僕のすべてを、君に
ユリオス会長が王宮へ向かった日。
私は学園の噴水広場でただ、待っていた。
時計の針が進むたび、心臓が縮む。もし、彼が廃嫡されたら。もし、もっと酷い罰を受けたら。私に何ができるだろう。
「顔色悪いぞ」
隣に湯気の立つカップが差し出された。カイゼルだった。
「……ありがとう」
「待つしかできないのがいちばんきついよな」
カイゼルはそれ以上何も言わず、隣に座った。黙ってずっと。その静けさにどれだけ救われたか。
日が傾き空が茜色に染まった頃。
石畳を駆けてくる足音がした。
「――リリー!」
金色の髪。少し乱れた制服。息を切らして汗だくで。
「会長……!」
立ち上がった私の前で彼は足を止めた。
カイゼルがそっと席を外す。すれ違いざま、私にだけ聞こえる声で「行け」と呟いた。
噴水の音だけが辺りに響く。
「父上に話した」
ユリオス会長は深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。
「廃嫡される覚悟だった。それでも、暗殺の仕事はもうしたくないと。……最初は激怒された」
私は息を止めた。
「でも、通商条約の成果と、あの法廷が僕を助けてくれた。父上は、傍聴席でご覧になっていたんだ。殺さずに法で裁いて、国を守れることを」
「……会長」
「『影の役目は、お前を、最後にする』。……そう、おっしゃった。僕の希望は通ったんだ」
視界がぐにゃりと歪んだ。
「……よかった……」
膝の力が抜けそうになった私の手を、ユリオス会長が取る。
「ありがとう、リリー」
碧い瞳がまっすぐ私を見ていた。
「あの日、君が僕の話を聞いてくれなかったら、僕は今も闇の中にいた。君の言葉が、僕を救ってくれた」
「私は何も……」
「したんだよ。たくさん」
彼の指が、私の頬に触れる。冷たいはずの水の魔法使いの手が、熱かった。
「君が好きだ、リリー。計算じゃない。本当に、心から。誰よりも、君が」
世界から音が消えた。
夢じゃないかと思った。けれど、握られた手のぬくもりが、これは現実だと教えてくれる。
涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「私も……私も好きです。会長のことが好きです」
彼の顔がほどけるように綻んだ。今まで見たどんな笑顔より、あたたかい。
その瞬間だった。
――つま先の感覚が消えた。
(うそ……どうして、今)
白い陶器の色が足首を這い上がってくる。
「リリー.....?」
「ごめん、なさい……こんな、ときに……」
声が軋み、体が硬くなっていく。ユリオス会長が慌てて私を抱きとめた。
*
―――ユリオス―――
腕の中でリリーの体温が消えていく。
バングル。カイゼルを呼ぶための青い石。
僕はそれを押そうとして――指が止まった。
ほんの一瞬。呼吸ひとつ分の醜い迷い。
(カイゼルが来れば、リリーは戻る。……あいつの唇がこの子の額に触れる)
額とはいえ。呪いのためとはいえ。
胸の奥でどす黒い感情が渦を巻いた。
(君がほかの男に口づけられるくらいなら、いっそ――)
人形のままでと。
そんなことを考えた自分にぞっとした。
――何を考えているんだ僕は。
腕の中でリリーが必死に瞬きをしている。意識はある。怖いはずなんだ。苦しいはずなんだ。それなのに彼女は動かなくなっていく唇で僕に笑いかけようとしていた。
僕が好きになったのはこの子のこういうところだった。
(違う。僕が守りたいのはこの子の『心』だ。独り占めじゃない)
僕はためらいを振り切って、バングルの石を強く押した。
風が来る。カイゼルが駆けつけるまであと少し。
その僅かな時間で僕は彼女の顔をそっと両手で包んだ。
「……ごめん、リリー。抵抗出来ない君にこんな事するなんて、狡いよね」
冷たくなった頬。硬くなった唇。
僕は彼女の唇に自分の唇を重ねた。
*
――光。
最初に感じたのはあたたかさだった。額ではなく唇から。もっと深くて、もっと確かな、命の奥に届くようなぬくもり。
凍っていた指が動いた。
肌に色が戻って、脚に血が巡って、心臓が大きく、ひとつ鳴った。
「……かいちょう……?」
「リリー……!」
抱きしめられた腕の強さで、私は本当に戻ってきたのだと知った。
そこへ風と共にカイゼルが駆け込んできた。息を切らして、私たちを見て、動きを止める。
彼は、状況をすべて理解したようにゆっくりと息を吐いた。
「……よかったな」
黒い瞳が少しだけ揺れて、それから静かに細められる。
「愛し合う二人の口づけ」
「え……?」
愛し合う二人の。
どうして、カイゼルがそんな言葉を。
「昔、古い本で読んだんだ。……お前に言えば、焦って誰かを好きになろうとするだろ。だから、黙ってた」
幼い時からの付き合いだ。
嘘だとすぐにわかった。どうしてそんな嘘をつくのかは分からない。
でも、それが彼なりの優しさなのだということもわかってしまった。
「俺の額のキスはただの時間稼ぎだった。お前が本当に好きな相手と出会うまでのな」
冗談めかした声。でも、その目は笑っていなかった。
「カイゼル……ごめん」
「謝るな。時間稼ぎ役、悪くなかった」
カイゼルは首を振って、私の頭にぽんと手を置いた。
「間に合ってよかった。……幸せになれよ」
そしてユリオス会長に向き直る。
「王子様。約束覚えてるな」
「もちろん」
「泣かせたら、吹っ飛ばす」
「肝に銘じるよ」
去っていく黒い背中は、いつもと同じように静かで、少しだけ寂しそうで。
私はその背中が見えなくなるまで目を逸らさなかった。
――恋でもしたら?
