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「君は正しすぎる」と婚約破棄された私は、もう自分を責めない  作者: 黒猫と珈琲


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10/21

第10話 今度は私の番

 気が付けば、忙しい毎日が当たり前になっていた。


 慌ただしくも充実した日々を送るうちに、ルビー・ロッサは王都でも評判となり、新しい取引の話も次々と舞い込んでいた。


 今日も商会の中は、朝から慌ただしい。


「こちらの見積書です」


「北部への出荷予定を変更しました」


「午後から追加の打ち合わせが入っています」


 職員たちが忙しく行き交う。その中心で、カイルもいつものように指示を出していた。


「ありがとうございます」


「こちらは後で確認します」


「午後の予定を少し前倒しにしましょう」


 相変わらず予定通りには進まない。けれど、それを楽しむ余裕が、いつものカイルにはあった。


 ――今日は違う。


 リディアは小さな違和感を覚えていた。


 カイルは朝からずっと書類に目を通し、人と話し、商談へ向かっている。気付けば、一度も席を立っていない。


「カイル様」


「はい?」


「昼食のお時間ではありませんか?」


 カイルはようやく書類から顔を上げた。


「ああ……もうそんな時間ですか」


「召し上がらないのですか?」


「もう少しだけ終わらせてしまいます」


 そう言って、また書類へ視線を戻す。


 リディアは少し眉を寄せた。


 その「もう少し」は、一時間経っても終わらなかった。


 午後の会議。


 追加注文についての打ち合わせは順調に進んでいた。


「こちらは来週中に納品できます」


「南部への出荷も問題ありません」


 職員たちが報告を続ける。


 その途中だった。


「あれ……」


 カイルの声が止まる。


 会議室の空気が静かになった。カイルは一枚の資料を見つめたまま動かない。


 リディアも隣から覗き込む。


 出荷予定表だった。


 同じ在庫が、二つの取引先へ割り振られている。今なら調整できる。けれど、このままなら納品に支障が出るところだった。


「私の確認不足です」


 静かな声だった。


「申し訳ありません」


 カイルは素直に頭を下げる。


 職員たちは驚いたような顔をしたが、すぐに一人が口を開いた。


「まだ間に合います」


「すぐに調整しましょう」


「こちらで取引先へ連絡します」


 誰も責めなかった。


 すぐに役割を分担し、修正が始まる。その様子を見ながら、リディアは思った。


 この商会は変わった。


 皆で考え、皆で支える場所になっている。


 修正は思ったより早く終わった。取引先への連絡も済み、大きな問題にはならない。


「間に合って良かったですね」


「はい」


 職員たちは笑顔で持ち場へ戻っていく。


 執務室には、カイルだけが残った。


 夕日が窓から差し込み、机の上を橙色に染める。積み上がった書類を前に、カイルは小さく息をついた。


「まだ帰られないのですか?」


 リディアが声を掛ける。


 カイルは苦笑した。


「今日の仕事だけ終わらせようかと思いまして」


「今日だけ、ではありませんよね」


 その一言に、カイルは少し驚いたようだった。


「昼食も召し上がっていませんでした」


「……見つかっていましたか」


「はい」


 短い沈黙が流れる。


 やがてカイルは椅子にもたれた。


「はぁ……最近、少し仕事を抱え込みすぎていました」


 珍しく、弱音のような言葉だった。


「任せればいいと分かっているのですが」


 苦く笑う。


「つい、自分でやってしまうんです」


 その横顔は、どこか疲れて見えた。


「今日は判断まで鈍ってしまいました」


 机の上の書類へ目を落とす。


「らしくありませんね」


 その姿を見つめながら、リディアは静かに笑った。


「カイル様」


「はい」


「失敗ではありません」


 カイルが顔を上げる。


「経験、ですよ」


 一瞬、目を丸くした。


 そして、ふっと笑う。


「その言葉は……」


「教えてくださったのは、カイル様です」


 リディアも微笑む。


「あの時、私は救われました」


 失敗ではなく経験。


 その一言が、自分を責め続けていた心を軽くしてくれた。


「だから、今度は私の番です」


 静かな部屋に、その言葉が優しく響いた。


 カイルは何も言わず、リディアを見つめている。


「今日のカイル様は」


 リディアは穏やかに続けた。


「今日のカイル様なりに、精一杯頑張ったのでしょう?」


 その瞬間、カイルの表情が止まる。


 聞き覚えのある言葉だった。


 ――いや。


 自分が彼女へ伝えた言葉だった。


 知らなかった頃の自分を責めなくてもいい。その時の自分なりに、精一杯だったのだから。


 今、その言葉が自分へ返ってきた。


 思わず苦笑が漏れる。


「参りました」


 肩の力が、ゆっくり抜けていく。


「自分のことになると、案外難しいものですね」


「そうですね」


 二人で顔を見合わせて笑った。


 しばらく穏やかな時間が流れる。窓の外では、夕日が街を優しく照らしていた。


 やがてカイルは立ち上がる。


「今日は帰ります」


「はい。それが良いかと。仕事は逃げませんから」


 リディアがそう言うと、カイルは少し驚き、それから優しく笑った。


「その言葉、以前のリディア様なら言えませんでしたね」


 リディアも照れたように笑う。


「そうかもしれません」



 商会を出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。


 二人は並んで歩く。


 言葉は少ない。


 それでも、不思議と心地よい沈黙だった。


「リディア様」


「はい」


「今日は助けていただきました」


 リディアは首を横に振る。


「お返しです」


「お返し?」


「今まで、カイル様にたくさん助けていただきましたから」


 その笑顔は、とても柔らかかった。


 カイルは思わず足を止めそうになる。


 最初に出会った頃の彼女は、いつも自分を責め、張り詰めた表情を浮かべていた。


 今は違う。


 笑っている。


 自分の気持ちを言葉にできる。


 そして、誰かを支えられるようになった。


 その変化が、嬉しかった。


 ただ、それだけのはずなのに。


 胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。


「……どうやら、予定通りにはいきませんね」


 誰にも聞こえないほど小さく呟く。


「何かおっしゃいましたか?」


 リディアが首を傾げる。


 カイルはいつもの笑顔を浮かべた。


「いえ」


 そして、何事もなかったように前を向く。


「今日は少し寄り道でもしたくなりまして」


「また予定変更ですか?」


「ええ」


 二人で笑い合う。


 夕暮れの石畳を並んで歩く二人の距離は、出会った頃よりもずっと近くなっていた。


 カイルはまだ、その理由に名前を付けていない。


 ただ。


 彼女が笑っていると安心する。


 隣を歩いていると、肩の力が自然と抜ける。


 この時間が、もう少し続けばいい。


 そんなことを思いながら、カイルは静かに歩き続けた。


 予定通りにいかないことには慣れている。


 けれど、自分の心まで予定通りにいかないのは、少しだけ不思議なことだった。


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