第9話 本当はどうしたいのですか
あの日から数日が過ぎた。共同事業は順調だった。ルビー・ロッサを使った商品は少しずつ増え、新しい販路の話も進んでいる。
「リディア様、北方支店からの報告書はこちらです」
「ありがとうございます、ニコラス」
「今日は落としていません」
「まだ午前中ですよ」
「エマさんと同じことを言わないでください」
少し離れたところで書類を整理していたエマが顔を上げる。
「でしたら、言われないようにしてください」
「ほら、すぐ聞いている」
「聞こえる声で話すからです」
リディアは思わず笑った。こんなやり取りも、今ではすっかり見慣れたものになった。少し前まで、商会へ来るたびに背筋を伸ばしていたことが嘘のようだ。
「リディア様」
向かいからカイルに呼ばれる。
「こちらも見ていただけますか?」
「はい」
受け取った報告書を机へ広げる。北方の街、海辺の港町、山間の村。それぞれの土地の状況を確認していたリディアの目が、ある一枚で止まった。
「……面白そう」
「何がです?」
「この街です」
海辺の港町について書かれた報告書だった。白い石造りの家々が海沿いの坂に並び、その向こうには青い海が広がる。朝は漁師たちの声が響き、昼には果物や花を売る市場が賑わう。夕暮れには、白い壁が茜色に染まるという。仕事の報告書なのに、そこだけ何度も読み返してしまった。
「綺麗な街なのでしょうね」
「ああ、ここですか」
隣から覗き込んだカイルが頷く。
「何度か行ったことがあります」
「本当に?」
思わず声が弾んだ。カイルが少し目を細める。その視線に気付き、リディアはわずかに恥ずかしくなった。
「……一度、見てみたいと思って」
「こういう場所がお好きなんですね」
「はい。昔から旅行記を読むのが好きでした」
書店へ通うようになってから、昔好きだったものも少しずつ思い出している。
「知らない街の景色や、そこに暮らす人たちのことを読むのが好きだったんです。世界には、自分の知らない場所がこんなにあるんだと思うと、わくわくして」
「それで、いつか行ってみたいと?」
「はい。自分の目で見てみたいと思っていました」
言ってから、リディアは少し驚いた。こんな話を誰かにしたのは、随分久しぶりだった。
「ほかにもあるのですか?」
「え?」
「行ってみたい場所です」
問われて考えると、意外なほどいくつもの景色が浮かんだ。
「北方に、大きな湖があるでしょう?」
「ありますね」
「あそこも。それから、春になると街の外れが一面花畑になるところも……」
そこまで言ったところで、執務室の外から声が飛んできた。
「会頭、少しよろしいですか?」
「今行きます」
カイルが立ち上がり、扉へ向かいかけてから振り返った。
「後で続きを聞かせてください」
「まだ聞くのですか?」
「ええ。面白いので」
「私の行きたい場所の話が?」
「リディア様の好きなものの話が、です」
一瞬、返事が遅れた。カイルは気付いているのかいないのか、そのまま執務室を出ていく。リディアは閉じた扉を見つめ、それから手元の報告書へ視線を戻した。ほかにも行ってみたい場所。考えれば、まだいくつもありそうだった。それが、なんだか少し嬉しかった。
* * *
午後、二人は王都の川沿いにある市場へ向かった。新しい販路を探すため、いくつかの店を回っていく。
「こちらの商品ですが、贈答用にしてみるのはどうでしょう」
リディアが店先の商品を見ながら言う。
「箱を少し小さくして、手土産にしやすい形にすれば、手に取る方も増えると思います」
店主が少し考えてから頷いた。
「なるほど。試してみます」
「ありがとうございます」
店を出ると、カイルが隣で笑っていた。
「何ですか?」
「いえ。もう私が何も言わなくても、どんどん意見を出しますね」
「……いけませんか?」
「まさか。嬉しいんですよ」
あっさり返され、リディアは少しだけ視線を逸らした。
「ただし、間違っていたら教えてくださいね」
「もちろんです」
「笑わないでください」
「それは努力します」
「そこは『笑いません』では?」
「できない約束はしない主義なので」
「もう」
呆れながらも、リディアは笑った。一通り市場を見終えた頃には、陽も傾き始めていた。
「今日はこれで終わりですね」
「ええ」
カイルは答えてから、川の方へ目を向けた。
「少し歩きませんか?」
「また予定変更ですか?」
「仕事は終わりましたから、予定変更ではありません」
「便利な考え方ですね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めていません」
そう言いながらも、リディアは川の方へ足を向けた。以前なら、予定にない寄り道をする理由を考えただろう。今は、少し歩いてみたい。それだけで十分だった。
* * *
川沿いの遊歩道は、市場の賑わいが嘘のように静かだった。陽射しを受けた川面がきらきらと輝き、水面を渡る風が髪を揺らす。リディアは気持ちよさそうに目を細めた。
「いいところですね」
「こういう場所もお好きなんですね」
「好きです」
「意外です」
「そうでしょうか」
「静かな図書室の方がお好きなのかと」
「それも好きですよ」
「それも?」
「ええ」