あの夜、彼が言った言葉。あれはどれほどの想いを飲み込んで言ってくれた言葉だったのか。
「……ありがとう、カイゼル」
誰にも聞こえない声で私は呟いた。
*
その日を境に私の呪いが発動することは二度となかった。
禁書庫の奥で、ユリオス会長はのちに古い一節を見つけた。
『想い合う者の口づけによって、呪いは解かれる』
カイゼルの言っていたことは本当だった。
あの人はいつから、これを知っていたのだろう。私に何も言わず、額のキスで私を守り続けながら。
それを思うと私は少しだけ、泣きそうになった。ユリオス会長は何も言わず、隣で手を握ってくれた。
*
季節は巡り、冬の終わり。
ユリオス会長の卒業パーティの夜。
大ホールのシャンデリアの下で私たちは踊っていた。
「今度は足を踏まなかったね」
「もう踏みません! あれから毎日練習しましたから」
「うん、知ってる。毎晩、僕と」
「そ、それは言わなくていいです!」
くるりと回る。ドレスの裾が花のように舞う。あの日、震えていた新入生はもういない。彼の腕の中で私は心から、笑っていた。
「……少し抜け出さないか」
彼の囁きに頷く。
人気のないバルコニーには大きな月が浮かんでいた。銀の光が二人の影を長く伸ばす。
ユリオス会長は私の前に立って、小さな箱を取り出した。
蓋が開く。中には水色の宝石が輝く銀の指輪。
「これから先、君には大変な思いをさせてしまうと思う」
まっすぐに彼は言った。
「僕と一緒にいない方が、君は幸せになれるだろう。でも、僕は君がいないと嫌なんだ」
彼の声が、わずかに震えている。あの日、熱に浮かされて泣いていた少年の面影が、そこにあった。
「僕は、僕のすべてをかけて、君を全力で守る。だから、一緒に来てくれませんか」
涙があふれた。
何を迷うことがあるだろう。
人形になる恐怖の中で出会った、嘘つきで、優しくて、傷だらけの私の王子様。
「――はい」
震える声で、けれどはっきりと。
「はい。……会長と行きます。どこまでも」
「もう会長じゃないんだけどな」
ユリオス会長がくすりと笑う。
「……お名前で呼ぶのは結婚式の日まで取っておきます。」
「ふふ。手強いな。……わかった。楽しみにしておくよ」
左手の薬指に指輪が通される。ぴたりと彼の水の色が私の指に収まった。
顔を上げると、月の光の中でユリオス会長が笑っていた。絵みたいに完璧な笑顔なんかじゃない。少し泣いていて、少しくしゃくしゃで、世界でいちばん本物の笑顔だった。
「リリー」
「はい」
「愛してる」
彼の手が私の頬に触れる。私は目を閉じた。
月に照らされたバルコニーで私たちは二度目のキスをした。
あの日の、必死で切なくて、命を繋ぐためのキスとは違う。
これから続いていく、長い長い未来の、最初のキス。
遠くでホールの音楽が優しく鳴っている。
その音に混じって、風がひとつ、そっと吹いた。
どこかで誰かが私たちを祝ってくれているような、そんなあたたかな風だった。
お読み頂きありがとうございます。
これにてユリオスルート本編完結です。
この後、後日譚、BADENDをはさみ、ギャラントルートに入ります。
※明日から8:30にも更新することにいたします。
8:30.10:30の2回更新です。




