第21話 母が、遺したもの
その朝、天蓋を見上げるリーゼの胸には、これまでとは違う、張り詰めた静けさがあった。
また、婚約の儀の朝に戻ってきた。けれど、この周は、これまでのどれとも違う。残された死は、あと一度か、二度。次に彼を庇って死ねば、そのときが、最後になるかもしれない。だから、この周で、すべてを終わらせる。守るのではなく、根を断つ。そう決めた、最初の朝だった。
身を起こし、左胸に触れる。黒い茨は、心臓の、すぐ手前で、止まっている。次の一節が、伸びるまで。
この日、リーゼは、バルトロの庵へ、朝早くから向かった。
ユリウスを討つ。そのためには、まず、敵を知り、そして、己を知らねばならない。なぜ、自分だけが、この繰り返しを背負うのか。贖罪の巫女とは、何なのか。母は、どういう人だったのか。それを知ることが、この戦いの、根の部分に触れることだと、直感していた。
「母のことを、教えてください」
庵の床几に腰を下ろし、リーゼは、まっすぐにバルトロを見た。「あなたは、母をご存じでした。以前、口を濁されましたが、もう、隠さないでください。時が、ないのです」
バルトロは、長いあいだ、黙っていた。乾いた薬草の匂いの中で、老神父は、皺深い手を、膝の上で組み直した。それから、遠い日を手繰るように、口を開いた。
「……お前さんの母御は、エルナと言うた。旧いアーレンスの血を引く、贖罪の巫女じゃった。お前さんと、同じ痣を、負うておった」
母も、同じ痣を。リーゼの指が、無意識に、左胸へ伸びた。
思い出すのは、いつも遠くを見ていた、静かな人の面影だった。病弱で、床に伏せることの多かった母。幼いリーゼには、その横顔が、ただ淋しげにだけ見えていた。けれど、あれは、病のせいではなかったのかもしれない。母もまた、この胸に、幾十もの死の記憶を、抱えていたのだ。誰にも言えぬまま。娘にすら、打ち明けられぬまま。
「エルナ様も、繰り返しの中に、囚われておった。愛する者を守るために、幾度も死んでは、時を遡る。お前さんと、同じ地獄をな。じゃが、あの御方は、ただ耐えるだけでは、終わらせなかった」バルトロの声が、低くなる。「エルナ様は、この呪いの根を、断とうとしたのじゃ。贖罪回帰そのものを、この世から、消し去ろうと」
リーゼは、息を呑んだ。
母もまた、この繰り返しと戦っていた。ただ守り、ただ死ぬだけでなく、その根を断とうとした。以前、バルトロが漏らした「二人目」という言葉。その一人目は、母だったのだ。
庵の小窓から差す朝の光が、床に舞う細かな埃を、白く浮かび上がらせていた。母も、かつて、この同じ床几に腰を下ろし、この老神父に、同じ問いを重ねたのだろうか。愛する者を失うたびに時が巻き戻り、自分だけがその死を覚えている。誰にも信じてもらえぬ地獄を、ひとり、胸に抱えて。そう思うと、幼い日の記憶が、違う色を帯びて蘇った。母の膝は、いつも、少し冷たかった。抱かれても、その眼差しはどこか遠くにあって、幼心に、置いていかれたような心細さが、いつも胸の底に、残った。けれど今なら、わかる。あの人は、遠くを見ていたのではない。過ぎ去っては巻き戻る、幾つもの死の記憶の底に、囚われていたのだ。
「母は、どうなったのですか」
問う声が、掠れた。バルトロは、痛ましげに、目を伏せた。
「あと一歩、というところで、力尽きた。秘蹟の根を断つ手立てに、たどり着きかけて、そして、命を落とした。病だと、伝えられておる。じゃが、わしは、そうは思うておらん」
庵の空気が、重く沈んだ。乾いた薬草の匂いの奥に、埃と、古い紙の匂いが混じっている。リーゼは、膝の上で、両手を強く握りしめた。爪が、手のひらに、食い込む。病だと伝えられた母の死。あの静かな最期を、幼い自分は、ただ悲しいものとして受け入れていた。けれど、そうではなかったのかもしれない。
「母の死には、誰かの手が、あったと」リーゼは、確かめるように言った。バルトロは、答えなかった。けれど、その沈黙が、雄弁に、一つの名を指していた。
贖罪回帰を掘り起こし、その力を収穫する者。母が、その根を断とうとしたなら。母は、その者にとって、最も邪魔な存在だったはずだ。供物を絶やそうとする者を、あの聖人が、放っておくはずがない。
母は、ユリウスに、消されたのだ。
その考えに行き着いたとき、リーゼの中で、ばらばらだったものが、一つに繋がった。母の死。自分の生。この繰り返し。そして、あの慈悲深い搾取者。すべては、一本の糸で、結ばれていた。母が断とうとして断てなかった根を、今、自分が、受け継いでいる。
「エルナ様は」バルトロが、静かに言った。「亡くなる前、幼いお前さんを、抱いておられた。そのとき、こう仰った。この子には、同じ道を歩ませたくない、と。じゃが、血は、争えなんだ。お前さんにも、痣は現れた」老神父は、リーゼを、じっと見つめた。「あるいは、な。エルナ様は、断ちきれなかったこの戦いを……お前さんに、託されたのかもしれん」
母が、遺したもの。それは、この痣であり、この繰り返しであり、そして、根を断つという、果たされなかった願いだった。
リーゼは、左胸に手を当てた。母も、ここに、同じ黒を抱えていた。同じ痛みに耐え、同じ闇と戦い、そして、力尽きた。その先を、自分が、歩く。
独りきりの戦いだと、思っていた。けれど、そうではなかった。ずっと昔に、同じ道を歩いた人がいる。その人の遺した願いが、今、自分の背を、押している。
母は、途中で倒れた。手立てにたどり着きかけて、その一歩手前で。ならば、母が届かなかったその一歩を、自分が、踏み越えなければならない。母の無念を、同じ形で繰り返すわけには、いかない。娘には同じ道を歩ませたくないと願った人の、その願いを裏切る形になるとしても。母がこの痣とともに遺したのは、呪いではなく、託されたものだ。断ちきれなかった戦いの、その続きを歩く役目。そう思い定めると、胸の奥の恐れが、不思議と、静かな熱に変わっていくのを、リーゼは感じた。もう、迷いはなかった。
「母の、断とうとした手立て」リーゼは、顔を上げた。「それが、何だったのか。あなたは、ご存じですか」
バルトロの目が、細められた。
「……その糸口は、おそらく、お前さんの、いちばん近くにある」




