第3話 救う道は、ひとつだけ
その報せは、真夜中に届いた。
「リーゼロッテ様、大変です。公爵様が、賊に——!」
息を切らした下働きの声を、リーゼは寝間着のまま廊下で受け止めた。血の気が引くより先に、体が動いていた。燭台もとらず、冷えた石廊を駆ける。裸足の裏を、床の冷たさが針のように刺した。心の臓が、耳の奥で鳴っている。
この周のリーゼは、裁かれていない。偽の書簡は灰にし、生家の罠も潰した。自分の身は、たしかに守った。守ったはずだった。
なのに、なぜ、こんなに胸が騒ぐのか。
走りながら、答えが冷たく形をとっていく。これまでの周では、婚約者たる自分が断罪の渦中にあった。人の目も、悪意も、まず彼女に集まった。その騒ぎの陰で、アルヴィスはいつも、あの晩まで生き延びていた。裁かれる者が、知らぬ間に、彼の盾になっていたのだ。
その盾を、自分は今日、取り払ってしまった。
中庭を突っ切り、東の棟へ。松明の炎が、いくつも乱れて揺れている。焦げた油と、噎せ返る鉄の匂い。石壁に、黒い染みが飛んでいた。剣戟の音は、もう止んでいる。それが、かえって恐ろしかった。
渡り廊下の手前で、倒れた衛兵を飛び越えた。まだ息はある。呻き声が、彼女の裾を掴むように追ってくる。立ち止まってやる時間はない。今、この足が向かうべき場所は、ただ一つだけだった。
石段を駆け上がる。膝が笑い、肺が焼ける。それでも足は止まらない。間に合え。今度こそ、間に合ってくれ。何度祈ったかしれない言葉を、また、胸の中で繰り返す。
回廊の奥、月明かりの落ちる石畳の上に、アルヴィスは片膝をついていた。
黒い装束の男が三人、じりじりと彼を囲んでいる。従騎士たちは離れた場所で倒れ伏し、低く呻いていた。アルヴィスの右腕からは、黒く濡れたものが滴り、石畳に小さな溜まりを作っている。剣を杖のように床へ突き、それでも彼は立ち上がろうとしていた。
「下がれ。ここは、私が抑える」
誰に向けるでもない、掠れた声だった。守るべき者を守ろうとして、体がもう、言うことをきかない。それでも退かない。一度守ると決めた場所からは、退かない男だった。
リーゼは、走りながら悟った。
いつもの夜なら、囮の自分がいた。敵はまず彼女を追い、彼を狙うのはもっとあとだった。けれど今夜、その手を遮る者は、どこにもいない。切っ先はまっすぐ、彼の心臓へ向いている。
彼が、ここで死ぬ。
その一事の意味を、リーゼの体は知り抜いていた。彼の死は、巻き戻らない。時は元に戻らず、この世界に、彼を失った自分だけが取り残される。二度と、あの朝には帰れない。何度願っても、もう、彼はどこにもいない。それだけは、あってはならない。
迷いは、なかった。迷う時間が、そもそも残されていない。
考えるより先に、地を蹴っていた。
黒装束の男が、踏み込む。刃が、アルヴィスの胸へ伸びる。その線の上へ、リーゼは自分の体をねじ込んだ。
衝撃は、痛みより先に、熱としてきた。腹の奥へ、灼けた鉄が押し入る感触。息が、途中で凍りつく。膝から力が抜け、それでもリーゼは、崩れながら彼のほうへ倒れ込んだ。賊の足音が、遠ざかっていく。目的は果たせなかったと悟ったのだろう。
「なぜ、君が」
アルヴィスの腕が、とっさに彼女を抱きとめた。見開かれた灰色の瞳が、すぐ間近にある。今夜、初めて会ったはずの令嬢。名も、ろくに知らぬ女。その死に、なぜこれほど胸が引き裂かれるのか、彼自身にもわからないのだろう。喉から漏れたのは、言葉にならない呻きだった。
わかっている。あなたは、いつもその顔をする。忘れていても、あなたの奥の何かが、わたしを覚えている。それだけで、じゅうぶんだった。
彼の手が、彼女の傷口を押さえようとして、行き場をなくして震えている。武人の、大きく硬い手だった。人を斬るための手が、たった一人を助けられずに戸惑っている。その温もりを、リーゼは腹の底の熱の向こうに、遠く感じていた。
「しっかりしろ。誰か、医者を。……名を、君の名を聞かせてくれ」
名なら、もう幾度も告げた。そのたびに、あなたは忘れた。だからもう、言わない。
「ごめんなさい。でも、これで——」
これで、あなたは生きる。時は、巻き戻る。
最後まで言えないまま、リーゼは彼の腕の中で、笑おうとした。血の味が、舌の上に広がる。遠ざかっていく世界の中で、彼の腕の温もりだけが、たったひとつ、確かだった。
視界が、白く溶けていった。
亜麻の匂いと、庭師の鋏の音。
リーゼは、天蓋を見上げていた。傷ひとつない指を、ゆっくりと握りしめる。婚約の儀の、朝だった。また、戻ってきた。
身を起こし、両手で顔を覆う。声は、出さなかった。ただ、肩だけが小さく震えていた。歯を食いしばって、こみ上げるものを飲み下す。
わかってしまった。もう、疑いようもなく。
廊下の向こうで、ニーナの足音がした。婚約の儀の支度に来る、いつもの時刻だ。あの娘は今朝も、何も知らずに笑っている。昨夜の血も、彼の呻きも、この胸の内も、誰も知らない。知っているのは、自分ひとりだけ。この孤独に、もう、慣れてしまった。
足音が扉の前で止まる前に、リーゼは頬を拭い、寝台を下りた。誰にも、この顔は見せられない。
自分が助かろうとすれば、その隙間から、彼が死ぬ。裁かれる盾を失えば、刃はまっすぐ彼を貫く。この繰り返しの中で、彼女に許された道は、たったひとつしかない。
彼を守って、自分が死ぬこと。それだけだ。
生きて、彼も救う。そんな道は、どこにもなかった。何十回と繰り返して、ようやく突き当たった、冷たい壁だった。指の隙間から見える薔薇は、いつもと同じ朝露に濡れて、白々と光っている。
リーゼは顔から手を離し、長い息を吐いた。震えは、いつのまにか止まっている。
泣くのは、もう終わりにしよう。
彼を死なせないために、今度こそ、正しく死のう。無駄な足掻きで、貴重な一度を無駄にはしない。
その決意だけが、擦り切れた胸の底で、静かに、硬く据わっていた。あと何度、この身を差し出せるのかも知らないまま。左の胸の痣が、衣の下で、ひそやかに脈打っている気がした。




