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「君は正しすぎる」と婚約破棄された私は、もう自分を責めない  作者: 黒猫と珈琲


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9/22

第9話 本当はどうしたいのですか

 あの日から数日が過ぎた。共同事業は順調だった。ルビー・ロッサを使った商品は少しずつ増え、新しい販路の話も進んでいる。

「リディア様、北方支店からの報告書はこちらです」

「ありがとうございます、ニコラス」

「今日は落としていません」

「まだ午前中ですよ」

「エマさんと同じことを言わないでください」

 少し離れたところで書類を整理していたエマが顔を上げる。

「でしたら、言われないようにしてください」

「ほら、すぐ聞いている」

「聞こえる声で話すからです」

 リディアは思わず笑った。こんなやり取りも、今ではすっかり見慣れたものになった。少し前まで、商会へ来るたびに背筋を伸ばしていたことが嘘のようだ。

「リディア様」

 向かいからカイルに呼ばれる。

「こちらも見ていただけますか?」

「はい」

 受け取った報告書を机へ広げる。北方の街、海辺の港町、山間の村。それぞれの土地の状況を確認していたリディアの目が、ある一枚で止まった。

「……面白そう」

「何がです?」

「この街です」

 海辺の港町について書かれた報告書だった。白い石造りの家々が海沿いの坂に並び、その向こうには青い海が広がる。朝は漁師たちの声が響き、昼には果物や花を売る市場が賑わう。夕暮れには、白い壁が茜色に染まるという。仕事の報告書なのに、そこだけ何度も読み返してしまった。

「綺麗な街なのでしょうね」

「ああ、ここですか」

 隣から覗き込んだカイルが頷く。

「何度か行ったことがあります」

「本当に?」

 思わず声が弾んだ。カイルが少し目を細める。その視線に気付き、リディアはわずかに恥ずかしくなった。

「……一度、見てみたいと思って」

「こういう場所がお好きなんですね」

「はい。昔から旅行記を読むのが好きでした」

 書店へ通うようになってから、昔好きだったものも少しずつ思い出している。

「知らない街の景色や、そこに暮らす人たちのことを読むのが好きだったんです。世界には、自分の知らない場所がこんなにあるんだと思うと、わくわくして」

「それで、いつか行ってみたいと?」

「はい。自分の目で見てみたいと思っていました」

 言ってから、リディアは少し驚いた。こんな話を誰かにしたのは、随分久しぶりだった。

「ほかにもあるのですか?」

「え?」

「行ってみたい場所です」

 問われて考えると、意外なほどいくつもの景色が浮かんだ。

「北方に、大きな湖があるでしょう?」

「ありますね」

「あそこも。それから、春になると街の外れが一面花畑になるところも……」

 そこまで言ったところで、執務室の外から声が飛んできた。

「会頭、少しよろしいですか?」

「今行きます」

 カイルが立ち上がり、扉へ向かいかけてから振り返った。

「後で続きを聞かせてください」

「まだ聞くのですか?」

「ええ。面白いので」

「私の行きたい場所の話が?」

「リディア様の好きなものの話が、です」

 一瞬、返事が遅れた。カイルは気付いているのかいないのか、そのまま執務室を出ていく。リディアは閉じた扉を見つめ、それから手元の報告書へ視線を戻した。ほかにも行ってみたい場所。考えれば、まだいくつもありそうだった。それが、なんだか少し嬉しかった。


* * *


 午後、二人は王都の川沿いにある市場へ向かった。新しい販路を探すため、いくつかの店を回っていく。

「こちらの商品ですが、贈答用にしてみるのはどうでしょう」

 リディアが店先の商品を見ながら言う。

「箱を少し小さくして、手土産にしやすい形にすれば、手に取る方も増えると思います」

 店主が少し考えてから頷いた。

「なるほど。試してみます」

「ありがとうございます」

 店を出ると、カイルが隣で笑っていた。

「何ですか?」

「いえ。もう私が何も言わなくても、どんどん意見を出しますね」

「……いけませんか?」

「まさか。嬉しいんですよ」

 あっさり返され、リディアは少しだけ視線を逸らした。

「ただし、間違っていたら教えてくださいね」

「もちろんです」

「笑わないでください」

「それは努力します」

「そこは『笑いません』では?」

「できない約束はしない主義なので」

「もう」

 呆れながらも、リディアは笑った。一通り市場を見終えた頃には、陽も傾き始めていた。

「今日はこれで終わりですね」

「ええ」

 カイルは答えてから、川の方へ目を向けた。

「少し歩きませんか?」

「また予定変更ですか?」

「仕事は終わりましたから、予定変更ではありません」

「便利な考え方ですね」

「褒め言葉として受け取っておきます」

「褒めていません」

 そう言いながらも、リディアは川の方へ足を向けた。以前なら、予定にない寄り道をする理由を考えただろう。今は、少し歩いてみたい。それだけで十分だった。


* * *


 川沿いの遊歩道は、市場の賑わいが嘘のように静かだった。陽射しを受けた川面がきらきらと輝き、水面を渡る風が髪を揺らす。リディアは気持ちよさそうに目を細めた。

「いいところですね」

「こういう場所もお好きなんですね」

「好きです」

「意外です」

「そうでしょうか」

「静かな図書室の方がお好きなのかと」

「それも好きですよ」

「それも?」

「ええ」

 リディアは川を眺めながら答えた。

「どちらか一つでなくてもいいでしょう?」

 言ってから、自分で少し驚いた。カイルも一瞬目を丸くする。

「……そうですね」

「何ですか?」

「いえ。今の言葉、いいなと思いまして」

「そうですか?」

 ただ思ったことを口にしただけだった。静かな図書室も好き。賑やかな市場も好き。皆で意見を出し合う商会も、こうして何も決めずに歩く時間も好き。どれか一つに決めなくてもいい。

