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「君は正しすぎる」と婚約破棄された私は、もう自分を責めない  作者: 黒猫と珈琲


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9/21

第9話 本当はどうしたいのですか

 あの日から数日が過ぎた。


 共同事業は順調だった。新しい販路の話も進み、商会の中は以前にも増して活気に満ちている。


 リディアも忙しい日々を送っていた。毎日のように届く報告書をまとめ、職員たちと意見を交わし、ときには取引先の話を聞く。以前なら、自分に務まるのだろうかと不安ばかりだった。


 けれど今は、その忙しさが少し心地よかった。


 その日も、商会の執務室で書類の整理を手伝っていた。机の上には各地から届いた報告書が並んでいる。


 北方の街。海辺の港町。山間の村。


 知らない地名がいくつも記され、それぞれの街の様子が丁寧に綴られていた。


「面白そうですね」


 思わず呟くと、向かいで書類を読んでいたカイルが顔を上げた。


「何がですか?」


 リディアは一枚の報告書を手に取る。


「この街です」


 海辺の港町について書かれた報告書だった。


 白い石造りの家々が海沿いの坂に並び、どこまでも澄んだ青い海を見下ろしている。港には色とりどりの小舟が浮かび、朝は漁師たちの威勢のいい声が響く。昼には果物や花が並ぶ市場が賑わい、夕暮れになると白い壁が茜色に染まり、海は金色の光を映して静かに揺れるらしい。


 まるで一枚の絵画のような景色だった。


「景色が綺麗だと書いてあります」


 カイルが覗き込む。


「ああ、ここですか」


「行かれたことがあるのですか?」


「何度か」


 当然のように答えられ、少しだけ羨ましくなった。


「一度見てみたいですね」


 そう口にすると、カイルが小さく目を細める。


「見てみたいのですか?」


「はい」


 リディアは少し照れたように笑った。


「昔から憧れていたので」


「憧れ?」


「旅行記を読むのが好きだったんです」


 報告書へ視線を落としながら続ける。


「知らない街の景色や、人々の暮らしを読むたびに、世界はこんなにも広いのだと嬉しくなりました。本を開いている間だけは、私もその街を歩いているような気持ちになれたんです」


 白い街並み。青い海。市場に並ぶ色鮮やかな果物や花。ページをめくるたび、その景色が目の前へ広がるようだった。


「いつか自分の目で見てみたいと、ずっと思っていました」


 その言葉に、カイルは何か考えるような顔をした。


 だが、その時ちょうど職員に呼ばれ、席を立つ。


「後で続きを聞かせてください」


「え?」


「その憧れの話です」


 そう言い残し、カイルは執務室を出ていく。


 リディアは少し首を傾げながら、再び書類へ視線を落とした。



 午後になると、二人は王都の川沿いにある市場へ向かった。


 共同事業は順調に広がり、新しい販路の話も増えている。市場には活気があり、荷馬車が行き交い、商人たちの声が響いていた。


 以前なら気後れしていた場所だ。けれど今は違う。商品の話を聞き、取引先と会話を交わし、自分の意見も自然に言えるようになっていた。


 視察を終える頃には、すっかり午後になっていた。


「今日は収穫が多かったですね」


 リディアが言うと、カイルも頷く。


「ええ。思った以上に面白い話が聞けました」


 そして何かを思いついたように笑った。


「少し歩きませんか」


「歩くのですか?」


「せっかくですから」


 その言葉に、リディアは苦笑する。


 この人は本当に予定通りに動かない。


 けれど最近では、それも少し楽しみになっていた。


 二人は川沿いの遊歩道を歩いた。陽射しを受けた川面がきらきらと輝き、市場の喧騒も少しずつ遠ざかっていく。風が水面を渡り、夏の匂いを運んできた。


「こういう場所は好きですか?」


 カイルが尋ねる。


 リディアはゆっくり辺りを見渡した。


「好きです」


「意外ですね」


「そうでしょうか」


「もっと静かな図書室の方がお好きかと思っていました」


 思わず笑ってしまう。


「それも好きですよ」


「それも?」


「ええ」


 少し照れたように笑う。


「今日、報告書で見たあの港町も、きっと本当に綺麗なのでしょうね」


 青い海と白い街並みを思い浮かべる。


「潮風の匂いがして、港には小舟が並んでいて……市場には色とりどりの果物や花が並んでいるのでしょうね」


 カイルもその景色を思い浮かべるように微笑んだ。


「ええ。夕暮れは特に綺麗ですよ」


「ご覧になったことが?」


「何度かあります」


 懐かしそうに頷く。


「海も街も夕日に染まって、時間がゆっくり流れるような場所です」


 その言葉だけで胸が少し弾んだ。


「一度でいいから、自分の目で見てみたいです」


 そう言ってから、小さく笑う。


「今思うと難しかったのですけれど」


「なぜですか?」


「侯爵令嬢でしたから」


 当然のように答える。


「勝手に旅などできませんし、婚約者もいましたし、将来のことも決まっていましたから」


 そういうものだと思っていた。


 疑問に思ったこともなかった。


 すると、隣が静かになる。カイルが何かを考えているようだった。


 やがて、穏やかな声で口を開く。


「リディア様」


「はい」


 カイルは真っ直ぐこちらを見つめた。


「本当はどうしたいのですか?」


 リディアは思わず足を止めた。


「え?」


「旅行の話です」


 優しく問いかけるような声だった。


「本当はどうしたいのですか?」


 その問いに、言葉が出なかった。


 ――どうしたい。


 その問いを、自分自身へ向けたことがなかった。


 できるかどうか。許されるかどうか。そんなことばかり考えて生きてきた。


「私は……」


 答えようとしても、言葉が続かない。


 カイルは急かさなかった。ただ静かに待っている。


 やがてリディアは、小さく笑った。


「分かりません」


 正直に答える。


「考えたことがないのです」


 するとカイルも柔らかく笑った。


「そうですか」


「変でしょうか」


「いいえ」


 首を横に振る。


「分からないなら、これから考えればいいんです」


 その声は穏やかで、答えを急がせる響きはなかった。


「急いで決める必要はありませんから」


 その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。


 まるで当たり前のことを言うように。けれどリディアにとっては、新しい考え方だった。


 何を選びたいのか。何を見たいのか。


 それを自分で考えていいのだと、初めて教えてもらった気がした。


 その夜。


 自室へ戻ったリディアは、窓辺に立っていた。王都の夜景が静かに広がっている。


 昼間の会話を思い出す。


 ――本当はどうしたいのですか?


 その問いが頭から離れなかった。


 今までなら考えなかった。考える必要もないと思っていた。けれど今は違う。


 少しだけ知りたかった。


 自分が何を望んでいるのか。


 何を好きなのか。


 どう生きたいのか。


 どんな景色を見たいのか。


 そして、その景色を。


 誰かと一緒に見られたら、もっと素敵なのかもしれない。


 そこまで考えて、リディアは慌てて首を振った。


「何を考えているのでしょう」


 頬が少し熱い。


 けれど、その理由にはまだ気付いていなかった。


 人生には、正解が一つではない。だからきっと、自分で選んでいい答えもある。


 自分は今、その最初の一歩を歩き始めたのだ。


 窓から吹き込む夜風が、静かに髪を揺らしていた。



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