第10話 今度は、私の番
気が付けば、忙しい毎日が当たり前になっていた。ルビー・ロッサは王都でも評判となり、新しい取引の話も次々と舞い込んでいる。今日も商会では、朝から職員たちが慌ただしく行き交っていた。
「北部への出荷予定を変更しました」
「倉庫にも伝えてください」
「午後から追加の打ち合わせが入っています」
「分かりました。少し前倒しにしましょう」
その中心で、カイルも次々と指示を出している。返事はいつも通り的確で、仕事の手が止まることもない。けれどリディアは、朝から小さな違和感を覚えていた。
いつものカイルなら、どれほど忙しくても職員と冗談を交わすくらいの余裕がある。ところが今日は、ほとんど書類から顔を上げない。机の上の冷めた茶にも手をつけず、眉間を指で押さえる姿を、すでに何度か見ていた。
「会頭、こちらにも確認をお願いします」
「はい。そこへ置いてください」
差し出された書類を受け取ろうとして、カイルの手が一度空を切った。
「あ……すみません」
「大丈夫ですか?」
「ええ。少し寝不足なだけです」
何でもないことのように笑って、すぐに書類へ目を落とす。けれど、その笑顔にもいつもの余裕がなかった。
商談から戻れば報告書を確認し、誰かに呼ばれればすぐ席を立つ。戻ると、また次の仕事へ取りかかる。朝からほとんど休んでいない。それどころか、昨日もリディアが帰る頃にはまだ執務室に明かりがついていた。
「カイル様」
「はい?」
返事をしながらも、視線は書類に落ちたままだ。
「昨夜は、何時までこちらに?」
「さあ……何時だったでしょう」
「覚えていないのですか?」
「帰ったことは覚えていますよ」
「そういう問題ではありません」
カイルはようやく顔を上げ、困ったように笑った。
「大丈夫です。今日を乗り切れば少し落ち着きますから」
その言葉にも、リディアは覚えがあった。忙しい時ほど、あと少し、これだけ終われば、と自分に言い聞かせてしまう。かつての自分も、そうだった。
気付けば、昼を過ぎていた。
「カイル様」
「はい?」
「昼食のお時間ではありませんか?」
カイルは一瞬きょとんとしてから時計を見る。
「ああ……もうそんな時間ですか」
「召し上がらないのですか?」
「これだけ終わらせてしまいます」
「これだけ、ですか?」
「ええ」
リディアは机を見る。書類は、まだ何枚も積まれていた。
「……信用できません」
「ひどいですね」
「以前も同じことをおっしゃっていましたから」
「覚えていたのですか?」
「もちろんです」
カイルは困ったように笑い、再び書類へ視線を戻した。けれどペンを持つ手が、ほんの一瞬止まる。今読んだばかりの箇所を確かめるように、同じ行へもう一度目を走らせていた。
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」
答えだけは早かった。その早さが、かえってリディアを不安にさせる。
そして結局、その「これだけ」は一時間経っても終わらなかった。
* * *
午後は、追加注文についての打ち合わせが行われた。
「南部への出荷は予定通りです」
エマが資料を確認しながら言う。
「北部も来週中には納品できます。ただ、倉庫の在庫がかなり減っています」
「追加分が届くのは?」
「五日後です」
カイルが頷き、次の資料へ手を伸ばす。その動きは普段よりわずかに鈍く、資料を開いてから数秒、黙ったまま数字を追っていた。
「カイル様?」
「……すみません。続けてください」
エマがちらりとカイルを見る。何も言わなかったが、その視線には心配が滲んでいた。
「でしたら、今ある分を――」
そこで、カイルの手が止まった。
「……あれ」
小さな声だったが、全員がカイルを見る。
「どうしました?」
リディアも隣から資料を覗き込んだ。出荷予定表だった。同じ在庫が、二つの取引先へ割り振られている。
「これ……」
エマも気付いたらしい。
「同じ商品ですよね」
「ええ」
カイルは別の帳簿を確認する。一枚、二枚とページをめくり、やがて小さく息を吐いた。
「私の確認不足です」
会議室が静かになった。いつもなら誰より早くこうした数字の食い違いに気付くカイルだけに、リディアは朝から感じていた違和感が、はっきりとした形になった気がした。
ニコラスが目を丸くする。
「会頭でも、こういう間違いをするんですね」
「ニコラス」
エマの低い声が飛んだ。
「あっ、いえ! 責めているわけではなくてですね」
「ええ。私も人間ですから」
カイルが苦笑する。
「できれば、しない方がいい間違いですが」
