の背中に回されて。抱き寄せられた体は、思っていたよりずっと頼りなく震えていた。震えているのは自分なのか、彼なのか、もうわからなかった。
「……大丈夫?」
唇をほんの少し、離して彼が囁く。
「……はい」
「怖くなったら、いつでも言って」
「言わない、と思います」
「どうして」
「あなたと一緒だから」
その答えにユリオスは目を細めて、もう一度私の額に唇を落とした。
ランプの灯りがゆっくりと絞られていく。
窓の外の噴水の音だけがいつまでも静かに部屋を満たしていた。
*
夜半ふと目を覚ました。
薄闇の中、腕の中に私を抱いたまま、ユリオスが静かな寝息を立てている。
(……ああ)
心臓の音がすぐそこに聞こえる。とくん、とくん、と、規則正しく確かに。
彼の腕の中はあたたかくて、少し寄りかかりすぎているくらい近い。それでも、私は動かなかった。
窓の外の月明かりが二人を青白く、照らしている。
この人のこの鼓動の速さを。この体温を。
誰も知らない、王子様の素顔を。
自分だけが知っていることが、たまらなく嬉しかった。
目を閉じて、彼の胸にそっと頬を寄せる。
規則正しい、心臓の音を子守唄のように聞きながら。
私はもう一度、静かな眠りに落ちていった。
*
―――ユリオス―――
腕の中の、リリーの寝顔を、僕は長いこと見つめていた。
銀色のまつ毛。薄く開いた唇。眠っているのに、時折、ふっと笑うような口元の動き。
(……可愛いな)
こんなにも単純な言葉が、自分の中から出てくることに、驚いた。
僕はずっと、人を値踏みしてきた。利用できるか、味方になるか、敵になるか。誰と対峙するときも、そういう計算を、無意識にしていた。
それなのに、この子を見ていると。
何も計算できない。ただ、愛おしいという気持ちだけが、胸を満たしていく。
小さく身じろぎした、リリーの手を、そっと握った。
この手が、あの日、僕の凍った手をあたためてくれた。あの雷の夜も。あの水路の倉庫でも。ずっと、僕を繋ぎ止めてくれていた。
(守りたい)
王子としてでも、会長としてでもなく。
ただ、一人の男として。
この、あたたかい寝顔を、これから先ずっと、守っていきたいと、心から思った。
僕は、彼女の額にそっと唇を寄せた。
「……大好きだよ、リリー」
彼女は答えなかった。ただ、その寝息が少しだけ、あたたかくなった気がした。
*
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む、やわらかな光で目を覚ました。
「……おはよう」
隣でユリオスが頬杖をついて、こちらを見ていた。
「……いつから起きてたんですか」
「少し前から。……君の寝顔、見ているのが楽しくて」
「もうそういうところが」
「腹黒だろう?」
悪びれもせずに笑う彼に、思わず笑ってしまった。
彼の手が私の乱れた髪をそっと撫でつけて。指先が耳元をかすめる。
「……よく眠れた?」
「はい。……すごく」
「よかった」
彼は私の手を取って、指先にそっと口づけた。
「これから、ずっとこうして朝を迎えられるんだね」
「はい」
「不思議な気分だ」
「私も」
差し込む朝日の中、二人はしばらく、額を寄せ合って、笑い続けていた。
水の音が遠くから、やわらかく、聞こえていた。




