第11話 その手を、たどる
バルトロの話を聞く前に、リーゼには、やっておくべきことがあった。
この周のわたしは、もう知っている。前の繰り返しで、生家を動かす金が、教会から流れていることを突き止めた。継母マグダは駒に過ぎず、その背後に、聖なる権威の影がある。記憶は、そこまで彼女を運んでくれていた。
ならば、次にたどるべきは、その金と命令を、生家へ運ぶ者だ。
連絡役。教会の意志を、マグダの耳へ届ける、誰か。そいつを掴めば、糸をもう一段、川上へたぐり寄せられる。
リーゼは、婚約者としての外出を口実に、生家の周辺へ目を配りはじめた。マグダのもとを、どんな人間が訪れるか。いつ、どんな装いで。前の周の記憶を頼りに、彼女は、来るはずの人物を、来る前に待ち構えた。
果たして、その男は現れた。
商人の身なりをしているが、荷は運んでいない。物腰は、市井の者にしては、妙に折り目正しい。歩幅は一定で、足音を立てず、視線だけを絶えず左右へ配る。教会の下働きが、俗世に紛れるときの立ち居振る舞いだった。祈りに慣れた者の、背筋の伸び方だった。
男は、アーレンス邸の裏口から入り、四半刻ほどで出てきた。手には、来たときと同じ、空の荷袋。運んだのは、物ではない。言葉だ。誰かの命令を、継母の耳へ届けに来たのだ。
リーゼは、辻馬車を降り、市女笠で顔を隠して、その男のあとを、目立たぬよう追った。心の臓が、静かに、速く打っている。この糸の先に、あの人を殺す者がいる。そう思うと、足が、勝手に前へ出た。
だが、そこで初めて、こちらの手が読まれていることを、思い知らされた。
男は、市場の雑踏へ入ると、幾度も道を折れ、尾行を巻くような動きを見せた。ただの連絡役の動きではない。警戒している。まるで、追う者がいると、あらかじめ知っているかのように。
記憶で先回りしても、相手がこちらの介入を察すれば、動き方を変える。ずっと、そうだった。リーゼが盤に手を伸ばすたび、盤の向こうの何者かも、静かに駒を組み替える。
路地の角で、リーゼは足を止めた。男の姿は、雑踏に溶けて消えている。魚を焼く煙と、香辛料の匂いが、狭い路地に立ちこめていた。人いきれの中に、あの折り目正しい背中は、もうどこにもない。
深追いは、危うい。ここで無理に追えば、こちらの動きを、相手に確かに知らせることになる。そうなれば、次の周では、この糸ごと断ち切られてしまうかもしれない。あの、乾いた値踏みの視線を、また思い出した。婚約の儀の夜も、大聖堂の施療院でも、こちらを射抜いた、あの目。追う者は、いつのまにか、追われる者になる。焦って一手を急げば、盤ごと引っくり返される。
それでも、収穫はあった。男が消えるまでに向かった方角。それは、まっすぐ、大聖堂の中枢へ通じる道だった。生家を操る糸の先は、施療院ではない。もっと奥。教会の、いちばん高いところにある。
巨大な壁だ、とリーゼは思った。相手は、この国で王権と並ぶ、教権そのものだ。伯爵令嬢が、証拠もなく指を差せば、異端として焼かれるだけ。身分も、財も、武力も、こちらにはない。あるのは、繰り返した記憶と、残された、わずかな死だけ。
それでも、糸の先は見えてきた。あとは、その奥にいる者の、顔を暴くだけだ。
邸へ戻る道で、リーゼは思いがけない人物に出くわした。
アルヴィスだった。彼は、数人の従者を連れ、大聖堂とは別の方角から、馬を進めていた。硬い表情で、何事か考え込んでいる。リーゼに気づくと、その顔が、わずかにほどけた。
「こんなところで会うとは。奇遇だな。送ろう、乗るといい」
馬車に並んで揺られながら、リーゼは、彼の様子が常と違うことに気づいた。彼もまた、何かを警戒している。探るように水を向けると、彼は少し迷って、口を開いた。
「近ごろ、教会の動きが、きな臭い」低い声だった。「王権と教権の均衡が、崩れかけている。……私を、亡き者にしたい者が、あの聖堂のどこかにいる。確たる証拠はない。だが、武人の勘だ」
リーゼは、息を呑んだ。
彼は、当事者として、同じ影を見ている。狙われる本人だからこそ、掴んでいる情報がある。教権の内側の動き、王宮での駆け引き。それは、伯爵令嬢のリーゼには、決して届かない領域の話だった。二人の見ているものは、知らぬ間に、同じ一点へ向かっていた。
「あなたは、その者に、心当たりがあるのですか」
問うと、アルヴィスは、しばし黙った。轍を刻む車輪の音だけが、二人の間を満たす。
「……名を挙げるには、まだ早い。だが、教会には、王権を上に立とうとする者がいる。慈悲深い顔の裏で、この国を、聖なる支配のもとに置こうとする者が」彼は、窓の外の尖塔を、鋭い目で見上げた。「その者にとって、私は、邪魔なのだろうな」
彼を巻き込みたくは、なかった。彼が敵に近づけば、それだけ、死の危険が増す。けれど、彼の持つ情報は、この壁を越えるために、どうしても要る。守りたい相手と、手を組まねば、その相手を守れない。皮肉な檻だった。
それでも、と思う。この人が、自分と同じ方向を見て、自分と共に敵を追ってくれるなら。長い繰り返しの中で、初めて、隣に人がいる。その事実だけで、胸の奥が、かすかに温かくなった。
「……お気をつけください」リーゼは、それだけを言った。「あなたに、何かあれば。わたしは」
言いかけて、言葉を飲む。あなたが死ねば、わたしの世界は終わる。そう言えたら、どんなにか。
アルヴィスは、その横顔を、静かに見つめていた。
窓の外を、大聖堂の尖塔が、灰色の空に突き刺さって流れていく。あの高みのどこかに、あの人を殺し、わたしの死を見つめる、何者かがいる。
その正体を知るには、もう一人、頼るべき者がいた。封じられた秘蹟の伝承を知る、あの老神父だ。生家の糸と、教会の影。その二つを結ぶ答えは、きっと、彼の語る昔話の中にある。金の流れが示す「誰が」と、秘蹟が示す「なぜ」。両方が揃って初めて、敵の顔は、輪郭を結ぶ。
その顔を暴く日は、もう、すぐそこまで来ていた。リーゼは膝の上できつく手を組み、灰色の空へ流れゆく尖塔を、じっと見つめていた。