張りつめかけていた空気が、少しだけ緩んだ。
「申し訳ありません。すぐに調整しましょう。今ある在庫で、どこまで対応できますか?」
「確認します」
エマが帳簿を開き、ニコラスも立ち上がった。
「倉庫を見てきます」
「お願いします」
リディアも手元の資料をめくる。数字を追っていると、一つの記載が目に留まった。
「カイル様」
「はい?」
「西部へ送る予定の分ですが、納品日を三日遅らせても問題ないと連絡が来ていましたよね」
「ええ」
「でしたら、その一部を先にこちらへ回せませんか?」
カイルが資料へ視線を落とす。
「……できますね。西部へは追加分が届いてから送れば間に合います」
「では、その形で調整しましょう」
リディアは頷いた。少し前なら、口にする前に何度も考えただろう。間違っていたらどうしよう。見当違いだったら恥ずかしい。けれど今は、気付いたことなら言ってみればいいと思える。違っていれば、その時また考えればいい。
ほどなくしてニコラスが戻ってきた。
「倉庫、確認できました。予備分もあります」
「これなら、どちらも予定通り納品できます」
エマが計算を書き直す。
「良かった……」
ニコラスがほっと息を吐き、カイルもようやく肩の力を抜いた。その瞬間、疲れを隠すように眉間へ指を当てる。ほんの一瞬だったが、リディアは見逃さなかった。
「皆さん、ありがとうございました」
「間に合ったので問題ありません」
エマはそう言ってから、カイルを見る。
「ただし」
「はい?」
「今日は少し休んでください」
「……なぜです?」
「朝から見ていれば分かります」
リディアは思わずエマを見た。どうやら気付いていたのは、自分だけではなかったらしい。
「私もそう思います」
そう口にすると、カイルがこちらを見る。
「リディア様まで?」
「はい」
「二対一ですね」
「私も入れたら三対一ですよ」
ニコラスが手を挙げた。
「君は倉庫へ戻ってください」
「私だけ扱いが違いませんか?」
「仕事中です」
「会頭もですよ」
「……エマ」
「ニコラスの言う通りです」
今度こそ、会議室に笑いが起きた。カイルも笑ったものの、その直後に小さく息を吐いた。
「分かりました」
* * *
けれど夕方になっても、カイルは執務室にいた。リディアが覗くと、机の上にはまだ書類が広がっている。朝より数は減っているはずなのに、カイルの手は明らかに遅くなっていた。一枚読み終えるたびに目元を押さえ、それでも次の書類へ手を伸ばしている。
「カイル様」
「……はい」
「帰るとおっしゃっていませんでしたか?」
「言いましたね」
「では、これは?」
「少しだけ確認を」
「少しだけ?」
昼にも聞いた言葉だった。リディアがじっと見つめると、カイルは観念したようにペンを置いた。
「今日は厳しいですね」
「誰のせいでしょう」
「私でしょうか」
「ご自覚があるなら結構です」
カイルが笑う。けれど、朝から何度も見た笑顔には、もう疲れを隠しきるだけの余裕もなかった。リディアは向かいの椅子へ腰を下ろした。
「最近、ずっとお忙しかったですものね」
「少し仕事を増やしすぎました」
カイルは椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。
「任せればいいと分かっているのですが、忙しくなると自分でやった方が早いと思ってしまって」
「意外です」
「何がです?」
「カイル様は、人に任せるのがお上手だと思っていました」
「普段はそのつもりなんですが」
カイルは机の上の書類へ目を落とした。
「余裕がなくなると駄目ですね。今日の間違いも、昨日きちんと確認していれば気付けたはずです」
声には、わずかに悔しさが滲んでいた。その言葉を聞いた瞬間、リディアは少し前の自分を思い出した。もっと確認していれば。もっとできたはずなのに。あの日、自分も同じようなことを言った。そしてカイルは、そんな自分が答えを見つけるまで、ただ隣にいてくれた。
「カイル様」
「はい?」
「失敗ではありません。経験、でしょう?」
カイルが目を丸くした。一瞬の沈黙のあと、ゆっくりと口元が緩む。
「まさか、自分に返ってくるとは思いませんでした」
「私も、あの時は思いませんでした」
二人で小さく笑った。
「それに、もう解決しました」
「ええ」
「次から気を付ければいいのでしょう?」
「……そうですね」
カイルが苦笑する。
「自分のことになると、案外難しいものですね」
「はい。私もそうです」
リディアは迷わず答えた。
「今でも、失敗すると何度も考えてしまいます。でも、以前よりは少しだけ上手になったと思います」
