第12話 その癖を、知っている
探索に明け暮れる日々の合間に、ふと、凪のような時が訪れることがある。
その日の午後、アルヴィスは政務を早めに切り上げて、リーゼを庭の東屋へ誘った。晩夏の名残を残した陽が、蔦の葉を透かして、床に緑の斑を落としている。運ばれた茶からは、乾いた花の香りが立った。
リーゼは、茶器を前に、思案に沈んでいた。連絡役のこと。教会の中枢のこと。バルトロに、次はどう問うべきか。頭の中で、糸の端を並べ替えていた、そのときだった。
「また、そうしている」
アルヴィスの声に、顔を上げる。彼は、頬杖をついて、こちらを見ていた。灰色の瞳が、面白がるように細められている。
「考えごとをするとき、君は、左の指先で、袖口をそっとつまむ。気づいているか。それから、答えが見つかると、ほんの少しだけ、眉が上がる」
リーゼの指が、止まった。言われて初めて、自分が無意識に袖をつまんでいたことに気づく。幼い頃からの、直したくても直らない癖だった。母を亡くし、継母のもとで、感情を面に出さぬよう努めてきた。その代わりに、指先だけが、心の動きを漏らしてしまう。誰にも、指摘されたことのない、密やかな癖。それを、この人だけが、見抜いている。
「……なぜ、それを」
「さあ」彼は、自分でも不思議そうに、首をかしげた。「なぜだろうな。ずっと前から、君のその癖を、見てきた気がする。会って、まだ幾日も経たないのに。おかしな話だ」
言ってから、彼は、ふと表情をやわらげた。武門の当主の、常の厳しさが、そのときだけ、すっかり消えていた。
「だが、悪くない。君のことを、昔からよく知っていた、そんな気がするのは。政略で決まった婚約のはずが、どうも、私は、そう思えなくてな」
その言葉に、リーゼは、うまく返せなかった。政略で決まった婚約。そのとおりだった。けれど、その裏で、二人がどれだけの時を重ねてきたか、彼は知らない。知らないまま、こうして、正しい場所へ、たどり着こうとしている。
胸の奥を、そっと突かれた。
彼は、覚えていない。何十回と繰り返した時間の中で、彼が見てきたはずのその癖を、今の彼は、一度も見ていない。なのに、体のどこかが、まだ覚えている。忘却の底に沈めきれなかった記憶が、こうして、ふとした拍子に、水面へ浮かんでくる。
わたしのことを、あなたは、こんなにも覚えていてくれる。名前も、交わした言葉も、すべて忘れたのに。その事実に、胸の奥がふるえた。あたたかいのに、同じ場所が、鋭く疼く。この相反する感覚を、彼女はもう、幾度も味わってきた。喉の奥が塞がって、うまく茶を飲み下せない。
東屋の卓には、あの銀の指輪が、外した手袋の隣に置かれていた。
契りの品。婚約の儀の夜、二人で交わした対の指輪だ。アルヴィスの視線が、ふと、それに吸い寄せられた。彼は、無意識のように手を伸ばし、その銀に触れる。
「妙な話を、もう一つ、していいか」低い声だった。「この指輪を見ていると、なぜか、胸が騒ぐ。懐かしいような、それでいて、ひどく喪ったような。……初めて贈った品のはずなのに、まるで、何百年も昔から、知っているような気がするんだ」
リーゼは、息を詰めた。
この品にだけは、自分も、毎度、心を引かれてしまう。巻き戻るたび、指に嵌められるその硬い感触に、なぜか胸の奥が疼く。処刑の朝も、この指輪だけは、最後まで手を離さなかった気がする。ただの婚約の品だと、思ってきた。けれど、記憶を失うはずのアルヴィスまでもが、同じ引力を感じているのなら、話は変わってくる。
この指輪には、何かある。ただの銀細工では、ない。
繰り返しの記憶を持つ自分と、記憶を失うはずの彼。その二人が、同じように惹かれる、たった一つの品。もしかすると、これは、あの巻き戻りと、どこかで繋がっているのかもしれない。確かめる術は、まだない。けれど、胸の奥に、小さな引っかかりが、確かに残った。
「……大切な品ですから」リーゼは、そっと指輪を手のひらに包んだ。「きっと、それだけ、想いがこもっているのでしょう」
嘘ではない。この品には、何十回ぶんもの、彼女の想いがこもっている。彼が、知らないだけで。
夜、私室で髪を解いてもらいながら、リーゼは、ニーナの手が、ふと止まるのを感じた。
鏡台の蝋燭が、二人の影を壁に大きく映している。蜜蝋の、甘い匂い。櫛が髪を滑る、規則正しい音だけが、静かな部屋を満たしていた。その音が、途切れたのだ。
「どうしたの」
「いえ、なんでもないんですけど」ニーナは、櫛を持ったまま、鏡の中のリーゼを見ていた。「なんだか、こうしてお嬢様の髪を梳いてると、遠い昔のことみたいに、しっくりくるんですよ。おかしいですよね。お仕えして、まだ、いくらも経ってないのに」
また、それだ。この娘も、時折、同じことを言う。忘れているはずの時間が、体の奥に、影のように残っている。
「ふふ。それだけ、相性がいいのかもしれないわね」
「そうかもしれません」ニーナは、嬉しそうに笑って、また櫛を動かしはじめた。
鏡の中の自分を、リーゼは静かに見つめた。
彼も、この娘も、忘れている。それなのに、心のいちばん深いところは、まだ、覚えていてくれる。癖を、指輪を、髪を梳く手の馴染みを。記憶は消えても、そこに刻まれた何かは、消えきらずに残る。人の情は、記憶よりも、ずっと深いところに根を張っているのかもしれない。
思えば、それは、恐ろしくもあり、救いでもあった。恐ろしいのは、もしアルヴィスが思い出せば、彼の奥に降り積もった、幾十もの死の記憶が、一度に彼を襲うということ。救いなのは、忘れられても、自分の想いが、まったくの無ではなかったということ。彼の中に、確かに、何かを残せていた。
なら、いつか。
全部を思い出してもらえる日も、来るのだろうか。あなたが、わたしの名も、交わした言葉も、すべてを取り戻して、隣にいてくれる日が。
叶わぬ願いだと、知っている。それでも、その小さな灯を、リーゼは、そっと胸の奥にしまった。明日からまた、糸を手繰る日々が始まる。その前の、ほんの一夜の、ささやかな夢として。




