第29話 朝が、来るはずだった
その夜も、何十回と繰り返してきた、あの夜と、同じだった。
冷えた晩秋の風。曇った月。王宮の、長い回廊。いつも、この刻、この場所で、アルヴィスは、死の淵に立った。刺客の刃に、毒に、崩れる石壁に。そのたびに、リーゼは、身を投げ出してきた。
けれど、今夜は、違う。
隣に、記憶を取り戻したアルヴィスが、剣を手に、立っている。背後には、ダグの隊。地下では、バルトロが、楔に、手をかけている。何十回もの夜で、ただ独り、震えて彼を庇ってきた、その孤独は、もう、なかった。
「最後の結び目は、東の小塔だ」アルヴィスが、鋭く言った。「そこを断てば、暗殺の網は、崩れる。急ぐぞ」
二人は、闇の回廊を、駆けた。ユリウスの張り巡らせた糸の、その最後の一本へ。あと一手。あと一手で、この死の構図そのものが、消える。何十回、繰り返しても、たどり着けなかった、その一歩の、寸前だった。
走りながら、リーゼの胸で、鼓動が、早鐘を打っていた。恐れではなかった。あるいは、恐れも、あった。けれど、それ以上に、初めての手応えが、あった。いつもは、ただ、あの夜に、追いつかれるだけだった。今は、こちらから、あの夜の、心臓へ、駆けている。守勢から、攻勢へ。長い時をかけて、ようやく、たどり着いた、この夜。
左胸の刻印が、熱を帯びていた。残された死は、あと一度か、二度。使わずに、越える。今夜こそ。
東の小塔の、扉を、押し開ける。冷えた、石の匂い。奥から、蝋燭の、揺れる光。
その奥に、待っていたものを見て、リーゼの、息が、止まった。
祭壇の陰に、ユリウスが、立っていた。
その手に、抜き身の短刀が、鈍く、光っている。聖人が、自ら、刃を握っている。決して手を汚さぬはずの男が、いま、追い詰められて、最後の凶行に、及ぼうとしていた。
「もう、猶予は、ありません」ユリウスの声は、もはや、穏やかではなかった。「供物が、目覚める前に。この繰り返しが、崩れてしまう前に。あなたには、いつものように、死んでもらう。ここで、公爵が死ねば——あなたは、また、時を遡る。すべては、元通りだ」
その顔には、もはや、慈愛の欠片も、なかった。数百年の秘蹟を、己の手で、途切れさせるわけには、いかない。その一念だけが、老いた聖人を、突き動かしていた。救いを与えているのだと信じてきた男の、その信仰の底に隠されていた、剥き出しの、執着。供物を、手放すまいとする、餓えた目。
言うが早いか、聖人は、床を蹴った。
老いた体からは、思えぬ、速さだった。狂気が、その一突きに、乗っていた。短刀の切っ先が、まっすぐに、アルヴィスの、心臓へ、向かう。何十回もの周で、必ず彼を死に至らしめてきた、その最後の刃が、いま、この手で、振るわれようとしていた。リーゼの視界の中で、その切っ先だけが、やけに、鮮明に、見えた。
時が、引き伸ばされた。
これまでなら、何も、考えなかった。身体が、勝手に、動いた。彼と刃のあいだに、割って入り、その一突きを、この身で、受ける。それだけだった。何十回も、そうしてきた。今も、リーゼの足は、無意識に、前へ、出かけていた。
だが。
二人で、生きる。
その誓いが、彼女を、押しとどめた。ここで身代わりに死ねば、また、彼は、忘れる。また、独りに戻る。何も、終わらない。母と同じ場所で、倒れることになる。
死なずに、彼を、救う。
それは、何十回も繰り返した解を、初めて、選ばないということだった。身を投げ出せば、確実だった。慣れた、いちばん楽な道。けれど、その道の先には、また、忘却と、孤独と、終わらない繰り返ししか、ない。今度こそ、違う道を。死ぬのではなく、生きて、彼を、守り抜く。二人で、この夜を、越える。
その道を、選ぶ。刹那、リーゼの目が、床を蹴るユリウスの、体の軸を、捉えた。何十回もの死で、刃の来る間合いも、速さも、その身に、刻まれている。皮肉にも、繰り返し死んできた経験が、今、死なずに済む道を、照らしていた。刃を、この身で受けるのではない。刃の、軌道を、逸らす。彼女は、身を投げ出す代わりに、アルヴィスの腕を、渾身の力で、引いた。
同時に、アルヴィスもまた、動いていた。
彼の腕が、リーゼを、庇うように、抱き込む。互いに、相手を、生かそうとして。二人の体が、交錯した。どちらが前に出たのか、刃が、誰に向かっているのか、分からなくなる。ユリウスの短刀が、二人のあいだへ、吸い込まれていく。
その刹那。
二人の指の、対の銀の指輪が、闇の中で、白く、閃いた。
地下で、バルトロが、楔に、届いたのだ。聖遺物が、熱を持ち、まばゆい光を、放つ。空気が、震えた。何かが、断たれる、鋭い音がした。繰り返しを結んでいた、糸そのものが。だが、それは、間に合ったのか。刃が届くのと、楔が断たれるのと、どちらが、早かったのか。その順序が、すべてを、分けるはずだった。討ってから、断つ。守ってきた、その順序は、この混沌の中で、守られたのか。
「させ、ん――!」
ユリウスの、叫び。
刃の、閃き。指輪の、光。誰かの、悲鳴。それらが、一つに、重なった。
リーゼは、確かに、感じた。胸に、鋭い、衝撃を。あるいは、それは、アルヴィスの胸だったかもしれない。熱いものが、飛び散る。視界が、白く、灼ける。
誰が、貫かれたのか。自分なのか、彼なのか。
巻き戻りは、起きるのか。それとも、楔は、断たれ、時は、二度と還らないのか。もし、いま貫かれたのが、アルヴィスで、楔がすでに断たれていたなら。彼の死は、永遠になる。もし、貫かれたのが自分で、楔が間に合っていなければ、また、あの婚約の儀の朝へ、時は、巻き戻る。どちらの死が、どちらの結末を呼ぶのか。二人で生きる道は、あったのか。
何も、分からなかった。ただ、光の中で、リーゼは、握りしめたアルヴィスの手の、その温もりだけを、感じていた。離すまいと、指を、絡めた。この手だけは、離さない。どんな結末が、待っていても。
意識が、白い光に、呑まれていく。
この夜が、明ければ。二人で、朝を、迎えられるはずだった。あの誓いのとおりに。
朝が、来るはずだった。
最終話は明日7時に公開予定です。




