第23話 楔を、断つということ
翌朝、リーゼは、銀の指輪を携え、再び、バルトロの庵を訪ねた。
床几に座るなり、指輪を、老神父の前に、差し出す。「この品が、繰り返しの媒介ではないかと、思うのです。母の遺した手立ても、これに、関わっているのでは」
バルトロは、皺深い指で、その銀の輪を、しばらく検めた。それから、白い眉の下で、目を、細めた。
「……やはり、たどり着いたか。エルナ様と、同じ場所へ」
老神父は、指輪を、リーゼの手に、戻した。
「その品こそ、贖罪回帰を結ぶ、楔じゃ。契りの秘蹟は、この品を依り代にして、術者と、その相手を、繋いでおる。お前さんが死に、時が還るとき、その糸を手繰るのが、この銀の輪よ。これを断てば、繰り返しは、終わる。二度と、巻き戻らぬ」
リーゼの鼓動が、速まった。
断つ道が、ある。この地獄には、出口が、あったのだ。
けれど、バルトロの表情は、晴れなかった。老神父は、声を、低く落とした。
「じゃが、よう聞け。これは、諸刃じゃ。楔を断てば、巻き戻りの力も、失われる。つまり——断った後に、もしアルヴィス様が命を落とせば、もう、やり直しは、きかん。今のように、身代わりに死んで、時を還すことも、できなくなる。断つとは、最後の一度を、使い切るということじゃ」
リーゼは、指輪を握る手に、力を込めた。
楔を断てば、繰り返しは終わる。けれど、その先で彼を守れなければ、彼の死は、永遠になる。この銀の輪は、呪縛の鎖であると同時に、最後の、命綱でもあったのだ。断つ勇気と、断った後に彼を守り抜く覚悟。その両方が、揃わなければ、これは、抜けない。
母は、と、リーゼは思った。母も、ここまで、たどり着いていたのだろうか。楔の正体を知り、それを断つ手立てに、手を伸ばしかけて。けれど、断った後に愛する者を守り抜くだけの、力も、味方も、母には、なかったのかもしれない。だから、あと一歩で、倒れた。断つことの意味を知りながら、断てぬまま、力尽きた。その無念が、この銀の輪に、染み込んでいるようで、リーゼは、指輪を、そっと胸に、押し当てた。
「わかりました」リーゼは、静かに言った。「ならば、断つ前に、彼を殺す者を、消します。あの夜が来る前に、ユリウスを、討つ。彼が誰にも狙われぬ、その後で、楔を断てば。二度と巻き戻らずとも、彼が死ぬことは、ない」
バルトロは、その言葉に、深く、頷いた。順序が、命だった。討つ、それから、断つ。逆にすれば、すべてが、崩れる。
その日の夕刻、公爵邸の一室に、味方が、集った。
バルトロ。ダグ。そして、ニーナ。長い繰り返しの中で、初めて、リーゼの傍らに、共に戦う者たちが、並んでいた。
「これまでのわたしは」リーゼは、一人ひとりの顔を、見渡した。「あの夜を待って、彼を庇い、身代わりに死ぬ。その繰り返しを、続けてきました。けれど、今度は、違います。あの夜より前に、ユリウスを討つ。彼が殺される、その構図そのものを、消し去るのです」
守勢から、攻勢へ。その一言に、部屋の空気が、引き締まった。
「わしは、聖遺物と、秘蹟の知識で、支える」バルトロが、頷いた。「楔を断つ、その手順は、わしが、見極めよう」
「俺は、公爵の傍を、離れん」ダグが、太い声で言った。「あの夜がいつ来ようと、盾は、俺が引き受ける。刺客の一人や二人、通しはせん」
「あたしは、お嬢様の傍にいます」ニーナが、まっすぐに言った。「屋敷の中の目と耳は、あたしが。怪しい動きは、逃しません」
それぞれの持ち場が、噛み合っていく。知識、武、内側の目。長く独りで背負ってきた重さが、今、幾人もの肩へ、分けて担がれていく。リーゼは、胸の奥が、熱くなるのを、感じた。この人たちとなら、あるいは、届くかもしれない。母が、たどり着けなかった、その一歩の先へ。
作戦の骨格は、単純だった。ユリウスが刺客を放つのは、いつも、あの夜だ。婚約の儀から数えて、決まった日の、決まった刻。何十回と繰り返してきたからこそ、リーゼは、その時と場所を、正確に知っている。ならば、その前に、動く。ユリウスの居所を突き止め、証を掴み、あるいは、討つ。相手が教権の頂に立つ聖人である以上、正面からの糾弾は、難しい。だが、暗殺の証さえ握れば、あの穏やかな仮面を、引き剥がせる。
「時は、限られている」リーゼは、味方を見渡して、言った。「猶予は、あの夜まで。それまでに、すべてを、整えます」
誰も、退かなかった。それぞれの目に、静かな覚悟が、宿っていた。
けれど、と、リーゼは思う。作戦には、まだ、欠けた要がある。
最も肝心なのは、アルヴィス自身の力だった。狙われているのは、彼だ。彼が、己を狙う者の正体を知り、共に立ち向かってくれれば、勝機は、大きく増す。けれど、彼は、真実を知らない。何十回、自分が彼を庇って死んだのかも、その記憶が時とともに巻き戻ってきたことも、何一つ。
真実を、語るべきか。だが、証拠のない話を並べても、狂人の妄言に、聞こえるだけだろう。以前の周で、幾度も、そうやって、彼の訝しむ目を、見てきた。
ならば、道は、一つ。
彼が、自ら、思い出すこと。あの指輪に触れて、記憶の底が、揺らぎ始めている。その揺らぎが、確かな想起へと、育てば。彼は、言葉ではなく、自分自身の記憶で、真実を知る。そのとき初めて、彼は、本当の意味で、共に戦う者になる。
窓の外は、とっぷりと、暮れていた。味方の去った部屋で、リーゼは、左手の指輪を、そっと握った。
あの夜より前に、すべてを終わらせる。楔を断ち、ユリウスを討ち、彼を、生かす。そのために、必要なのは、あなたの、記憶だ。
思い出してほしい。わたしを。何度も失って、何度も忘れた、わたしを。
残酷な願いだと、わかっていた。思い出せば、彼は、幾十もの死の記憶に、苦しむことになる。それでも、彼の記憶なくして、この戦いは、勝てない。愛する人に、痛みを思い出してくれと願う。そんな矛盾を抱えて、それでも、リーゼは、祈らずには、いられなかった。
指輪が、手のひらの中で、ほのかに、温かい。まるで、その願いに、応えるかのように。
リーゼは、灯の消えかけた窓辺で、祈るように、目を閉じた。




