第20話 ひとりでは、断てない
敵の名を知った翌朝、リーゼは、一つの決断を下した。
これまで、彼女は、ひとりで戦ってきた。真実を語っても、狂人の妄言に聞こえるだけ。誰かを頼れば、その者を危うい場所へ引きずり込む。だから、すべてを、自分ひとりの胸に、抱え込んできた。何十回もの死を。搾取の痛みを。忘れられる孤独を。
けれど、残された死は、あと一度か、二度。その一度で、教権の頂に立つ聖人を、討たねばならない。ひとりでは、断てない。この根は、あまりに深く、あまりに太い。
初めて、リーゼは、他者に賭けることを、選んだ。
それは、彼女にとって、簡単なことではなかった。誰かを頼れば、その者は、危険に晒される。忘れられ、裏切られ、また忘れられる。その繰り返しの中で、いつしか彼女は、頼らないことを、覚悟だと思い込んでいた。けれど、ひとりで背負える重さには、限りがある。昨夜、ニーナの腕に抱かれて、初めて、それを認めることができた。
まず、バルトロだった。老神父は、贖罪回帰の伝承を知る、ただ一人の味方。秘蹟を、どうすれば断てるのか。その糸口を、彼なら知っているかもしれない。
「わしに、できることは、限られておる」バルトロは、白い眉を曇らせた。「じゃが、封じられた秘蹟を解く鍵が、どこにあるか。それを探すことなら、この老いぼれにも、手伝えるじゃろう。……時を、くれ。古い文書を、当たってみる。あの秘蹟には、結び目がある。それを解けば、あるいは、繰り返しそのものを、断てるやもしれん」
結び目。その言葉を、リーゼは、胸に留めた。秘蹟を断つ鍵が、どこかにある。まだ形は見えないが、確かな、希望の糸だった。
もう一人、頼るべき者がいた。守るべき相手、その人だった。
アルヴィスを、書斎に訪ねたリーゼは、慎重に、言葉を選んだ。
真実のすべては、語れない。けれど、彼が命を狙われていること、その糸が教権の奥へ通じていることは、彼自身、すでに感づいている。ならば、共に敵を追うことは、できる。
「ユリウス猊下を、警戒してください」リーゼは、静かに言った。「証拠は、まだ、お見せできません。けれど、あなたを狙う手の、いちばん奥に、あの御方がいます。わたしは、そう、確信しています」
アルヴィスは、驚いた様子も見せず、しばらく彼女を見つめた。
「……やはり、君も、そこへ行き着いたか」低い声だった。「私も、疑ってはいた。だが、確信が持てずにいた。相手が、相手だからな」彼は、机の上で、両手を組んだ。「わかった。君の勘を、信じよう。これまでも、君の勘は、幾度も、私を救ってきた。理由はわからんが、そうとしか、思えないんだ」
その信頼が、胸に沁みた。理由を知らぬまま、彼は、いつも、彼女を信じてくれる。何十回、記憶を失っても、その芯だけは、変わらない。忘れても、この人は、また同じ場所で、同じようにわたしを信じる。それが、切なくて、そして、この上なく心強かった。
「それに」アルヴィスは、ふと、声をやわらげた。「理由は、うまく言えないんだが。君を守ることが、私にとって、何より大切なことのように、思えてならないんだ。政略で決まった婚約者を、これほど案じるのは、おかしいのかもしれん。だが、そう感じる。だから、君の敵は、私の敵だ」
その言葉に、リーゼは、目を伏せた。忘れているのに、あなたは、いつも、そこへたどり着く。何度、記憶を失っても。
アルヴィスは、腹心の従騎士長を呼んだ。ダグマール、と紹介されたその男は、無骨で、寡黙だった。壁のように厚い肩をした武人が、リーゼへ、短く一礼する。革と鉄の、武人の匂いがした。
「事情は、詳しくは聞かん」ダグは、太い声で言った。「公爵の傍を、離れるな。狙う者から、守り抜け。そういうことだな」
「ええ。どうか、お願いします」
「承知」
多くは語らない。けれど、その一言に、揺るがぬ忠が、宿っていた。この男がいれば、あの夜、アルヴィスの傍に、確かな盾が立つ。実働の要が、これで、加わった。守るのは、もう、リーゼひとりの、細い体だけではない。
その夜、リーゼは、私室で、味方の顔を、一人ずつ、思い浮かべた。
秘蹟の鍵を探す、バルトロ。共に敵を追い、盾となるアルヴィスと、ダグ。そして、いつも傍で支えてくれる、ニーナ。長い繰り返しの中で、初めて、彼女の隣に、人がいた。ひとりで抱えてきた重さが、少しだけ、軽くなった気がした。
思えば、これまでの自分は、独りで死に、独りで痛みを抱え、独りで敵を追ってきた。それが当然だと、疑いもしなかった。けれど、頼ることは、弱さではないのかもしれない。差し出された手を取ることも、また、勇気なのだと、この歳になって、ようやく、教わった気がした。ニーナの温もり、アルヴィスの信頼、ダグの忠、バルトロの知恵。その一つひとつが、折れかけた芯を、支える柱に、なっていく。
窓辺に立ち、リーゼは、暗い庭を見下ろした。
次の周が、おそらく、最後になる。残された死は、あと一度か、二度。ならば、次こそ、これまでのように、その場しのぎで彼を守り、身代わりに死ぬ、その繰り返しには、しない。あの夜が来る前に、ユリウスを討つ。搾取の根を、断つ。彼を殺す構図そのものを、この世から、消し去る。
そのために、集めた味方と、掴んだ知識と、残された死の、すべてを、賭ける。
「次で、終わらせる」
声に出して、リーゼは、そう誓った。彼を救い、搾取を断ち、そして——胸の奥で、まだ言葉にならない、もう一つの願いが、かすかに首をもたげた。二人とも、生きて、あの夜の先へ。叶わぬと知りつつ、その願いを、リーゼは、そっと、灯のように、胸に抱いた。
これまでの繰り返しは、彼を死なせないための、守りの日々だった。次の周は、違う。奪いにいく。彼を殺す者から、この運命そのものを、奪い返しにいく。守勢から、攻勢へ。長い時をかけて、リーゼは、ようやく、その一歩を踏み出そうとしていた。
冷えた夜気の向こうで、大聖堂の尖塔が、闇に沈んでいる。あの高みに巣食う聖人を、次の周でこそ、討つ。決戦の刻は、もう、すぐそこまで、来ていた。リーゼは、窓の桟を握る手に、静かに力を込めた。