リディアは川を眺めながら答えた。
「どちらか一つでなくてもいいでしょう?」
言ってから、自分で少し驚いた。カイルも一瞬目を丸くする。
「……そうですね」
「何ですか?」
「いえ。今の言葉、いいなと思いまして」
「そうですか?」
ただ思ったことを口にしただけだった。静かな図書室も好き。賑やかな市場も好き。皆で意見を出し合う商会も、こうして何も決めずに歩く時間も好き。どれか一つに決めなくてもいい。
「今日、報告書で見た港町も、本当に綺麗なのでしょうね」
「綺麗ですよ。特に夕暮れは」
「夕暮れ?」
「白い建物が夕日に染まって、海も金色になります。昼間は賑やかな港も、その頃になると少し静かになるんです」
「……素敵ですね」
見たことのない景色なのに、カイルの話を聞いていると目の前に浮かぶようだった。
「見てみたいです」
「でしたら、行けばいいのでは?」
「簡単におっしゃいますね」
リディアは苦笑した。
「侯爵令嬢が、一人で気軽に旅へ出るわけにはいきません。それに以前は婚約者もいましたし、将来のことも決まっていましたから」
だから、旅行記を読むだけで十分だと思っていた。
「それに今は、共同事業もありますし――」
そこまで言って、リディアは口を閉じた。行ってみたいと言ったばかりなのに、もう行けない理由を探している。カイルはしばらく黙ってから、穏やかに口を開いた。
「リディア様」
「はい」
「できるかどうかは、一度置いておきませんか」
「え?」
「侯爵令嬢だからとか、仕事があるからとか。そういうことではなくて」
カイルはまっすぐリディアを見る。
「本当は、どうしたいのですか?」
風が二人の間を通り抜けた。リディアはすぐには答えられなかった。できない理由なら、いくらでも思いつく。けれどカイルが聞いているのは、できるかどうかではない。自分が、どうしたいのか。
「……今まで、あまり考えたことがありませんでした」
「そうですか」
「できるかどうかばかり考えていたので」
口にすると、自分でも少し可笑しくなった。
「行きたいかどうかを考える前に、無理だと決めていたのですね」
カイルは何も言わない。いつものように、答えを急かさず待っている。リディアはゆっくり息を吸った。白い街。青い海。色とりどりの小舟。夕暮れに金色へ染まる水面。
「……行ってみたいです」
小さくても、はっきりとした声だった。
「いつか、自分の目で見てみたいです」
カイルの表情が柔らかくなる。
「そうですか」
「はい」
行けるかどうかも、いつになるのかも分からない。それでもいい。できない理由を並べるより先に、自分の望みを口にできた。
「ほかにもありますか?」
「え?」
「行ってみたい場所です」
「……あります」
「聞いても?」
「北方の湖。それから、大きな花畑がある街も」
「朝より増えていません?」
「考えていたら、思い出したんです」
「いいですね」
「まだありますよ」
「ぜひ聞かせてください」
「長くなりますよ?」
「構いません」
「商会へ戻るのが遅くなっても?」
「その時はエマに謝ります」
「私まで怒られるではありませんか」
「では、歩きながら聞きましょう」
カイルが先へ進む。
「もう」
そう言いながら、リディアもその隣へ追いついた。それから二人は、商会へ戻るまでずっと旅の話をした。
* * *
その夜、リディアは自室の窓辺に立ち、王都の夜景を眺めていた。昼間の言葉が、何度も胸の中に蘇る。
――本当は、どうしたいのですか?
今日は、一つだけ答えられた。行ってみたい。たったそれだけなのに、口にした時、胸の奥が少し軽くなった。
思えば最近、そんなことが増えている。書店へ行きたい。市場をもっと見たい。商会で働くのが楽しい。明日も皆と一緒に仕事がしたい。以前なら、役に立つかどうかや、するべきかどうかを先に考えていただろう。けれど今は、好きだから、楽しいから、やってみたいから――そんな理由があってもいいのかもしれないと思える。
何を見たいのか。何を好きなのか。どんな仕事をしたいのか。これから、どんなふうに生きていきたいのか。まだ答えられないことの方が多い。けれど、これから知っていけばいい。
ふと、夕暮れの港町を想像した。白い街並み。金色に染まる海。潮風の中を歩く自分。そして、その隣に――楽しそうに旅の話を聞いていた人の姿が浮かんだ。リディアは瞬きをする。
「……どうしてカイル様が」
呟いた途端、頬が少し熱くなった。けれど、その理由についてはまだ考えないことにした。
今は、それよりも。自分にも行ってみたい場所がある。やってみたいことがある。そんな当たり前のことを思い出せたことが、嬉しかった。
これから先、どこへ行くのかはまだ分からない。正しい道がどこにあるのかも、きっと分からない。それでも、できるかどうかを考える前に、一度くらい自分へ尋ねてもいい。
――私は、本当はどうしたい?
その答えを、一つずつ見つけていけばいい。リディアは窓の向こうに広がる夜空を見上げた。これからの行き先を、自分で選んでみたいと思った。
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価(★)をいただけると励みになります。




