水路の倉庫と、月下の対決
準備は、あと一晩。
翌朝には、大法院に令状の申請をする。セシリア先輩が実家に頭を下げに行った。
その夜、私は書類の最終確認のため、図書館に残っていた。
本物の帳簿の写しと、条約第九条の三の翻訳。
(副本はエルンスト先輩がもう一部持っている。……大丈夫)
そう思って図書館を出たときには、あたりはすっかり暗くなっていた。
中庭を横切る、その途中。
背後で、砂利を踏む音がした。
「……?」
振り向こうとした、その瞬間。
頭からばさりと、袋を被せられた。みぞおちに、鈍い衝撃。
(しまった......!)
薄れていく意識の中で、私は必死に指先を動かした。
『……灯れ』
ほんの、針の先ほどの、火の粉。
馬車の、車輪の泥除けに、ぽつりと、灯して。
(気づいて……)
誰に宛てた願いなのかも、わからないまま。
私の意識は、闇に落ちた。
*
冷たい水の匂いで、目が覚めた。
暗い。天井が高い。積み上げられた木箱と、樽。奥のほうで、青白い魔石の光が、ちかちかと瞬いている。
手首は、縄で縛られて、太い柱に括りつけられていた。
足元から、ひたひたと、水音。水路のすぐそばだ。
「お目覚めかな、お嬢さん」
穏やかな声。
樽の陰から、銀髪の、上品な紳士が、ゆっくりと現れた。
整った顔立ちに、柔らかな微笑み。金縁の外套。……一瞬、誰かに似ている、と思った。
ユリオス会長の、あの「絵みたいな笑顔」に。
でも、違う。あの人の笑顔の奥には、傷や、迷いや、あたたかさがあった。この人の笑顔は、ただ、空っぽだ。
「ボルグ、伯爵」
「おや、名前を覚えてくれていたのか。光栄だね」
彼は、私の前の椅子に、優雅に腰を下ろした。
「そんなに怯えなくていい。あなたを殺すつもりは、今のところ、ないよ」
「今のところ、って」
「あなたは、大切な客人だからね」
伯爵は、私から取り上げた書類を、ぱらぱらとめくった。
「よくも、読み解いてくれたものだ。あの古語の条文を。……あれさえなければ、私の封印は、あと十年は、通用したのに」
「あの封印は、偽物です」
「ええ、偽物だとも。でも、本物より、ずっと儲かる」
悪びれもなく、彼は笑った。
「ところで、お嬢さん。私はね、王家から、あるものを頂戴していることを、知っている。……白い封筒だ」
心臓が、どくん、と鳴った。
「新月の夜に、私の名前が書かれた紙が届いた。そして、王家の『影』が動こうとしている。その『影』が誰なのか、実は、私は、突き止めているのだよ」
「…………」
「金色の髪の、美しい第三王子殿下、だ」
息が、止まった。
伯爵は、私の顔を見て、愉快そうに目を細めた。
「ああ、やはり、ご存じか。あの子は、あなたに話したのだね。よほど、信頼されているらしい」
「……何が、目的なんですか」
「簡単な取引さ」
伯爵が、懐から、一通の封書を取り出した。
「これは、私の保険でね。王家の『影』の記録が、すべて書かれている。日付、名前、場所。私が、もし死んだなら、この封書の写しが、翌朝、王都のすべての新聞社に届くよう、手配してある」
――死んだなら。
「殿下は、私を殺せない。殺せば、あの美しい第三王子は、暗殺者として国中に知れ渡る。王家は、失墜する」
「……そんな」
「だから、殿下には、選んでもらう。証拠のすべてを私に返し、告発を取り下げるか。それとも、あなたが水路の底に沈むのを、見ているか」
背筋を、冷たいものが伝った。
彼は、私を、罠の餌にしたんだ。ユリオス会長を、動けなくするために。
「殿下は、必ず来る。あの子は、あなたを愛しているから」
