水の王子と、炎の花嫁① (ユリオス後日談)
8:30にも更新することにします(*_ _)
卒業パーティから、最初の冬が来た。
卒業しても、私は、彼を「会長」と呼び続けていた。名前で呼ぶのは、結婚式の日まで、取っておくと決めたから。
王宮の客間は広くて、天井が高くて、朝の空気が刃物みたいに冷たい。
目が覚めた瞬間、私は凍りついた。
――つま先の感覚が、ない。
(うそ。だって、もう、二度と……)
心臓が、耳の奥で暴れ出す。指を動かそうとして、動いているのかどうか、わからなくなる。あの白い陶器の色が這い上がってくる光景が、まぶたの裏に焼きついて離れない。
バングルはもう、外してしまった。呪いは解けたのだから、いらないはずだった。
空っぽの手首を、必死に掴む。
「リリー」
隣で、ぼんやりとした声がした。次の瞬間、大きな手が、毛布の中の私の足をすっぽりと包む。
「……冷たいね。冬だから」
ユリオス会長は半分眠ったまま、私の足を両手でこすった。水の魔法使いのくせに、その手は驚くほどあたたかい。
「大丈夫。ただの寒さだよ。ほら、ちゃんと動く」
言われて、私はおそるおそる、つま先を曲げた。
――動いた。
指の一本一本に、じんわりと血が通う。それだけのことで、視界がぼやけて、涙が枕に落ちた。
「……すみません。もう、平気なはずなのに」
「平気じゃなくていいよ」
彼は眠そうな目を開けて、私を引き寄せる。
「何度でも確かめればいい。僕はその度に、君の足を温めるから」
「……会長に、足をこすらせるなんて、恐れ多いです」
「光栄だな。王族の手は、国民の足を温めるためにあるんだ」
「そんな役目、聞いたことがありません」
「今、作った」
くすくすと笑ううちに、涙は、笑い涙に変わっていった。
この人は、私の怖さを「大げさだ」と言わない。「もう終わったことだ」とも言わない。ただ、隣にいて、手を貸してくれる。
それが、どれほど救いなのか。
窓の外で、初雪が降り始めていた。
*
春になって、私は初めて宮廷の夜会に出た。
ユリオス会長は、暗殺の役目を降りた代わりに、通商と外交の仕事を一手に任されるようになっていた。
その隣に立つ私は、貴族たちの目にどう映っているのか。
答えは、ホールに足を踏み入れた瞬間にわかった。
「あれが、第三王子のお相手?」
「田舎町の出身だとか。魔法の腕はあるそうだけれど」
「王家の血に釣り合うかしら」
扇の陰の囁きは、聞こえないふりをするには、あまりに大きかった。
ぎゅっと、ドレスの裾を握る。
その手を、ユリオス会長が、そっと包んだ。
「リリー。少し、待っていて」
「え?」
彼は私の手を離すと、優雅な足取りで、囁き声の輪に近づいていった。にこやかな、いつもの――「よくできた絵」のような笑顔で。
「皆さん、楽しそうですね。何のお話でしょう」
「で、殿下……いえ、その、ご婚約者様のお噂を」
「ああ、リリーの。嬉しいな。僕も、その話をするのが大好きなんです」
ユリオス会長の碧い瞳が、にっこりと細められる。
「ちなみに彼女は、学園の入学以来、一度も首席の座を譲っていない。隣国ラグナとの条約の古語文書を、一晩で読み解いたのも彼女です。あの条約で潤った領地は、いくつありましたっけ。ええと、ヴァレン侯爵の領地も、確か」
扇が、ぴたりと止まった。
「……お、お噂は、根も葉もないものでございました」
「そうですか。それはよかった」
笑顔のまま、声だけが、氷のように静かだ。
「僕は、彼女を侮辱する人を、決して忘れませんから」
その背中を見ながら、私は思った。
(あ、腹黒いって、こういうことか)
思わず吹き出しそうになって、口元を押さえる。戻ってきた彼が、悪びれもせず首を傾げた。
「どうして笑ってるの?」
「いいえ。ただ、すごく頼もしいな、と思いまして」
「計算だよ」
「はい、存じています」
私は、彼の腕にそっと手を添えた。
「でも、その計算が、私のためだということも、知っています」
ユリオス会長の耳が、ほんのり赤くなった。
*
けれど、守られてばかりでは、いられなかった。
ダンスの前、老貴族の一人が、意地悪く言ったのだ。
「魔法の腕がおありなら、ぜひ拝見したいものですな。この夜会の余興に」
ホールがしんと静まる。試されている。
私は、一歩前に出た。
「喜んで」
息を吸って、詠唱する。
『小さき炎よ、灯れ――ひとつ、またひとつ』
空中に、無数の火の粉が生まれた。それは蝶のように舞い上がって、ホールの天井の燭台へ、ひとつひとつ、迷いなく飛んでいく。
ぽ、ぽ、ぽ。
消えかけていた百本のろうそくに、一斉に、やわらかな光が灯った。
ホールが、金色の海になる。
一瞬の静寂のあと、拍手が、さざ波のように広がった。あの老貴族が、悔しそうに、けれど確かに、頭を下げるのが見えた。
「……見事だ」
ユリオス会長が、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「今夜の主役は、間違いなく君だよ」
彼が差し出した手を、取る。
踊り出す私たちを、揺れる灯りが、やさしく包んでいた。
*
その秋、ユリオス会長は王に呼ばれた。私も、一緒に。
玉座の間は、広くて、冷たくて、あの日、彼が一人で立ち向かった場所。
王は、長いこと私たちを眺めてから、口を開いた。
「ユリオス。お前が『やりたくない』と言った日のことを、覚えているか」
「はい、父上」
ユリオス会長の背筋が、まっすぐに伸びる。
「あの日から、私は考えていた。国を守るために、子どもに手を汚させ続けることが、本当に王の務めなのかと」
「だがあの法廷で確信した。お前は、手を汚さずとも、国を守れる者だと」
王の視線が、私に向く。
「娘。お前が、あれの背中を押したそうだな」
「……私は、ただ、思ったことを言っただけです」
「その『ただ』を、この城の誰も言えなかった」
王は、深く息を吐いた。
「礼を言う。この国の王として、そして……父として」
驚いて、言葉が出なかった。隣で、ユリオス会長が、息を呑む気配がした。
「結婚を許す。ただし、苦労はするぞ」
「覚悟しています」
私が答えるより早く、ユリオス会長が言った。
「彼女が隣にいるなら、どんな苦労も、苦労じゃありません」
王が、ほんの少しだけ、笑った気がした。




