第22話 銀の指輪が、覚えている
庵からの帰り道、リーゼは、左手の薬指に嵌まった、銀の指輪を、じっと見つめていた。
婚約の儀で、アルヴィスと交わした、対の品。細い銀の輪に、小さな石が一つ、埋め込まれている。何の変哲もない指輪だ。けれど、どの周でも、目覚めるたびに、この品にだけは、不思議と、心を引かれてきた。理由もわからぬまま、指先が、勝手にこれをなぞっていた。今まで、その意味を、問うたことはなかった。ただの癖だと、思っていた。
いちばん近くにある、とバルトロは言った。
馬車の揺れの中で、リーゼの指が、輪の縁を、そっと辿った。冷たいはずの銀が、なぜか、ほのかに、温かい気がした。
公爵邸に戻り、リーゼは、自室の窓辺で、これまで断片として散らばっていたものを、一つずつ、繋ぎ合わせていった。
母、エルナは、旧いアーレンスの血を引く、贖罪の巫女だった。その血は、娘である自分に、受け継がれた。贖罪回帰という秘蹟は、契りで結ばれた者を守って死ぬとき、契りの瞬間へと、時を還す。ならば、この繰り返しが始まったのは、あの日だ。婚約の儀で、アルヴィスと、この指輪を交わした、あの瞬間。あれが、すべての起点だった。
巫女の血を持つ自分が、愛する者と契りを結ぶ。それが、封じられた秘蹟を、呼び覚ます鍵だったのだ。生まれ落ちたときから、自分は、この地獄への扉の、鍵穴として、定められていた。運命という言葉が、これほど重く感じられたことは、なかった。
母もまた、そうだった。同じ血を継ぎ、同じように、愛する者と契りを結び、そして、この繰り返しの中へ、堕ちていった。巫女の血は、代々、こうして、繰り返しの供物を、生み出してきたのだろうか。愛することが、そのまま、地獄への扉を開く。愛が深いほど、守って死ぬたびに、時は還り、痛みは積み重なる。これほど残酷な仕組みを、いったい、誰が、何のために、編んだのか。その問いの答えは、もう、わかっている。あの、慈悲深い顔をした聖人が。供物の血が絶えぬよう、代々の巫女を、飼い慣らしてきたのだ。
指輪をなぞる指に、知らず、力がこもった。
けれど、と、リーゼは思う。始まりが、あの契りにあるのなら。ならば、終わりも、そこにあるのではないか。
窓の外で、秋の陽が、庭木の葉を、赤く染めていた。
その日の午後、リーゼは、アルヴィスを、庭の四阿に誘った。
彼に、すべてを語ることは、まだできない。けれど、確かめたいことが、あった。二人の指に嵌まる、この対の指輪。それが、この繰り返しと、どう繋がっているのか。
「この指輪を」リーゼは、自分の左手を、彼の前に、そっと差し出した。「あなたは、どう感じますか」
アルヴィスは、怪訝そうに、けれど、素直に、自分の指輪へ目を落とした。彼の薬指にも、対の銀が、嵌まっている。しばらく、彼は、それを見つめていた。それから、ゆっくりと、口を開いた。
「妙な話だが」低い声だった。「この品を、私は、ずっと昔から知っている気が、するんだ。婚約の儀で、初めて交わしたはずなのに。もっと前から、幾度も、これを、君の指に嵌めてきたような。そんな、覚えのない懐かしさが、ある」
リーゼの胸が、大きく、鳴った。
幾度も、これを、君の指に嵌めてきた。彼は、知らない。何十回、この儀式を、繰り返してきたのかを。忘れているはずの手が、忘れているはずの心が、この銀の輪だけは、覚えている。
「わたしも」リーゼは、掠れた声で言った。「この指輪にだけは、いつも、心を引かれるのです。理由も、わからぬまま」
二人が、同時に、この小さな品へ、引き寄せられている。偶然では、ない。この指輪こそが、繰り返しを繋ぐ、糸の結び目なのだ。契りの起点であり、時を還す、その媒介。バルトロの言った「いちばん近く」は、文字どおり、この指に、嵌まっていた。
これが、鍵だ。この繰り返しを、断つための。
確信が、静かに、胸を満たした。呪縛の起点であるこの品が、裏を返せば、呪縛を解く、その糸口でもある。毎回、自分をこの地獄へ縛りつけてきた鎖が、初めて、希望の形に、見えた。
「触れても、いいか」
アルヴィスが、そう言って、リーゼの左手を取った。彼の指が、銀の輪に、触れる。
その瞬間、彼の表情が、こわばった。
「……っ」
彼は、空いた手で、額を押さえた。呼吸が、浅くなる。眉根が、苦しげに、寄せられた。何かを見ている。ここではない、どこかを。指輪に触れた指先から、忘れたはずの記憶が、逆流してくるように。
「アルヴィス様」
リーゼは、思わず、彼の腕を支えた。彼の額には、うっすらと、汗が滲んでいた。
「……すまない」彼は、絞り出すように言った。「今、一瞬、見えたんだ。君が……血の中に、倒れている。私の、腕の中で。そんな光景を見た覚えなど、ないのに。なぜか、胸が、張り裂けそうになる」
リーゼは、言葉を、失った。
彼が、思い出しかけている。この指輪が、忘却の檻に、亀裂を入れている。何十回と繰り返された自分の死が、彼の奥底で、目を覚まそうとしている。切なさと、恐れと、そして、細い希望が、胸の中で、絡み合った。
これまで、彼の想起は、ほんの断片だった。理由もわからぬ既視感。ふとした涙。名づけようのない懐かしさ。それが、この指輪に触れた途端、はっきりとした光景の形を、取り始めた。血の中に倒れる自分。それを抱く、彼の腕。まさに、幾度も繰り返してきた、あの死の瞬間そのものだ。銀の輪が、彼の記憶の底に沈んだものを、引き上げようとしている。
けれど、それは、諸刃の刃でもあった。彼が思い出すということは、あの死の痛みを、庇いきれなかった悔恨を、そのすべてを、彼自身が背負うということ。忘れているうちは、彼は、苦しまずに済んでいた。想起は、救いであると同時に、彼に新たな傷を刻む。それでも、と、リーゼは思う。二人で背負えるなら、その痛みも、独りで抱えるよりは。
彼の手を、両手で、包み込む。汗ばんだその手は、微かに、震えていた。
もしも、と、リーゼは、祈るように思った。もしも、あなたが、すべてを思い出してくれたら。わたし一人が抱えてきたこの繰り返しを、あなたと、二人で、背負えるなら。
二人で、これを、終わらせられるかもしれない。
夕暮れの光が、二つの銀の指輪を、赤く照らしていた。それは、鎖のようでも、あり。二人を結ぶ、絆のようでも、あった。