「……あなたは、間違っています」
声が、震えた。それでも、私は言った。
「あの人はもう、あなたの思っているような人ではありません。あなたを殺しになんて、来ません」
「ほう?」
「あの人は来ます。私を助けに。でも、殺しには来ません」
伯爵は、ふっと笑った。
「威勢のいいお嬢さんだ。……見物だね」
彼が、樽の陰に下がっていく。
私はそっと、袖の内側で指を動かした。
小さな炎。誰にも気づかれない、針の先ほどの火を縄に近づける。
じりじりと繊維が焦げていく。
(大丈夫。……私はもう守られるだけの私じゃない)
ユリオス会長に言った。「半分、背負う」って。
だから私もここで戦う。
*
―――ユリオス―――
リリーが戻らない、と知らされたのは夜の九時だった。
図書館に、彼女の姿はなかった。中庭に書類の一枚だけが落ちていた。
「――ッ」
頭の中が、真っ白になった。
血の気が、引いていく。指先が、冷たい。初めて人を手にかけた夜と、同じ冷たさだった。
(僕のせいだ。僕が、巻き込んだ)
「会長」
エルンストが、僕の腕を掴んだ。
「落ち着いてください。まず痕跡を探します」
「そうだよ、会長! リリーは絶対、何か残してる!」
ラウリが、目を閉じて両手を広げた。
『日ざしよ、彼女の足跡を照らせ』
中庭の地面に、細い金色の光の筋が浮かび上がった。門の外まで続いている。
「……あった! 火の魔力の残り香だ! 馬車の車輪に、火の粉がついてる!」
「車輪の跡は貨物用だ」
エルンストがしゃがんで、地面を観察する。
「積載量の多い、二頭立て。門から西へ。その先の轍が、水を含んでいる。……水路沿いです」
「倉庫街か」
ギャラントが拳を鳴らした。
「ボルグの倉庫。どれかは、わからねえが」
「私が絞れるわ」
声がした。
振り返るとセシリアが息を切らして立っていた。手には分厚い封筒。
「大法院の捜索令状と、逮捕状。父の副署入りよ。……三時間、粘って書かせたの」
「ローゼンバーグ書記……」
「別に。ついでよ」
言いながら、彼女は震える手で書類をエルンストに押しつけた。
「ボルグ家の倉庫は、水路沿いに三か所。図面に載っているわ。可能性が高いのは、第七倉庫。積荷の出入りが、一番、夜間に集中してる」
エルンストが、令状と図面を受け取った。目が彼女をまっすぐに見ている。
「……ありがとう、セシリア」
初めて名前を呼んだ。
セシリアが、ぱっと顔を上げた。頬が真っ赤だった。
「な、なによ、急に……。それより、早く行きなさい!」
「はい」
僕は、誰よりも早く走り出していた。
「会長、一人じゃ危ねえ!」
「先に行く!全員運ぶことはできない!」
それだけ伝え、水路に出る。夜の水面が、黒く光っている。
僕は、その上に飛び乗った。
『水よ、僕を、運べ』
水面が波打って、足元を持ち上げる。水の道が闇の中を一直線に走り出した。
リリー。
待っていて。
絶対、行く。
*
第七倉庫の大扉の前で、僕は水の道を止めた。
扉に手をかけ、深呼吸をする。
(殺さない。殺さない。殺さない)
何度も心の中で繰り返した。
扉を押し開ける。
薄暗い広い倉庫。その奥に、柱に縛りつけられたリリーがいた。
「――リリー!」
「会長!」
彼女の目が、僕を捉える。
「おや、殿下。ようこそ」
樽の陰からボルグが現れた。その後ろに、剣を持った男が三人。
「……ボルグ伯爵」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「その人を、放せ」
「それは、できませんな。取引が、成立するまでは」
