第4話 あなたの前では、笑う
朝の光が、公爵邸の庭を白く満たしていた。
薔薇の葉に残った露が、風にひとつずつ落ちていく。土と、若い草の匂い。リーゼは日傘も差さず、生垣の間の小径をゆっくりと歩いていた。婚約者として過ごす、穏やかな一日の始まり。表向きは、そう見えるはずだった。
その裏で、彼女の頭は休みなく働いている。
この周、アルヴィスが命を落とすまでには、まだひと月に近い時がある。けれど油断はできない。あの夜が来る前に、彼を狙う手はいくつも動きだす。毒、事故、暗殺。死の形は、繰り返すたびに変わった。だから彼女は、記憶を頼りに、危うい日と場所をひとつずつ数え、先回りで潰していく。今日は厨房の水瓶を検めさせ、明日は遠乗りの供の数を増やさせる。誰にも気づかれぬよう、婚約者のわがままの体を装って。
守るための段取りを敷きながら、彼の前では、何も知らぬ令嬢のふりをする。
それが、今のリーゼの一日だった。
守り抜いたところで、あの夜が来れば、結局は自分が身代わりに死ぬ。彼を生かすには、それしかない。わかっていて、それでも彼女は、一日でも長く彼が笑っていられるよう、手を尽くさずにいられなかった。たとえ彼が、その日々をひとかけらも覚えていないとしても。誰にも礼を言われず、誰にも気づかれない献身。それでも、彼が息をしている。今日も、生きている。それだけが、擦り切れた心を、かろうじて繋ぎとめていた。
「ずいぶん熱心に、花を見るのだな」
背後からの声に、振り返る。アルヴィスが、庭木の陰から歩み寄ってきた。公務の合間なのだろう、上着の襟をわずかに緩めている。
「ええ。この庭の薔薇が、好きなのです」
嘘ではない。何度この庭を歩いても、この花だけは飽きなかった。彼と過ごした、数えきれない朝の記憶が、この香りに結びついている。彼は、その一度も覚えていないけれど。
「そうか」彼は少し離れて足を止め、薔薇を眺めた。「では、切らせて君の部屋へ運ばせよう。いや、切ってしまうのは、惜しいか」
「はい。ここで咲いているのが、いちばん綺麗ですから」
彼が、ふっと口の端を緩めた。ほんのわずかな、けれど確かな変化だった。この人がこんな顔をするのを、傍付きの騎士たちは知らないだろう。リーゼだけが知っている。彼の内側の、柔らかい場所を。
胸の奥が、灯をともしたように温かくなる。同時に、その温もりが、いつも痛みと隣り合わせだった。この時間も、明日には、彼の中から消えている。
異変は、午後に起きた。
中庭の石段を、二人で下りていたときだった。上段の手すりに積まれていた石材の一つが、鈍い音を立てて傾いだ。ちょうど、リーゼの真上。誰かが仕組んだものか、ただの不運か、見分ける間もなかった。
落ちてくる、と認識するより先に、体が横へ引かれていた。
アルヴィスの腕が、彼女の肩を抱き込み、石段の内側へ庇っている。石材は、二人がいた場所を掠めて、下段で砕けた。破片と土埃が舞い、乾いた石の匂いが立ちこめる。
「無事か」
彼の声が、すぐ耳元にあった。腕の力は、まだ緩まない。リーゼを覆うように屈めた背に、張りつめた熱がある。荒い息づかいが、髪をかすめた。
「わたしは、大丈夫です。あなたこそ」
「私はいい」言ってから、彼は自分の腕を見下ろし、戸惑ったように眉を寄せた。「……妙だな。考えるより先に、体が動いた。君を、失うわけにはいかない、と。まだ、ろくに言葉も交わしていないのに」
リーゼは、答えられなかった。
あなたは、いつもそう言う。理由も知らぬまま、わたしを庇い、わたしを失うことを恐れる。忘れているのに、あなたの体は、幾度もわたしを喪ってきたことを覚えている。その喪失の重さだけが、名前も理由もないまま、あなたの奥に降り積もっている。処刑台の下で衛兵に阻まれたことも、腕の中で冷たくなっていくわたしを抱いたことも、あなたはもう、何ひとつ覚えていないのに。
覚えていないのに、惹かれてくれる。その事実に、胸の奥が軋んだ。喉の奥がふさがって、うまく息ができない。温もりと痛みが、いつも同じ場所で絡み合う。
「ありがとうございます」
やっと出た言葉は、それだけだった。彼の腕の中で、リーゼは今日もまた、笑ってみせた。
夜、私室に戻ると、張りつめていた糸が、少しだけ緩んだ。
燭台の灯を細くして、リーゼは長椅子に身を沈めた。窓の外は墨を流したような闇で、遠くの梟の声だけが、時折すきまを埋める。
「お嬢様、お茶をお持ちしましたよ」
ニーナが、湯気の立つ器を運んできた。香草の、青い匂いが広がる。差し出された器を受け取ると、指先に伝わる温もりが、ほどけかけた心をさらに緩めた。
「今日は、なんだかお疲れですね」ニーナが、傍らに膝を折る。「無茶ばかりなさるから。厨房を検めさせたり、供を増やさせたり。あたしには、お嬢様が、いつも何かと戦っているように見えます。ひとりきりで」
鋭い娘だと思う。何も打ち明けていないのに、この娘は、いつも半歩のところまで近づいてくる。
「戦っている、なんて。大げさよ」
「そうですか?」ニーナは首をかしげ、それから笑った。「でも、あたしはお嬢様の味方ですからね。理由は聞きません。困ったときは、あたしを使ってください」
その言葉に、喉の奥が、ふいに熱くなった。
誰も覚えていない繰り返しの中で、この娘だけが、周が変わるたびに、また同じ温かさで傍にいてくれる。忘れているのに、その芯だけは、変わらない。人の情というものは、記憶よりも深いところに根を張っているのかもしれない。そんなことを、ふと思う。
「……ありがとう、ニーナ」
器を両手で包み、リーゼは目を伏せた。窓に映る自分の顔は、ひどく静かで、疲れて見えた。
忘れられるとわかっていて、どうして、こんなにも彼に惹かれるのだろう。守るために死ぬと決めた心に、余計な願いを抱かせないでほしい。
器の中で、香草の葉がゆっくりと沈んでいく。その様を、リーゼはしばらく見つめていた。願いを抱けば、失うときの痛みが増すだけだ。それを、この身は嫌というほど知っている。
それでも、明日もまた、彼の前で笑うのだ。何度でも。忘れられても、この手が届くかぎり。




