第9話 本当はどうしたいのですか
あの日から数日が過ぎた。
共同事業は順調だった。新しい販路の話も進み、商会の中は以前にも増して活気に満ちている。
リディアも忙しい日々を送っていた。毎日のように届く報告書をまとめ、職員たちと意見を交わし、ときには取引先の話を聞く。以前なら、自分に務まるのだろうかと不安ばかりだった。
けれど今は、その忙しさが少し心地よかった。
その日も、商会の執務室で書類の整理を手伝っていた。机の上には各地から届いた報告書が並んでいる。
北方の街。海辺の港町。山間の村。
知らない地名がいくつも記され、それぞれの街の様子が丁寧に綴られていた。
「面白そうですね」
思わず呟くと、向かいで書類を読んでいたカイルが顔を上げた。
「何がですか?」
リディアは一枚の報告書を手に取る。
「この街です」
海辺の港町について書かれた報告書だった。
白い石造りの家々が海沿いの坂に並び、どこまでも澄んだ青い海を見下ろしている。港には色とりどりの小舟が浮かび、朝は漁師たちの威勢のいい声が響く。昼には果物や花が並ぶ市場が賑わい、夕暮れになると白い壁が茜色に染まり、海は金色の光を映して静かに揺れるらしい。
まるで一枚の絵画のような景色だった。
「景色が綺麗だと書いてあります」
カイルが覗き込む。
「ああ、ここですか」
「行かれたことがあるのですか?」
「何度か」
当然のように答えられ、少しだけ羨ましくなった。
「一度見てみたいですね」
そう口にすると、カイルが小さく目を細める。
「見てみたいのですか?」
「はい」
リディアは少し照れたように笑った。
「昔から憧れていたので」
「憧れ?」
「旅行記を読むのが好きだったんです」
報告書へ視線を落としながら続ける。
「知らない街の景色や、人々の暮らしを読むたびに、世界はこんなにも広いのだと嬉しくなりました。本を開いている間だけは、私もその街を歩いているような気持ちになれたんです」
白い街並み。青い海。市場に並ぶ色鮮やかな果物や花。ページをめくるたび、その景色が目の前へ広がるようだった。
「いつか自分の目で見てみたいと、ずっと思っていました」
その言葉に、カイルは何か考えるような顔をした。
だが、その時ちょうど職員に呼ばれ、席を立つ。
「後で続きを聞かせてください」
「え?」
「その憧れの話です」
そう言い残し、カイルは執務室を出ていく。
リディアは少し首を傾げながら、再び書類へ視線を落とした。
◇
午後になると、二人は王都の川沿いにある市場へ向かった。
共同事業は順調に広がり、新しい販路の話も増えている。市場には活気があり、荷馬車が行き交い、商人たちの声が響いていた。
以前なら気後れしていた場所だ。けれど今は違う。商品の話を聞き、取引先と会話を交わし、自分の意見も自然に言えるようになっていた。
視察を終える頃には、すっかり午後になっていた。
「今日は収穫が多かったですね」
リディアが言うと、カイルも頷く。
「ええ。思った以上に面白い話が聞けました」
そして何かを思いついたように笑った。
「少し歩きませんか」
「歩くのですか?」
「せっかくですから」
その言葉に、リディアは苦笑する。
この人は本当に予定通りに動かない。
けれど最近では、それも少し楽しみになっていた。
二人は川沿いの遊歩道を歩いた。陽射しを受けた川面がきらきらと輝き、市場の喧騒も少しずつ遠ざかっていく。風が水面を渡り、夏の匂いを運んできた。
「こういう場所は好きですか?」
カイルが尋ねる。
リディアはゆっくり辺りを見渡した。
「好きです」
「意外ですね」
「そうでしょうか」
「もっと静かな図書室の方がお好きかと思っていました」
思わず笑ってしまう。
「それも好きですよ」
「それも?」
「ええ」
少し照れたように笑う。
「今日、報告書で見たあの港町も、きっと本当に綺麗なのでしょうね」
青い海と白い街並みを思い浮かべる。
「潮風の匂いがして、港には小舟が並んでいて……市場には色とりどりの果物や花が並んでいるのでしょうね」
カイルもその景色を思い浮かべるように微笑んだ。
「ええ。夕暮れは特に綺麗ですよ」
「ご覧になったことが?」
「何度かあります」
懐かしそうに頷く。
「海も街も夕日に染まって、時間がゆっくり流れるような場所です」
その言葉だけで胸が少し弾んだ。
「一度でいいから、自分の目で見てみたいです」
そう言ってから、小さく笑う。
「今思うと難しかったのですけれど」
「なぜですか?」
「侯爵令嬢でしたから」
当然のように答える。
「勝手に旅などできませんし、婚約者もいましたし、将来のことも決まっていましたから」
そういうものだと思っていた。
疑問に思ったこともなかった。
すると、隣が静かになる。カイルが何かを考えているようだった。
やがて、穏やかな声で口を開く。
「リディア様」
「はい」
カイルは真っ直ぐこちらを見つめた。
「本当はどうしたいのですか?」
リディアは思わず足を止めた。
「え?」
「旅行の話です」
優しく問いかけるような声だった。
「本当はどうしたいのですか?」
その問いに、言葉が出なかった。
――どうしたい。
その問いを、自分自身へ向けたことがなかった。
できるかどうか。許されるかどうか。そんなことばかり考えて生きてきた。
「私は……」
答えようとしても、言葉が続かない。
カイルは急かさなかった。ただ静かに待っている。
やがてリディアは、小さく笑った。
「分かりません」
正直に答える。
「考えたことがないのです」
するとカイルも柔らかく笑った。
「そうですか」
「変でしょうか」
「いいえ」
首を横に振る。
「分からないなら、これから考えればいいんです」
その声は穏やかで、答えを急がせる響きはなかった。
「急いで決める必要はありませんから」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
まるで当たり前のことを言うように。けれどリディアにとっては、新しい考え方だった。
何を選びたいのか。何を見たいのか。
それを自分で考えていいのだと、初めて教えてもらった気がした。
その夜。
自室へ戻ったリディアは、窓辺に立っていた。王都の夜景が静かに広がっている。
昼間の会話を思い出す。
――本当はどうしたいのですか?
その問いが頭から離れなかった。
今までなら考えなかった。考える必要もないと思っていた。けれど今は違う。
少しだけ知りたかった。
自分が何を望んでいるのか。
何を好きなのか。
どう生きたいのか。
どんな景色を見たいのか。
そして、その景色を。
誰かと一緒に見られたら、もっと素敵なのかもしれない。
そこまで考えて、リディアは慌てて首を振った。
「何を考えているのでしょう」
頬が少し熱い。
けれど、その理由にはまだ気付いていなかった。
人生には、正解が一つではない。だからきっと、自分で選んでいい答えもある。
自分は今、その最初の一歩を歩き始めたのだ。
窓から吹き込む夜風が、静かに髪を揺らしていた。
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