「何がです?」
「そこで終わりだと思わないことが」
間違えた。だから、もう駄目。以前はそう考えていた。今は、そのあとに続くものがあると知っている。
「少しずつでいいのでしょう?」
カイルはしばらくリディアを見つめ、それからふっと笑った。
「本当に、参りました」
「何がです?」
「いえ」
カイルは机の上の書類をまとめ始めた。
「今日は帰ります」
「それがいいと思います」
「まだ仕事が残っていますが」
「明日のカイル様に任せましょう」
「ずいぶん思い切ったことを言うようになりましたね」
「誰かの影響かもしれません」
「それは責任重大ですね」
リディアも笑った。少し前まで、自分はこの人から教わってばかりだと思っていた。けれど今日は、受け取った言葉を返すことができた。それが、少し嬉しかった。
* * *
商会を出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。昼間の暑さは和らぎ、石畳の上に二人の長い影が伸びている。
「リディア様」
「はい?」
「今日はありがとうございました」
「私は何もしていませんよ」
「助けていただきました」
リディアは少し考えてから笑った。
「では、お返しということにしてください」
「お返し?」
「私も、今までたくさん助けていただきましたから」
自然に出た言葉だった。カイルは一瞬だけ黙り、それから穏やかに笑う。
「では、ありがたく受け取っておきます」
「はい」
以前は、助けてもらうばかりだと思っていた。けれど、そうではないのかもしれない。自分にもできることがある。この人が疲れている時には声をかけられるし、間違えて落ち込んでいる時には、以前もらった言葉を返すこともできる。それは、リディアにとって少し嬉しい発見だった。
「少し寄り道して帰りませんか?」
カイルが言う。
「今日は休むのでは?」
「寄り道は休息に含まれます」
「便利な考え方ですね」
「どこか行きたいところはありますか?」
リディアは少し考えた。以前なら、どこでも構いません、と答えていたかもしれない。けれど今日は違った。
「この前の書店へ行きたいです」
「書店?」
「はい。気になっている本があるんです」
「では、行きましょう」
カイルが歩き出そうとする。
「その前に」
「はい?」
リディアは足を止めた。
「何か召し上がってください」
「……覚えていたのですか」
「もちろんです。今日、昼食を召し上がっていないでしょう?」
「では、何か買って歩きながら――」
「駄目です」
「まだ最後まで言っていませんが」
「歩きながら召し上がるおつもりでしょう?」
「よく分かりましたね」
「分かるようになってきました」
言ってから、リディアは少しだけ笑った。最初は、何を考えているのかまるで分からない人だった。予定通りに動かない。急に市場へ行く。突然、知らない村へ行こうと言い出す。けれど今は、その行動の理由も、少しずつ分かるようになっている。
「どこかで軽く食べてから書店へ行きましょう」
「書店が閉まってしまいません?」
「では、急いで召し上がってください」
「厳しいですね」
「今日は特にです」
カイルが笑った。
「分かりました。従います」
「最初からそうしてください」
二人は夕暮れの街を歩き出した。しばらくして、リディアが何かを思い出したように笑う。
「でも、本当に珍しかったですね」
「何がです?」
「カイル様が間違えるところです」
「忘れてください」
「経験なのでは?」
「……覚えるのは私だけで十分です」
「ふふ」
隣から笑い声が聞こえる。
「何の本を探しているんです?」
「旅行記です。この前お話しした港町の」
「ああ。あの街ですか」
「覚えていたのですか?」
「もちろんです」
リディアは嬉しくなって、自然と笑った。
「カイル様、早く行かないと書店が閉まってしまいます」
「その前に食事でしょう?」
「……きちんと覚えていらっしゃるのですね」
「言われたことは守りますよ」
「本当でしょうか」
「信用がありませんね」
「日頃の行いです」
以前、エマがカイルに言っていた言葉だった。それに気付いた二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
今日は、カイルが失敗した。そしてリディアが、それを助けた。いつもどちらか一方が支えるのではなく、できる方が手を差し出せばいい。きっと、それでいいのだ。
夕暮れの街を並んで歩きながら、リディアは少しだけ嬉しくなる。今度は、自分が力になれた。それだけで、今日は十分だった。




