第5話 その痣を負う者
大聖堂の身廊は、昼でも薄暗かった。
高い硝子窓から差す光が、床の石に色の帯を落としている。香炉の煙と、冷えた石の匂い。祈りに訪れた信徒たちの気配は疎らで、リーゼは列の後ろで頭を垂れながら、堂の奥へと目を配っていた。
祈りに来たのではない。探しに来たのだ。
自分は、なぜ死ぬたびに時を遡るのか。この左胸の痣は、何なのか。守るために死ぬことだけが、彼を生かす唯一の道。その理までは、繰り返しの果てにたどり着いた。けれど、なぜそうなるのかを、彼女はまだ、何も知らない。理由がわかれば、繰り返しそのものを終わらせる糸口も、見つかるかもしれない。彼を守って死に続けるのではなく、彼が殺されない世界を作る。そのための、最初の一歩だった。
教会は、この国で唯一、超常の奇跡を扱う場所だった。秘蹟と呼ばれる、厳しく管理された希少な奇跡。病を癒し、誓いを立て、時に死者を悼む儀を執り行う。ならば、自分の身に起きていることの答えも、この石壁のどこかに眠っているはずだった。
人目を避け、リーゼは奥の書庫へ続く扉に近づいた。古い教義書や聖人伝が納められた一角。錠は下りていない。あたりに人影がないのを確かめ、半歩、足を踏み入れる。黴と、乾いた羊皮紙の匂いが、鼻を突いた。
背表紙の褪せた文字を、指でたどっていく。奇跡。贖罪。回帰。目当ての言葉を探して、棚から棚へ。だが、封じられた秘蹟に関する記述は、どれも途中で墨に塗り潰されているか、頁ごと切り取られていた。ざらついた切り口が、指先に触れる。誰かが、意図して消している。それも、ずいぶん昔から。
消したがるということは、そこに、隠すべき何かがあるということだ。
背筋を、冷たいものが伝った。この国で、教会に逆らえる者はいない。王でさえ、教権とは慎重に均衡を取っている。もし、禁じられた秘蹟を嗅ぎまわる伯爵令嬢がいると知れれば、異端の名を着せられ、火にかけられても不思議はなかった。ここは、そういう場所だった。それでも、引き返すわけにはいかない。答えは、この奥にしかない。
「そこは、若いお嬢さんが入る場所ではないぞ」
しわがれた声に、リーゼは指を止めた。
振り返ると、小柄な老神父が立っていた。
色褪せた法衣。腰は曲がり、白い眉が目にかかっている。下級の神父なのだろう、装いに飾りはない。けれど、その目の奥だけが、妙に澄んで、若かった。
「失礼を。少し、道に迷いまして」
「ふぉっ。祈りの間から書庫までは、ずいぶんと遠回りな道じゃな」
見透かされている。リーゼは静かに頭を下げ、その場を辞そうとした。老神父の脇をすり抜けようとしたとき、その視線が、ふと彼女の胸元に止まった。詰め襟の合わせから、ほんのわずかにのぞいた、黒い筋。
飄々としていた老神父の顔つきが、初めて曇った。
「……その痣は」
声が、低くなる。「見なかったことには、できんな」
リーゼの指が、とっさに襟元を押さえた。心の臓が、ひとつ大きく跳ねる。この痣のことを、誰かに言い当てられたのは、初めてだった。長い繰り返しの中で、ただの一度も。
「これは、ただの痣です」
「ただの痣が、茨のかたちに枝を広げて、心の臓へ向かって伸びるものかね」
老神父は、皺だらけの手で顎をなでた。バルトロ、と彼は名乗った。その目が、値踏みするのではなく、どこか憐れむように細められる。
「昔、一度だけ、その痣を負うた者の話を聞いたことがある。ずっと昔じゃ。もう、覚えている者もおるまいて」
「その人は、どうなったのですか」
問いかけた声が、我知らず、急いていた。バルトロは、しかしすぐには答えなかった。ただ、白い眉の下から、じっとリーゼを見つめる。値踏みではない。もっと深いところを、覗き込むような目だった。
「知って、どうする。知れば、その肩が、軽うなるとでも思うたか」
「……いいえ。でも、知らなければ、何も終わらせられない」
バルトロの目が、わずかに見開かれた。まるで、その言葉を、遠い昔にどこかで聞いたとでもいうように。それきり、彼は口を閉ざした。堂の奥から、聖歌の練習の声が、細く流れてくる。答えの代わりに、その旋律だけが、二人の間を満たしていた。
帰りの馬車の中で、リーゼは膝の上で手を組んでいた。
窓の外を、王都の街並みが流れていく。石畳を打つ蹄の音。夕暮れの気配が、空の端に滲みはじめていた。
呪いではない。バルトロの口ぶりが、それを告げていた。この痣は、この繰り返しは、封じられた何かだ。名を持ち、歴史を持つ、秘蹟の一種。ならば、それを解く術も、どこかにあるはずだった。
長い闇の中に、初めて、細い糸の端が見えた気がした。
けれど、その手応えと引き換えのように、焦りが胸を締めつける。こうして答えを探している間にも、あの夜は近づいてくる。彼を守る手立てを整えながら、秘蹟の謎まで追うには、ひと月は、あまりに短かった。
辞するとき、バルトロが背中に投げた言葉が、耳に残っている。
「また、来なさい。話くらいは、聞いてやろう。……ただし、次に会うときには、その痣が、もう少し広がっておるかもしれんな」
その通りだと思った。次にここへ来るのは、きっと、また一度死んだあとだ。痣は、そのたびに、心臓へ一節ずつ近づいていく。バルトロは、それを見抜いていた。この繰り返しに終わりがあること、そして、その終わりが遠くないことを。
馬車の揺れに身を委ねながら、リーゼはそっと、左の胸に手を当てた。衣越しの肌の下で、黒い茨が、静かに時を刻んでいる。
急がなければ。けれど、焦って、貴重な一度を無駄にはできない。
それでも、今日という一日は、無駄ではなかった。長いあいだ、たった一人で抱えてきた繰り返しに、初めて、外から手を伸ばしてくれる者が現れた。答えを持っているかもしれない、ただ一人の老人。あの澄んだ目は、この痣の意味を、たしかに知っている。
次に会うのは、また一度、この身を彼の盾にしたあと。その約束の重さに、リーゼは静かに唇を噛んだ。
相反する二つの声に挟まれたまま、リーゼは暮れなずむ王都の空を、いつまでも見つめていた。




