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私が死ぬたびに、あなたは生き返る。そして私を忘れる  作者: ヲワ・おわり


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第7話 誰かの筆跡

 婚約の儀の朝は、いつもと同じ亜麻の匂いから始まる。

 けれど、リーゼの動き方は、前の周とは違っていた。天蓋を見上げてから、身を起こすまでが、わずかに速い。無駄にできる時間は、もう、一秒たりとも残っていない。

 この周では、守り方を変える。

 これまで潰せなかった凶行の芽が、いくつかある。毒も刃も先回りで防いできたが、防いだ先に必ず別の手が伸びてきた。ならば、もっと川上へ。刺客を雇い、給仕を買収し、生家をけしかける、その一番上の水源へ、手を伸ばしてみよう。そう決めていた。

 朝の身支度もそこそこに、リーゼは動いた。前の周で買収されていた給仕を、今度は先回りして遠ざける。刺客の潜伏先に、公爵家の見回りをそれとなく向けさせる。婚約者のわがままを装いながら、盤面の駒を、一つずつ先に払っていく。

 だが、そこで初めて気づいた。

 こちらが手を変えると、敵の手も変わる。潰したはずの給仕の代わりに、見覚えのない下働きが厨房に入っている。向けさせた見回りは、なぜか途中で別命を受けて引き返していた。まるで、こちらの一手を読んで、先に組み替えているかのようだった。

 記憶は、万能ではない。介入すれば、その先が変わる。わかっていたはずのことが、今日はやけに、骨身にこたえた。

 これまでは、決まった筋書きの上を、先回りしていればよかった。相手の手を覚えていたから、防げた。けれど、水源へ手を伸ばした途端、相手はこちらを一個の敵と認め、動き方を変えてくる。まるで、盤の向こうに、こちらの記憶を見透かす目があるかのように。

 背筋が、ざわついた。ただの生家の嫌がらせに、こんな知恵は回らない。この違和感の正体を、今度こそ突き止めなければ。彼女はそう、腹を決めた。


 その日の午後、生家からの使者が来た。

 継母マグダと、異母妹ネリーが、また公爵邸を訪れていた。応接の間に通されたリーゼを待っていたのは、これまでよりも一段と念の入った、悪意の網だった。

 「まあ、お姉様。聞きましたわよ」ネリーが、甘い声を尖らせる。「厨房の使用人を勝手に遠ざけたそうですわね。公爵家の差配に口を出すなんて、婚約者の分際で、ずいぶんと図々しいこと」

 まだ誰にも話していないはずの差配を、なぜ、この娘が知っている。

 リーゼの背を、冷たいものが伝った。

 「ネリーの言うとおりですわ」マグダが、扇を優雅に開いた。「あなたのなさることは、いちいち周りの目に留まりますのよ。公爵家に、いらぬ噂が立ちますわ。破談にでもなれば、アーレンスの家の恥。そうならぬよう、わたくしどもは、心を砕いておりますのに」

 心を砕く。その言葉が、この女の口から出るのを、リーゼは奇妙な心地で聞いた。継母は、継子の破談を誰より望んでいる女だ。実の娘ネリーを、公爵家に押し込みたいのだから。なのに今日は、破談を憂うふりをして、こちらの動きを牽制してくる。矛盾している。まるで、破談させたいのではなく、リーゼをこの場に縛りつけ、自由に動かせなくすることが目的であるかのように。

 誰かが、そう命じているのだ。この女に。

 言葉の運びが、滑らかすぎる。以前のマグダは、もっと直情的に、感情のままに継子を詰った。今の継母は、まるで用意された台本を読むように、こちらの弱みを的確に突いてくる。ネリーの棘の置き方も同じだった。この娘の頭からは、決して出てこない計算が、そこにあった。

 二人が仕掛けてくる揺さぶりを、リーゼは表向き、以前と変わらぬ様子で受け流した。うつむき、詫び、下手に出る。けれど、その内側で、彼女は別のものを観察していた。二人の言葉が、どこから来ているのか。誰の意図が、その背に貼りついているのか。

 母たちは、駒だ。前の周でそう気づいた。今日、その確信が、また一段、深まった。


 夕暮れ、内庭の井戸端で、事は起きた。

 水を汲みに出た下働きの少女が、足を滑らせ、石組みの縁から井戸へ落ちかけた。悲鳴。リーゼはとっさに駆け寄り、少女の腕を掴む。だが、濡れた石は滑り、今度は自分の体が前へ泳いだ。井戸の暗い口が、目の前に迫る。冷えた水の匂いが、下から立ちのぼった。

 その腕を、強い力が後ろへ引いた。

 アルヴィスだった。彼はリーゼと少女の両方をまとめて抱え、井戸から引き離していた。三人が、石畳の上に折り重なる。土と、苔の匂い。心の臓が、耳の奥で早鐘を打っていた。

 「無事か。……まったく、君は」

 彼は肩で息をしながら、リーゼをのぞきこんだ。それから、自分の腕を、信じられないというように見下ろす。

 「初めて会ったはずだ。会って、まだ幾日も経っていない。……なのに、なぜだ。なぜ、君が危ういと、こうも体が勝手に動く。理屈が、まるで通らない」

 彼が、初めてそれを、言葉にした。

 これまでは、ただ戸惑うだけだった。今の彼は、その戸惑いの正体を、掴もうとしている。忘れているはずの記憶が、彼の内側で、少しずつ形を持ちはじめているのかもしれない。リーゼの胸に、淡い光と、それを上回る怖れが差した。思い出してほしい。けれど、思い出せば、あなたにも、あの死の記憶が牙をむく。

 「……きっと、お優しいのですね。あなたは」

 やっと返した言葉は、また、真実をひとつ隠したものだった。

 彼を残して私室へ戻る道すがら、リーゼの思考は、別のところを回っていた。母たちの、あの周到さ。厨房を組み替える、あの速さ。それらは、生家一つの器では、到底ありえない。

 継母の悪意の後ろに、誰かが立っている。母たちの口を借りて、筋書きを書いている、別の誰かが。厨房を組み替える速さも、こちらの一手を読む目も、その誰かのものだ。

 考えてみれば、アルヴィスを殺す手も、同じだった。周ごとに形を変え、こちらの防御を的確にすり抜けていく。生家の嫌がらせと、公爵暗殺。ばらばらに見えていた二つの糸が、頭の中で、一点に向かって撚り合わされていく。

 同じ手が、両方を動かしているのではないか。

 その考えに行き着いたとき、リーゼの足は、廊下の真ん中で止まっていた。窓の外は、とうに夜だ。冷えた空気が、首筋を撫でていく。もしそうなら、敵はただの生家でも、名もなき刺客でもない。もっと大きな、こちらの手の届かないところにいる、何かだ。

 その筆跡を、突き止めなければならない。次の一歩は、川上へ。母たちが、誰の言葉を運んでいるのか。その糸を、手繰る。

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