第28話 その手を、取らない
運命の夜の、前夜。
ユリウスの切り札は、もう、動き出していた。晩秋のあの夜、いつもアルヴィスを襲う暗殺の手筈が、聖人の指図のもと、着々と、整えられていく。だが、今度のリーゼは、それを、ただ待ってはいなかった。
「経路は、三つ」私室に集まった味方に、リーゼは、告げた。「いつもの周で、刺客が使う道です。裏庭の水路、東の使用人口、そして、礼拝堂の地下。この三つを、塞ぎます」
何十回と繰り返してきたからこそ、リーゼは、敵の手を、知り尽くしていた。守るのではない。彼を殺す道そのものを、潰す。
ダグが、頷いた。「水路と、使用人口は、俺が抑える。人手も、集めた」
「地下の礼拝堂は」バルトロが、白い眉を、寄せた。「わしが、行こう。あそこには、封じの残る古い祭具がある。楔に、手をかけられるやもしれん。秘蹟の結び目を、緩める手がかりが」
それぞれが、持ち場へ、散った。長い繰り返しの中で、初めて、リーゼは、独りではなかった。守りではなく、攻めの陣が、動き始めていた。人手を集め、道を塞ぎ、楔に手をかける。何十回、独りきりで晩秋の夜を迎えてきたことか。その孤独の日々が、今、幾人もの足音に、置き換わっていた。
夜が、更けていく。
攻防は、静かに、しかし、熾烈に、進んだ。ダグの隊が、水路に潜んだ刺客を、押し返す。東の口では、乱闘の音が、響いた。リーゼとアルヴィスは、屋敷の要所を、駆け巡り、敵の動きを、先回りして、塞いでいった。包囲は、確かに、狭まっていた。
だが、敵も、退かなかった。
「ぐっ……」
東の回廊で、ダグが、片膝を、ついた。脇腹から、血が、滲んでいる。刺客の刃を、身を挺して、防いだのだ。厚い肩が、荒い息に、上下していた。
「ダグ!」
「案じるな」彼は、太い声で、呻いた。「かすり傷だ。公爵を、頼む」
リーゼは、ダグの脇腹に、手早く、布を巻いた。指先に、生温かい血が、伝う。この人は、事情の多くも知らぬまま、ただアルヴィスへの忠義だけで、刃の前に、身を投げ出した。守るべきリーゼが、逆に、味方の血を、見ている。誰も、傷つけたくなかった。二人で生きる道は、こんなにも、多くの人の痛みの上に、あるのか。奥歯を、噛みしめた。
「地下は、どうなっている」アルヴィスが、鋭く、問うた。伝令の若い衛士が、息を切らして、駆け込んでくる。
「バルトロ殿が、祭具に、取りついておいでです。ですが、封じの術が、固く。時が、かかると」
ユリウスは、決して、表に出てこなかった。手を汚さず、駒だけを、動かす。こちらが一つ潰せば、また一つ、別の刃を、繰り出してくる。その底の知れなさに、じわりと、追い詰められていく。国家の権力と、数百年の秘蹟。それを相手に、たった数日で組んだ陣が、どこまで、通じるのか。あと一手。あと一手が、どうしても、届かない。
その、追い詰められた一瞬。
リーゼの胸に、ひとつの、甘い囁きが、忍び込んだ。
簡単なことではないか、と。いつものように、あの夜、彼を庇って、死ねばいい。そうすれば、確実に、彼は、助かる。時は還り、また、やり直せる。何十回も、そうしてきた。この、慣れた手を使えば、少なくとも、彼の命だけは、守れるのだ。
左胸の刻印が、疼いた。残された死は、あと一度か、二度。使えば、彼は、確実に、生き延びる。
その手が、すぐ、そこにあった。
「……いいえ」
リーゼは、唇を、噛んだ。
駄目だ。その手を、取ってはいけない。身代わりに死ねば、また、彼は、忘れる。また、独りに戻る。何より、二人で生きると、誓ったではないか。ここで、いつもの死に逃げれば、この長い繰り返しは、何も、変わらない。母が断とうとした根も、断てない。犠牲は、美徳ではないと、あの男に、言い放ったばかりだ。ならば、自分が、それを、証明しなければ。
それに、と、リーゼは、震える心に、言い聞かせた。この誘惑こそが、あの秘蹟の、罠なのだ。追い詰められれば追い詰められるほど、自ら死を選びたくなる。愛ゆえに、身を差し出したくなる。その情動を、ユリウスは、飼っている。だから、こうして、じわじわと、追い詰めてくる。供物が、自ら、祭壇へ上がるように。ここで死を選べば、それは、あの男の、思う壺だ。
その手を、取らない。取ってしまえば、母と同じ場所で、また、倒れることになる。
「リーゼ」
隣で、アルヴィスが、彼女を、見ていた。まるで、その葛藤を、見透かしたように。彼の目に、ひやりとした、決意が、宿った。
「まさか、君は。自分が、死ぬつもりでは」
「いいえ」リーゼは、首を、振った。「その逆です。もう、死にません。だから——あなたも、死なせない」
アルヴィスの顔が、ふと、緩んだ。「今度は、俺が」と、前へ出かけた足を、彼は、止めた。彼もまた、同じ誘惑と、戦っていたのだ。互いに、身を差し出そうとして、そして、互いに、踏みとどまった。
「そうだな」彼は、静かに、頷いた。「どちらも、死なせない。それが、俺たちの、選んだ道だ」
包囲は、狭まった。けれど、ユリウスの、いちばん奥の一手を、二人は、まだ、崩しきれていなかった。
東の空が、白む前の、いちばん深い闇。
遠くで、鐘が、鳴り始めた。晩秋の、あの夜を告げる、鐘。何十回、この音を、聞いてきただろう。そのたびに、アルヴィスは、死の淵に立ち、リーゼは、身を投げ出してきた。
その、運命の夜が。今、また、始まろうとしていた。
包囲は、狭めた。刺客の多くは、退けた。バルトロは、楔に手をかけている。それでも、ユリウスの、いちばん奥の一手が、見えなかった。あの男は、まだ、切り札を、温存している。何十回もの周で、必ずアルヴィスを死に至らしめてきた、その最後の刃を。それが、どこから来るのか。この周では、盤面が、変わりすぎていて、リーゼの記憶さえ、当てにならなかった。
リーゼは、アルヴィスの手を、握った。あと一手が、足りない。届かないまま、夜が、来てしまう。今度こそ、二人で越えると誓った、その夜が。何ひとつ、確かなものの、ないまま。
「アルヴィス様」掠れた声で、囁いた。「夜が。夜が、来てしまう」
鐘の音が、闇を、渡っていった。




