第30話 あなたと、生きる朝
刃は、届かなかった。
白い光が、引いていく。灼けた視界が、ゆっくりと、像を結び直す。リーゼは、自分の胸に、手を当てた。傷は、ない。血も、流れていない。飛び散ったと思ったのは、砕けた蝋燭の、蝋だった。
目の前に、アルヴィスが、いた。生きている。彼の胸にも、刃は、届いていない。彼女が引いた腕と、彼が身を捩じった動きが、噛み合って、短刀の軌道は、二人のあいだを、逸れていた。そして、その決定的な一瞬に、聖遺物の光が、放たれたのだ。
地下で、バルトロが、楔を、断った。
繰り返しを結んでいた糸が、断ち切られる、その音とともに。ユリウスの短刀は、宙を、切っただけだった。
「な……」
聖人が、よろめいた。信じられぬ、というように、己の空の手を、見つめる。何十回、狙い違わず、公爵を貫いてきた刃。それが、初めて、届かなかった。
リーゼは、アルヴィスの手を、握ったまま、ユリウスの前に、立った。もう、震えは、なかった。
「わたしは、死にません」はっきりと、言った。「あなたのためにも、死なない。この人を守るためにも、もう、死なない。わたしは、生きて、この人と、生きる」
それは、生まれて初めての、宣言だった。
何十回もの死の中で、リーゼは、ただ一度も、自分の生を、望んだことが、なかった。守るべきは、彼の命。自分は、そのための、器。そう信じて、身を、投げ出し続けてきた。
けれど、今、違う。
誰も、庇って死なない。だから、時は、還らない。彼女は、身代わりの祭壇を、自ら、下りた。愛する人のために消えるのではなく、愛する人と、共に、生きる。それが、この繰り返しを、断つ、ただ一つの道だった。
巻き戻りは、起きなかった。
時は、初めて、あの夜を、越えていく。何十回も、決して越えられなかった、その先へ。
ユリウスの膝が、床に、落ちた。
「馬鹿な……供物が、自ら、祭壇を、下りるなど」聖人の声が、掠れた。「愛による、自己犠牲こそ……最も、尊い、贖いだ。娘よ、お前は、その尊さを、捨てるのか」
「いいえ」リーゼは、静かに、首を振った。「捨てるのではありません。あなたが、愛の名で飾り立てた、その犠牲の教えを。わたしは、越えるのです」
糧は、断たれた。
贖罪回帰という秘蹟は、自己犠牲の情動を、燃料にしていた。供物が、自ら死を選ばなくなった今、その炉は、二度と、火を灯さない。
駆けつけた王宮の衛士たちが、聖人を、取り囲んだ。
抜き身の短刀を握り、公爵を手にかけようとした、その現行の凶行は、もはや、慈悲深い仮面では、覆い隠せなかった。教権の頂に立っていた男は、いま、ただの、刺客として、床に、崩れていた。長い歳月、贖罪の巫女の血を掘り起こし、幾人もの娘の死を、収穫してきた、その搾取の構造が、この夜、終わった。
母が、断とうとして、断てなかった根。それを、娘が、断った。
同じ痣を負い、同じ地獄を歩き、あと一歩で力尽きた、あの静かな人。母が遺したのは、呪いではなかった。この痣とともに託された、果たされなかった願い。それを、今、受け継いだ娘が、果たした。二人分の歳月をかけて、贖罪の巫女の血が背負い続けた戦いに、ようやく、終止符が打たれた。どこかで、母が、微笑んでくれているような気がして、リーゼは、そっと、目を伏せた。
リーゼは、左胸に、手を当てた。黒い茨は、もう、伸びていなかった。心臓の、すぐ手前で、薄い痕を残して、鎮まっている。次の一節が、伸びることは、二度と、ない。有限だった命の砂時計は、最後の一粒を、こぼす前に、止まっていた。
「終わった、のですね」
「ああ」アルヴィスが、彼女の肩を、抱き寄せた。「終わった。もう、君は、死ななくていい」
東の空が、白み始めていた。
二人は、王宮の露台に、並んで立った。晩秋の、冷えた朝の風。何十回も、この夜のあとに、リーゼは、婚約の儀の朝へ、引き戻されてきた。この朝日を、見ることは、一度も、なかった。
初めて迎える、あの夜の、夜明けだった。
「今度は」アルヴィスが、彼女の手を、握った。「忘れない。何があっても、もう、君を、忘れない。この記憶は、俺のものだ。何十回、君が独りで抱えてきたものを、これからは、二人で、抱えていく」
彼の指が、彼女の薬指の、銀の指輪に、触れた。もう、繰り返しの楔ではない、ただの、二人の絆の証となった、その輪に。
背後で、駆けてきたニーナが、涙ぐんでいた。「よく、わかりませんけど」しゃくり上げながら、彼女は、言った。「お嬢様が、無事で。なんだか、ずっと、こうなってほしかった気が、するんです。うまく、言えないけど」
脇腹を押さえたダグも、無骨な顔で、深く、頷いた。
忘れても。何十回、記憶を失っても。この人たちの心の底には、いつも、リーゼを案じる、消えない何かが、残っていた。既視感という名の、忘れられなかった想い。それが今、朝の光の中で、ようやく、報われていた。
忘れても、心は、覚えていた。
思えば、アルヴィスも、そうだった。目覚めるたび、記憶を失っても、理由もわからぬまま、彼は、いつも、リーゼに惹かれ、彼女を案じ、守ろうとした。指輪に、既視感を覚えた。ふと、涙をこぼした。その根にあったのは、言葉にならぬまま、身体の奥に沈んでいた、何十回もの想いだったのだ。頭が忘れても、心の芯は、決して、彼女を、手放さなかった。
リーゼは、朝日に、目を細めた。
生きていて、いい。この朝を、この人と、迎えて、いい。長いあいだ、諦めていた、その当たり前のことを、彼女は、生まれて初めて、自分に、許した。
昇る陽が、二人の指輪を、あたたかく、照らしていた。もう、鎖ではない。二人で、朝を、越えた、その証として。
どこかの厩で、仔馬が、いなないた。アウロラ、と名づけた、あの仔馬だろうか。夜明けを意味するその名を、幸福が巻き戻るたびに、消してきた。けれど、この朝は、消えない。この朝から続く日々は、もう、誰にも、巻き戻されはしない。
「行きましょう」リーゼは、微笑んだ。「朝の、先へ」
彼女は、死ぬたびに、彼を生き返らせ、そのたびに、忘れられてきた。けれど、もう、違う。今度は、彼と共に、生きていく。忘れられることの、ない、明日へ。
二人は、手を繋いだまま、夜明けの光の中へ、歩き出した。
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