第2話 裁かれないために
夜が明けきる前に、リーゼは寝台を抜け出していた。
客間の廊下は、まだ青い薄闇に沈んでいる。石の床が素足に冷たい。灯りは持たない。どこに燭台があり、どこの床板が鳴るか、この邸のことなら目を閉じても歩ける。何度も、この一日をやり直してきたのだから。
向かうのは、東翼の小書斎だった。
あの断罪は、一通の手紙から始まる。リーゼの筆跡を真似た、公爵家への謀反をほのめかす偽の書簡。それが客間の文机の裏から「発見」され、彼女は捕らえられる。筆跡の主が誰であれ、伯爵令嬢の弁明など、誰も聞かない。処刑台に立つ朝まで、何を言っても無駄だった。
だから、発見される前に消す。今度こそ、あの手紙に手が届く。
書斎の扉を、音を立てずに押した。埃と古い革表紙の匂いが、鼻の奥に広がる。窓から差す薄明かりを頼りに、文机の裏板へ指をかけ、そっと外す。あった。麻紐で束ねた、数枚の羊皮紙。指先が、わずかに強張った。この紙束のために、自分は幾度、首を落とされてきたか。
蝋燭の火を近づけると、乾いた紙は音もなく縮れ、灰になっていく。焦げた匂いが立ちのぼる。灰を暖炉の奥へ払い落として、リーゼは長い息をついた。
これで、証拠は消えた。今日という日の起点が、ひとつ崩れた。
廊下で足音がした。息を殺して壁際に寄る。寝ぼけ眼の下働きが、水桶を提げて通り過ぎていく。気づかれはしない。この時刻に誰がどこを歩くかも、彼女はもう知り尽くしている。
窓の外が、白みはじめていた。
朝の茶会は、避けられなかった。
生家の名代として、継母マグダと異母妹のネリーが公爵邸を訪れていた。婚約者の身内として顔を出すのは筋であり、断るほうが不自然になる。リーゼは応接の間で、二人と向かい合った。焚かれた薔薇水の香が、かえって息苦しい。
「まあ、ずいぶんと顔色がよろしいこと」
マグダが扇の陰で言った。祝いの言葉のかたちをした、刃だった。「公爵家の水は、あなたのような娘には、もったいないくらいですわね。わたくしの目が黒いうちに、身の程を弁えていただかないと」
「おかげさまで、よくしていただいております」
リーゼは湯気の立つ茶器に口をつけた。以前の彼女なら、この一言で胸を刺され、うつむいていた。今は違う。何を言われ、次に何をされるか、順番まで覚えている。
「お姉様」ネリーが身を乗り出した。甘い声に、細い棘がまぶされている。「その指輪、公爵様からいただいたの? あたしにも、見せて。……お姉様のものって、どうしてこんなに素敵なのかしら」
「ええ。でも、外れないの。契りの品だから」
銀の指輪を、リーゼはそっと手のひらで包んだ。ネリーの伸ばした指先が、行き場を失って宙で止まる。頬を膨らませたその顔を、リーゼは静かに見返した。この妹が欲しがるのは指輪ではない。姉が手にしたものすべてだ。それも、昔から変わらない。
二人が仕掛けてくる揺さぶりを、リーゼは順に受け流していった。噂の種、召使いへの入れ知恵、些細な難癖。婚礼までに醜聞を作り、破談へ追い込むための布石。どれも覚えのある手だった。先回りして芽を摘めば、断罪の道筋は組み上がらない。
「そういえば」マグダが、思い出したように扇を閉じた。「近ごろ、大聖堂の覚えもめでたいそうですわね。あなたの婚約は、天のお導きなのだと、さるお方が仰っていましたわ」
茶器を持つ手が、一瞬止まりかけた。
大聖堂。継母の口から、その言葉が出たのは初めてだった。マグダは信心とは縁の遠い女だ。祈るのは、自分の得になるときだけ。その女が、誰かの言葉を、そのまま口移しに運んでいる。
「まあ。ありがたいこと」
リーゼは何食わぬ顔で茶を含んだ。舌の上で、茶はいつもより苦く感じられた。
茶器を置いたとき、指先にかすかな違和が残った。
マグダの言葉運びが、以前より滑らかだった。ネリーの棘の置き方も、この娘の頭からは出てこないほど、勘どころを押さえている。二人の背後に誰かが立って、台詞を書いている。そんな気配がした。
継母の悪意は、生まれる前からのものだ。母の座を奪い、財を握り、目障りな継子を疎んできた。それはいい。理由がわかる。けれど、この周到さは、二人の器を超えている。二人には、二人ぶんの悪意しかないはずなのに。
夕暮れ、庭の回廊で、リーゼは足を止めた。
西日が、刈り込まれた生垣を橙に染めている。土と、乾いた落ち葉の匂い。今日一日、断罪の芽はどれも潰した。証拠は灰になり、生家の揺さぶりも空を切った。この周では、自分が裁かれることはないだろう。手応えは、たしかにあった。
久しく忘れていた感覚だった。明日を、自分の足で迎えられるかもしれない。そんな心地。
「こんなところにいたのか」
振り返ると、アルヴィスが立っていた。夕日を背にした長身が、回廊に長い影を落としている。
「捜した。……体の具合でも、悪いのかと思ってな」
「いいえ。少し、風に当たっていただけです」
「そうか」彼は少し離れたところで足を止め、それ以上は近づかなかった。踏み込みたいのに、理由がわからず戸惑っている。そういう距離の取り方だった。「何かあれば、言え。君は、一人で抱えすぎる」
まだ何も打ち明けていないのに、彼はいつも、その一言を口にする。忘れているはずの彼の中に、彼女を案じる何かが、澱のように沈んでいる。今夜のこの言葉を、彼は明日には忘れている。それでもリーゼの胸には、澱ではなく、灯としてともり続ける。
礼を言って、リーゼは彼を見送った。その背が回廊の角に消えたとき、柱の向こうで、召使いの装いをした男が二人、足早にアルヴィスのあとを追っていくのが見えた。膳を運ぶでも、灯を掲げるでもない。ただ、彼の歩みだけを追っている。見覚えのない顔だった。
胸の奥が、すっと冷えた。
これまで、こんな男たちを見た覚えはなかった。周ごとに敵の動きは形を変える。けれど今日は、何かがいつもと違う。指先で確かめた違和が、じわりと大きくなっていく。
わたしは、助かる。この周のわたしは、裁かれない。
けれど――彼は?
答えを確かめるのが怖くて、リーゼはその場に立ち尽くしていた。落ち葉を巻いて、冷たい風が回廊を抜けていく。裾が揺れても、足は動かなかった。




