第14話 あなたは、何を忘れているの
二の矢を防いだ翌日、リーゼは、ふたたび大聖堂へ向かった。
もう、迷っている暇はない。敵の手は、教権と王権の両方に伸びている。ならば、その糸の結び目は、この聖堂の、いちばん高いところにある。命令が、金が、刺客が、すべて、ここから流れ出ているはずだった。
昼下がりの身廊は、詠唱の残響に満ちている。香の煙が、硝子窓の光の中で、ゆっくりと渦を巻いていた。リーゼは、祈る信徒に紛れながら、中枢へ通じる回廊の様子を、注意深くうかがった。
そこでは、位の高い聖職者たちが、静かに行き交っていた。上等な法衣。従者を連れた、慈愛の面。その一人ひとりが、雲の上の存在だ。伯爵令嬢が、証拠もなく指を差せば、逆に異端の名を着せられて、火にかけられる。
それでも、リーゼは見た。回廊の奥、施療院の帳簿を運ぶ下級神父が、一人の高位聖職者の従者へ、そっと書付を渡すのを。あの、市場で見失った連絡役の男が、その従者の傍らに、控えていた。生家を操る糸、金の流れ、暗殺の指図。それらが、この一点で、確かに交わっている。
その従者が仕える相手は、柱の陰になって、姿までは見えなかった。ただ、傅く者たちの数と、その恭しさから、途方もない高位の者であることだけは、伝わってきた。この聖堂で、それほどの敬意を集める者は、そう多くない。指を折るほどしか、いない。
リーゼは、逸る足を、無理に抑えた。ここで踏み込めば、また、あの乾いた視線に捉えられる。深追いは、次の周ごと糸を断たれる危険を招く。今日は、ここまで。結び目の在り処さえ、掴めれば。
あの法衣の奥に、敵はいる。もう少しだ。もう少しで、顔が見える。長い繰り返しの果てに、ようやく、その輪郭が、闇の中から滲み出そうとしていた。
その手応えを胸に邸へ戻ると、アルヴィスが、庭の回廊で彼女を待っていた。
様子が、おかしかった。彼は、片手で顔を覆い、石の欄干に、身を預けるようにして立っている。近づくと、その肩が、かすかに震えているのがわかった。
「アルヴィス様?」
声をかけると、彼は、ゆっくりと顔を上げた。灰色の瞳が、濡れていた。武人の、あの鋼のような目から、理由のわからぬ涙が、一筋、頬を伝っている。彼自身が、それに、いちばん戸惑っているようだった。
「……わからないんだ」掠れた声だった。「先ほど、ふいに、胸が締めつけられた。まるで、大切なものを、喪ったような。喪ったことを、忘れているような。そんな心地がして、気づけば、こうして」
彼は、濡れた頬を、乱暴に手の甲で拭った。
「おかしいだろう。私は、何も失っていない。君も、こうして、目の前にいる。なのに、体が、何かを悼んでいる。なあ、リーゼ。私は、何を、忘れているんだ」
リーゼは、動けなかった。
あなたが忘れているのは、わたしです。あなたのために、幾度も死んだ、わたしの名前です。あなたの腕の中で、幾度も冷たくなった、わたしの体です。喉まで、その言葉が、せり上がってくる。けれど、口にはできない。話せば、狂人の妄言に聞こえるだけだ。それに、もし本当に思い出せば、あなたの中に、幾十もの死の記憶が、一度に牙をむく。処刑台の下で、なす術もなくわたしを見送った記憶。腕の中で、わたしが冷たくなっていくのを、幾度も味わった記憶。その痛みを、あなたに、全部、背負わせることになる。
彼を、そんな痛みに、晒したくはなかった。忘れているうちは、彼は、この繰り返しの残酷を知らずに済む。それが、せめてもの、彼女の優しさだった。たとえその優しさが、自分の想いを、永遠に届かないものにするのだとしても。
「……きっと、お疲れなのです」
やっと絞り出した言葉は、また、真実を隠すためのものだった。リーゼは、彼の頬に残った涙の跡へ、そっと手を伸ばしかけ、途中で、その手を止めた。触れてしまえば、こらえているものが、こぼれてしまう。
アルヴィスは、その止まった手を、じっと見ていた。それから、自分の手で、彼女の手を、そっと包んだ。大きく、硬い、剣を握る手。その温もりが、伝わってくる。
「君は、いつも、そうやって、一歩手前で、手を引く」低い声だった。「なぜだ。まるで、私に触れることを、自分に、許していないような」
図星だった。触れれば、情が募る。情が募れば、失うときが、いっそう辛くなる。だから、いつも、一歩手前で、留めてきた。何十回と、そうしてきた。
「そんなことは、ありません」
「いいんだ。責めているんじゃない」彼は、静かに首を振った。「ただ、思うんだ。君は、何か、途方もない秘密を、一人で抱えている。そんな気がして、ならない」
包まれた手を、リーゼは、そっと引こうとした。けれど、アルヴィスの指は、離さなかった。強く握るのでもなく、ただ、そこに留めるように。まるで、離せば、彼女が消えてしまうとでも思っているかのように。
「一つだけ、約束してくれないか」彼は、静かに言った。「その秘密が、いつか、君を潰しそうになったら。そのときは、私に、話してほしい。理由がわからなくてもいい。私は、君を、信じる」
その言葉が、胸の奥深くへ、まっすぐに刺さった。何十回と繰り返した時間の中で、彼は、いつも、こうして手を伸ばしてくる。忘れても、忘れても、また同じ場所で、彼女を信じようとする。その一途さが、いっそ、残酷だった。
「……はい」やっと、それだけを、返した。守れるかどうかも、わからない約束だった。
夕暮れの光が、二人の影を、長く床に落としていた。冷えた石の匂いと、遠くの鐘の音。散りかけた蔦の葉が、風に一枚、二人の足元へ落ちた。
この人は、気づきかけている。忘れたはずの記憶と、隠された真実に、少しずつ、手を伸ばしている。それは、淡い希望だった。同時に、深い怖れでもあった。もし、彼が思い出せば。二人で、この繰り返しに、立ち向かえるかもしれない。けれど、その代償に、彼は、あの幾十もの死を、すべて背負うことになる。
あなたは、何を忘れているの。
その問いを、いちばん知りたいのは、きっと、あなた自身。そして、その答えを告げる日は、来てほしいような、決して来てほしくないような、そんな夕暮れだった。
明日も7時から続きを更新します。物語は中盤の核心へ進みます。




