第10話 今度は私の番
気が付けば、忙しい毎日が当たり前になっていた。
慌ただしくも充実した日々を送るうちに、ルビー・ロッサは王都でも評判となり、新しい取引の話も次々と舞い込んでいた。
今日も商会の中は、朝から慌ただしい。
「こちらの見積書です」
「北部への出荷予定を変更しました」
「午後から追加の打ち合わせが入っています」
職員たちが忙しく行き交う。その中心で、カイルもいつものように指示を出していた。
「ありがとうございます」
「こちらは後で確認します」
「午後の予定を少し前倒しにしましょう」
相変わらず予定通りには進まない。けれど、それを楽しむ余裕が、いつものカイルにはあった。
――今日は違う。
リディアは小さな違和感を覚えていた。
カイルは朝からずっと書類に目を通し、人と話し、商談へ向かっている。気付けば、一度も席を立っていない。
「カイル様」
「はい?」
「昼食のお時間ではありませんか?」
カイルはようやく書類から顔を上げた。
「ああ……もうそんな時間ですか」
「召し上がらないのですか?」
「もう少しだけ終わらせてしまいます」
そう言って、また書類へ視線を戻す。
リディアは少し眉を寄せた。
その「もう少し」は、一時間経っても終わらなかった。
午後の会議。
追加注文についての打ち合わせは順調に進んでいた。
「こちらは来週中に納品できます」
「南部への出荷も問題ありません」
職員たちが報告を続ける。
その途中だった。
「あれ……」
カイルの声が止まる。
会議室の空気が静かになった。カイルは一枚の資料を見つめたまま動かない。
リディアも隣から覗き込む。
出荷予定表だった。
同じ在庫が、二つの取引先へ割り振られている。今なら調整できる。けれど、このままなら納品に支障が出るところだった。
「私の確認不足です」
静かな声だった。
「申し訳ありません」
カイルは素直に頭を下げる。
職員たちは驚いたような顔をしたが、すぐに一人が口を開いた。
「まだ間に合います」
「すぐに調整しましょう」
「こちらで取引先へ連絡します」
誰も責めなかった。
すぐに役割を分担し、修正が始まる。その様子を見ながら、リディアは思った。
この商会は変わった。
皆で考え、皆で支える場所になっている。
修正は思ったより早く終わった。取引先への連絡も済み、大きな問題にはならない。
「間に合って良かったですね」
「はい」
職員たちは笑顔で持ち場へ戻っていく。
執務室には、カイルだけが残った。
夕日が窓から差し込み、机の上を橙色に染める。積み上がった書類を前に、カイルは小さく息をついた。
「まだ帰られないのですか?」
リディアが声を掛ける。
カイルは苦笑した。
「今日の仕事だけ終わらせようかと思いまして」
「今日だけ、ではありませんよね」
その一言に、カイルは少し驚いたようだった。
「昼食も召し上がっていませんでした」
「……見つかっていましたか」
「はい」
短い沈黙が流れる。
やがてカイルは椅子にもたれた。
「はぁ……最近、少し仕事を抱え込みすぎていました」
珍しく、弱音のような言葉だった。
「任せればいいと分かっているのですが」
苦く笑う。
「つい、自分でやってしまうんです」
その横顔は、どこか疲れて見えた。
「今日は判断まで鈍ってしまいました」
机の上の書類へ目を落とす。
「らしくありませんね」
その姿を見つめながら、リディアは静かに笑った。
「カイル様」
「はい」
「失敗ではありません」
カイルが顔を上げる。
「経験、ですよ」
一瞬、目を丸くした。
そして、ふっと笑う。
「その言葉は……」
「教えてくださったのは、カイル様です」
リディアも微笑む。
「あの時、私は救われました」
失敗ではなく経験。
その一言が、自分を責め続けていた心を軽くしてくれた。
「だから、今度は私の番です」
静かな部屋に、その言葉が優しく響いた。
カイルは何も言わず、リディアを見つめている。
「今日のカイル様は」
リディアは穏やかに続けた。
「今日のカイル様なりに、精一杯頑張ったのでしょう?」
その瞬間、カイルの表情が止まる。
聞き覚えのある言葉だった。
――いや。
自分が彼女へ伝えた言葉だった。
知らなかった頃の自分を責めなくてもいい。その時の自分なりに、精一杯だったのだから。
今、その言葉が自分へ返ってきた。
思わず苦笑が漏れる。
「参りました」
肩の力が、ゆっくり抜けていく。
「自分のことになると、案外難しいものですね」
「そうですね」
二人で顔を見合わせて笑った。
しばらく穏やかな時間が流れる。窓の外では、夕日が街を優しく照らしていた。
やがてカイルは立ち上がる。
「今日は帰ります」
「はい。それが良いかと。仕事は逃げませんから」
リディアがそう言うと、カイルは少し驚き、それから優しく笑った。
「その言葉、以前のリディア様なら言えませんでしたね」
リディアも照れたように笑う。
「そうかもしれません」
◇
商会を出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。
二人は並んで歩く。
言葉は少ない。
それでも、不思議と心地よい沈黙だった。
「リディア様」
「はい」
「今日は助けていただきました」
リディアは首を横に振る。
「お返しです」
「お返し?」
「今まで、カイル様にたくさん助けていただきましたから」
その笑顔は、とても柔らかかった。
カイルは思わず足を止めそうになる。
最初に出会った頃の彼女は、いつも自分を責め、張り詰めた表情を浮かべていた。
今は違う。
笑っている。
自分の気持ちを言葉にできる。
そして、誰かを支えられるようになった。
その変化が、嬉しかった。
ただ、それだけのはずなのに。
胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
「……どうやら、予定通りにはいきませんね」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
「何かおっしゃいましたか?」
リディアが首を傾げる。
カイルはいつもの笑顔を浮かべた。
「いえ」
そして、何事もなかったように前を向く。
「今日は少し寄り道でもしたくなりまして」
「また予定変更ですか?」
「ええ」
二人で笑い合う。
夕暮れの石畳を並んで歩く二人の距離は、出会った頃よりもずっと近くなっていた。
カイルはまだ、その理由に名前を付けていない。
ただ。
彼女が笑っていると安心する。
隣を歩いていると、肩の力が自然と抜ける。
この時間が、もう少し続けばいい。
そんなことを思いながら、カイルは静かに歩き続けた。
予定通りにいかないことには慣れている。
けれど、自分の心まで予定通りにいかないのは、少しだけ不思議なことだった。