「今日、報告書で見た港町も、本当に綺麗なのでしょうね」

「綺麗ですよ。特に夕暮れは」

「夕暮れ?」

「白い建物が夕日に染まって、海も金色になります。昼間は賑やかな港も、その頃になると少し静かになるんです」

「……素敵ですね」

 見たことのない景色なのに、カイルの話を聞いていると目の前に浮かぶようだった。

「見てみたいです」

「でしたら、行けばいいのでは?」

「簡単におっしゃいますね」

 リディアは苦笑した。

「侯爵令嬢が、一人で気軽に旅へ出るわけにはいきません。それに以前は婚約者もいましたし、将来のことも決まっていましたから」

 だから、旅行記を読むだけで十分だと思っていた。

「それに今は、共同事業もありますし――」

 そこまで言って、リディアは口を閉じた。行ってみたいと言ったばかりなのに、もう行けない理由を探している。カイルはしばらく黙ってから、穏やかに口を開いた。

「リディア様」

「はい」

「できるかどうかは、一度置いておきませんか」

「え?」

「侯爵令嬢だからとか、仕事があるからとか。そういうことではなくて」

 カイルはまっすぐリディアを見る。

「本当は、どうしたいのですか?」

 風が二人の間を通り抜けた。リディアはすぐには答えられなかった。できない理由なら、いくらでも思いつく。けれどカイルが聞いているのは、できるかどうかではない。自分が、どうしたいのか。

「……今まで、あまり考えたことがありませんでした」

「そうですか」

「できるかどうかばかり考えていたので」

 口にすると、自分でも少し可笑しくなった。

「行きたいかどうかを考える前に、無理だと決めていたのですね」

 カイルは何も言わない。いつものように、答えを急かさず待っている。リディアはゆっくり息を吸った。白い街。青い海。色とりどりの小舟。夕暮れに金色へ染まる水面。

「……行ってみたいです」

 小さくても、はっきりとした声だった。

「いつか、自分の目で見てみたいです」

 カイルの表情が柔らかくなる。

「そうですか」

「はい」

 行けるかどうかも、いつになるのかも分からない。それでもいい。できない理由を並べるより先に、自分の望みを口にできた。

「ほかにもありますか?」

「え?」

「行ってみたい場所です」

「……あります」

「聞いても?」

「北方の湖。それから、大きな花畑がある街も」

「朝より増えていません?」

「考えていたら、思い出したんです」

「いいですね」

「まだありますよ」

「ぜひ聞かせてください」

「長くなりますよ?」

「構いません」

「商会へ戻るのが遅くなっても?」

「その時はエマに謝ります」

「私まで怒られるではありませんか」

「では、歩きながら聞きましょう」

 カイルが先へ進む。

「もう」

 そう言いながら、リディアもその隣へ追いついた。それから二人は、商会へ戻るまでずっと旅の話をした。


* * *


 その夜、リディアは自室の窓辺に立ち、王都の夜景を眺めていた。昼間の言葉が、何度も胸の中に蘇る。

 ――本当は、どうしたいのですか?

 今日は、一つだけ答えられた。行ってみたい。たったそれだけなのに、口にした時、胸の奥が少し軽くなった。

 思えば最近、そんなことが増えている。書店へ行きたい。市場をもっと見たい。商会で働くのが楽しい。明日も皆と一緒に仕事がしたい。以前なら、役に立つかどうかや、するべきかどうかを先に考えていただろう。けれど今は、好きだから、楽しいから、やってみたいから――そんな理由があってもいいのかもしれないと思える。

 何を見たいのか。何を好きなのか。どんな仕事をしたいのか。これから、どんなふうに生きていきたいのか。まだ答えられないことの方が多い。けれど、これから知っていけばいい。

 ふと、夕暮れの港町を想像した。白い街並み。金色に染まる海。潮風の中を歩く自分。そして、その隣に――楽しそうに旅の話を聞いていた人の姿が浮かんだ。リディアは瞬きをする。

「……どうしてカイル様が」

 呟いた途端、頬が少し熱くなった。けれど、その理由についてはまだ考えないことにした。

 今は、それよりも。自分にも行ってみたい場所がある。やってみたいことがある。そんな当たり前のことを思い出せたことが、嬉しかった。

 これから先、どこへ行くのかはまだ分からない。正しい道がどこにあるのかも、きっと分からない。それでも、できるかどうかを考える前に、一度くらい自分へ尋ねてもいい。

 ――私は、本当はどうしたい?

 その答えを、一つずつ見つけていけばいい。リディアは窓の向こうに広がる夜空を見上げた。これからの行き先を、自分で選んでみたいと思った。

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