第25話 二人で、生きよう
その夜、アルヴィスは、眠れなかった。
思い出した死の記憶が、次から次へと、彼を襲っていた。断片は、もはや断片ではなく、一続きの、長い、長い悪夢として、彼の中で像を結び始めていた。リーゼが、彼を庇い、刃を受ける。毒を、代わりに呷る。崩れ落ちる彼女を、抱きとめる、自分の腕。そのどれもが、幾度も、幾度も、繰り返されていた。
「君は」彼の声が、震えた。リーゼの手を取ったまま、彼は、床に、膝をついていた。「私のために、こんなに、何度も。独りで、死んできたのか。そのたびに、私は……忘れて。何も知らずに、のうのうと、生きて」
武人の背が、丸まっていた。いつも、揺るがぬ岩のようだった、その肩が、小刻みに、震えている。
「下がれと、私は言った」彼は、絞り出した。「あの夜、幾度も。危ないから、下がれと。だが、君は、下がらなかった。私を、庇って。私が、殺されないように。私は、それを、知りもせず……君を、ただの、勘のいい令嬢だと」
リーゼは、膝をついた彼の前に、同じように、身を低くした。
彼の頬を、涙が、伝っていた。この人の涙を、見るのは、初めてだった。何十回、共に過ごしても。常に、冷静で、簡潔で、感情を面に出さぬ人だった。断頭台の露と消えるときですら、彼は、取り乱すことなく、ただ、彼女を案じていた。その人が、今、幼子のように、泣いている。わたしの、死のために。
「思い出すたびに」彼は、掠れた声で、続けた。「わかるんだ。あの夜、君が、どんな顔で、死んでいったのか。私を庇って、刃を受けた、その一瞬。君は、痛みではなく、私が助かったことに、安堵していた。笑おうと、していた。私に、心配をかけまいと。そんな君を、私は、翌朝には、忘れていた。初めて会う令嬢だと思って、他人行儀な、挨拶をして」
彼の拳が、床を、握りしめた。
「どれほど、君を、独りにしてきたのか。今になって、ようやく、わかった。遅すぎる。あまりにも」
「泣かないで、ください」リーゼは、彼の頬に、手を伸ばした。「あなたが、そんなふうに、泣くために。わたしは、死んできたわけでは、ないのです」
「では、なぜだ」彼は、彼女の手に、自分の手を、重ねた。「なぜ、そこまでして、私を」
「あなたに、生きていて、ほしかったから」
答えは、単純だった。何十回、繰り返しても、変わらなかった、たった一つの願い。
「わたしは」リーゼは、静かに、続けた。「あなたが、あの夜を越えて、朝を迎える。それだけで、よかったのです。わたしのことは、忘れられても、いい。あなたが、生きてさえ、いてくれれば」
その言葉に、アルヴィスは、顔を、歪めた。悔恨と、痛みと、そして、堪えきれぬ愛おしさの、入り混じった顔だった。
「もう、駄目だ」彼は、首を、横に振った。命じる声ではなかった。すがるような、懇願だった。「もう、それは、許さない。君を、独りで、死なせるものか。忘れて、のうのうと生きるなど、二度と、御免だ。頼む。もう、独りで、背負わないでくれ」
その一言が、胸の、いちばん深いところに、届いた。
ずっと、独りだった。誰にも、言えなかった。信じてもらえるはずも、なかった。その孤独を、この人が、今、分かち持とうとしている。忘れることの、なくなった、この人が。
「わたしは」リーゼの声も、震えた。「あなたの前では、笑って、みせようと、思っていました。痛みは、見せずに。それが、わたしの、矜持でした。でも」
言葉が、詰まる。
「でも、独りは、寒かった」
二人は、しばらく、額を寄せて、そうしていた。
やがて、アルヴィスが、顔を上げた。その目には、まだ涙の跡があったが、奥に、揺るがぬ光が、灯っていた。
「聞いてくれ、リーゼ」彼は、彼女の両手を、包んだ。「これまでは、君が、私を守ってきた。今度は、私が、君を守る。君を狙う者も、君を死なせる運命も、すべて、私が、断ち切る。だから」
彼は、一度、言葉を切り、そして、はっきりと、言った。
「今度こそ、二人で、生きよう」
二人で、生きる。
その言葉が、リーゼの中で、こだました。長いあいだ、考えたことも、なかった願いだった。自分が助かることなど、望んではいけないと、思い込んでいた。守るべきは、彼の命だけ。自分は、そのための、器に過ぎないと。
けれど、この人は、言う。二人で、生きようと。わたしにも、生きていい、と。
胸の奥で、ずっと蓋をしてきた、小さな願いが、そっと、頭をもたげた。わたしも、生きたい。この人と、共に、あの夜の先の朝を、見たい。
その願いを、口にすることが、これほど、こわいものだとは、思わなかった。望んでしまえば、失うのが、もっと、つらくなる。叶わなかったときの痛みを、思えば、願わないほうが、賢いのかもしれない。何十回もの死が、そう、囁いていた。期待するな。望むな。ただ、彼を守り、静かに消えろ、と。
けれど、目の前の、この人の眼差しが、その囁きを、打ち消していた。二人で生きようと、まっすぐに、彼は言う。その言葉に、応えたい。守るだけの器ではなく、共に朝を迎える、一人の人間として。
「はい」リーゼは、涙の中で、頷いた。「二人で、生きましょう」
忘れられ続けた、片側だけの愛が、今、ようやく、二人のものに、なった。
だが、そのとき。
遠く、大聖堂の一室で、祈りを捧げていた聖人が、ふと、目を、開いた。
ユリウスの、穏やかな面に、微かな、影が差した。指先が、祭壇の縁を、いらだたしげに、叩く。
いつも、豊かに満ちてくるはずの、収穫の気配。それが、今宵は、揺らいでいた。器であるはずの娘の中で、忘れられたはずの記憶が、二つ、深く、結び合おうとしている。供物が、目を覚まそうとしている。
長い歳月、この収穫は、滞りなく、続いてきた。巫女は死に、時は還り、契りの相手は、何も知らぬまま。忘却こそが、この秘蹟を、永く回し続ける、要だった。覚えている者がいなければ、繰り返しは、誰にも気取られず、静かに、実りを結ぶ。それを、あの娘は、崩そうとしている。相手の男に、忘れたはずの死を、思い出させて。
「これは、いけない」聖人は、静かに、呟いた。慈悲深い声に、初めて、冷たい焦りが、滲んだ。「あの娘が、あの男を、目覚めさせてしまう前に」
彼は、立ち上がった。祭壇の蝋燭が、ひとつ、音もなく、消えた。