伯爵は封書をひらひらと振ってみせた。
「さあ、殿下。選んでください。いつもの『お仕事』をなさいますか? そうなれば、明日の朝刊が楽しみですなあ」
水が、ざわ、と僕の周りで揺れた。
――殺せる。
一瞬で、殺せる。この男の喉元に水の刃を突き立てるだけで。
リリーの命がかかっている。この男が死ねば、この子は助かる。
……新聞が、何だ。王家が、何だ。この子が無事なら。
指先に水が集まっていく。
昔の僕が囁く。
簡単だよ。いつも通りに、やればいい。
「――会長!!」
リリーの声が、倉庫に響いた。
「だめです! 殺しては、だめです!」
僕ははっとして、彼女を見た。
縛られたままリリーが、必死にこちらを見つめている。その目に、涙が溜まっている。それなのに彼女が恐れているのは、自分の命じゃなかった。
「ここで殺したら、会長は、あの夜に戻ってしまいます!」
声が、震えている。
「私は、大丈夫ですから! 私を理由にしないでください! 私のために、会長が会長でなくなるなんて、そんなの、絶対に嫌です!」
――ああ。
この子は。
自分が殺されるかもしれない、その瞬間に、僕の心を、守ろうとしている。
指先の水が、ゆっくり、ほどけていく。
「……ありがとう、リリー」
僕は、笑った。たぶん、今までで一番、へたくそな笑顔で。
「僕は、殺さない」
「ほう」
ボルグの目が、細くなる。
「では、この娘は?」
剣を持った男が、リリーに、近づいた。刃が、彼女の首元に、迫る。
「――ッ!」
その瞬間だった。
リリーの手首から、縄が、ぷつんと、切れた。
『火よ、爆ぜよ!』
どんっ!
炎の塊が、男の足元で炸裂した。男が悲鳴を上げて後ろに吹き飛ぶ。
「縄、ずっと、焦がしていたんです!」
リリーが、柱から、飛び退いた。
「半分、背負うって、言ったじゃないですか!」
――やっぱり、この子は最強だ。
僕は両手を振り抜いた。
『水よ、縛れ!』
水の鎖が、残りの二人に絡みつく。リリーの炎が水を熱して、白い蒸気が倉庫に充満した。
視界が、真っ白になる。
「くそっ、何をしている!」
ボルグの上ずった声。
蒸気の中を、僕は駆けた。
あの男の胸倉を掴む。
水の刃を、出しかけて――止めた。
代わりに、水の鎖を彼の両手首に絡ませる。冷たい、透明な手錠。
「あなたを、殺しはしない」
彼の耳元で囁いた。
「大法院で会いましょう、伯爵」
「な……」
その瞬間、倉庫の大扉が、轟音を立てて、吹き飛んだ。
「そこまでだ!」
ギャラントの声。土の壁が、出口を塞ぐ。ラウリの光が、目が眩むほどの閃光になって、剣の男たちを怯ませた。
「大法院の名において! 捜索令状と、逮捕状を、執行します!」
エルンストの、凛とした声が、響き渡る。その隣に、大法院の執行官たちの制服が、ずらりと並んでいた。
「ボルグ伯爵。貴殿を密輸、偽造、殺人教唆、及び誘拐の容疑で、逮捕します」
伯爵の顔から、笑みがすうっと消えた。
「……馬鹿な。殺さずに、私を捕らえるだと。この、私の保険は……」
「その封書は、大法院が、預かります」
エルンストが、伯爵の手から、封書を抜き取った。
「あなたが亡くなっていないため、その『発送』は、行われません。……賭けは、あなたの負けです」
ボルグはがくりと、膝をついた。
蒸気が晴れていく。
リリーが、駆け寄ってきた。
「ごめんリリー。怖い思いをさせた」
「いいえ」
彼女の手が僕の背中に回される。
「会長は、ちゃんと来てくださいました。殺さないで、来てくださいました」
その言葉に僕は堪えきれず、目を閉じた。
「……ありがとう」




