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私が死ぬたびに、あなたは生き返る。そして私を忘れる  作者: ヲワ・おわり


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第6話 あなたは、この日を忘れる

 その日は、雨あがりの朝から始まった。

 濡れた石畳が、朝日を吸って銀色に光っている。土と、雨の名残の匂い。公爵邸の中庭で、リーゼはアルヴィスに乞われるまま、彼の隣を歩いていた。政務の合間に、庭を見せたいと言われたのだ。こんな誘いは、この周では初めてだった。

 「この木は、祖父が植えたものだ」

 アルヴィスが、大きな樫の幹に手を置いた。「幼い頃、ここでよく叱られた。剣の稽古を抜け出しては、木の上に隠れていてな」

 「まあ。あなたが、木の上に」

 「意外か」彼の口元が、わずかに緩んだ。「今は誰にも言わないでくれ。公爵家の威厳に関わる」

 リーゼは、思わず声を立てて笑った。ふだん、彼の前では作ってみせる笑みだったのに、このときばかりは、ほどけて出た。

 彼が、その顔をじっと見た。灰色の瞳が、やわらかく揺れる。

 「そうやって笑うと、ずいぶん印象が違うな。いつもの君は、どこか遠くを見ている。今、初めて、こちらを見た気がした」

 胸を、そっと突かれた。いつも遠くを見ているのは、この幸福が、明日には消えると知っているからだ。彼はそれを知らない。知らないまま、いちばん近くまで、手を伸ばしてくる。

 風が出て、樫の葉が一斉に鳴った。散りかけた葉が、リーゼの髪に一枚、落ちてくる。それを、アルヴィスの指がそっと払った。触れるか触れないかの、慎重な手つきだった。武人の、人を斬るための手が、令嬢の髪の一葉を払うのに、これほど気を遣っている。その不器用さが、いつも彼女の胸を締めつけた。

 「すまない。つい、手が」彼は自分の指を、戸惑ったように見つめた。「……どうも、君のことになると、勝手に体が動く。困ったものだ」

 困っているのは、こちらのほうです。喉まで出かかった言葉を、リーゼは笑みの下に隠した。

 昼餐も、午後の茶も、彼はリーゼの傍を離れなかった。書架から古い詩集を持ち出しては、下手な節をつけて読み上げ、彼女を呆れさせた。夕暮れには、二人で厩の仔馬を見に行った。生まれたばかりの栗毛が、頼りない脚で母馬にすり寄る。藁と、馬の温かい匂い。

 「名を、つけてやってくれ」

 アルヴィスが言った。「君がつけた名なら、こいつも喜ぶ」

 この仔馬が育つ姿を、自分は見ることがない。あの夜が来れば、この周も終わる。喉まで出かかったその言葉を、リーゼは薄い笑みの下に飲み込んだ。

 「では、アウロラと。夜明け、という意味です」

 「アウロラか。夜明けの色を、しているものな。いい名だ」

 彼が仔馬の首をなでながら頷く。その穏やかな横顔を、リーゼは瞬きも惜しんで目に焼きつけた。何度でも、忘れられても、自分だけは覚えていよう。この一日を。この、痛いほど満ちた時間を。


 異変の気配は、その夜、晩餐の席で兆した。

 季節は、いつのまにか晩秋へ傾いている。冷えた廊下の空気が、燭台の炎を揺らしていた。運ばれてきた葡萄酒の杯を、アルヴィスが手に取ろうとする。その瞬間、リーゼの記憶が警鐘を鳴らした。

 この夜だ。この葡萄酒に、毒が仕込まれる周がある。

 「お待ちを」

 声が、とっさに出ていた。杯に伸びた彼の手を、押しとどめる。給仕の顔が強張るのを、リーゼは見逃さなかった。買収されているのだ。誰に、とまでは、まだ確かめきれていない。

 「毒見を、させてください。今宵の酒は、香りが妙です」

 彼女の必死の形相に、アルヴィスは黙って杯を引いた。難を、ひとつ逃れた。けれど、安堵はできない。先回りで一つ潰せば、盤面はまた形を変える。潰した先に、別の刃が用意されている。それを、リーゼは幾度も味わってきた。

 果たして、深夜だった。


 賊は、寝静まった邸の裏手から入ってきた。

 その気配を、リーゼは眠らずに待っていた。毒を防げば、次は刃が来る。長い繰り返しが、それを教えている。だから今夜も、彼女は着替えたまま、廊下の暗がりに身を潜めていた。守るための段取りを、いくつ敷いても足りない。敵は、こちらが一つ塞ぐたびに、二つ目の穴を掘る。

 剣戟の音が上がった瞬間、リーゼは駆けだしていた。アルヴィスはすでに数人を相手取っている。毒で弱らせる筋書きが崩れ、敵は力ずくの襲撃に切り替えたのだ。回廊に、鉄と血の匂いが満ちる。松明の炎が、壁に人影を大きく躍らせていた。

 従騎士たちが遅れて駆けつけ、乱戦になる。その隙をつくように、一人の賊が、アルヴィスの背後の死角から、短剣を振りかぶった。彼は、正面の敵に気を取られ、気づいていない。

 考えるより先に、リーゼの体は動いていた。彼の背へ回り込み、その刃を、自分の背で受け止める。灼けるような痛みが、遅れて広がった。膝が、崩れる。

 「なぜ、また君が……!」

 振り向いたアルヴィスの腕が、倒れる彼女を抱きとめた。今朝、木の上の話をして笑い合った、その同じ腕だった。

 「アウロラを……あの子を、可愛がってあげて、ください」

 伝わらないと知りながら、リーゼは微笑んだ。彼の温もりが、遠ざかっていく。

 視界が、白く。


 亜麻の匂い。庭師の鋏の音。婚約の儀の、朝。

 リーゼは、天蓋を見上げていた。今朝の彼は、樫の木の話も、仔馬の名も、何ひとつ覚えていない。アウロラという名すら、この世界のどこにも、もう存在しない。

 覚えているのは、わたしだけ。

 この幸福を抱えて生きるのも、失う痛みを引き受けるのも、いつも、わたしひとりだ。彼は今朝、また新しい気持ちで、初対面のわたしに戸惑うのだろう。そして知らぬまま、また惹かれ、また、わたしのために救われる。何度でも。

 窓辺に、朝の光が満ちていく。厩には今頃、あの栗毛の仔馬がいるはずだ。名は、まだない。この周のわたしが、また同じ名をつけてやれば、あの子はまた、アウロラになる。そんなささやかな繰り返しだけが、この身に許された、たったひとつの慰めだった。

 それでも、リーゼは寝台から身を起こした。左胸の痣が、また一節、心臓へ伸びている気がした。指を当てても、痛みはない。ただ、残された時が、また少し削れた。その事実だけが、静かに、確かに、そこにあった。

 今日もまた、彼を死なせないための一日が始まる。リーゼは深く息を吸い、いつもの微笑みを、顔に据えた。

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