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「君は正しすぎる」と婚約破棄された私は、もう自分を責めない  作者: 黒猫と珈琲


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11/21

第11話 好き、だったのですね

 あの日から数日が過ぎた。


 共同事業は順調だった。ルビー・ロッサの新しい販路の話も進み、商会の中は以前にも増して活気に満ちている。


 リディアも毎日忙しく過ごしていた。失敗することもあるし、思うように進まないこともある。それでも不思議と、商会へ向かう足取りは軽かった。


 仕事が楽しい。


 以前の自分なら考えられなかったことだ。


 けれど最近、その理由を深く考えないようにしていた。


 その日の午後、打ち合わせが予定より早く終わった。職員たちがそれぞれの仕事へ戻っていく中、リディアは資料を整理しながら小さく息を吐く。


「お疲れさまです」


 聞き慣れた声に顔を上げると、カイルが立っていた。


「お疲れさまです」


 自然と笑顔になる。するとカイルも微笑んだ。


「今日は珍しく順調でしたね」


「いつも順調ではありませんか?」


「そうでもありません。私は予定通りに動くのが苦手なので」


「知っています」


 思わず即答してしまった。


 カイルが吹き出す。


「信用がありませんね」


「ご自身の胸に聞いてください」


 二人で顔を見合わせて笑った。そんな何気ない会話が、ひどく心地良かった。


 帰り際、カイルが何かを思い出したように足を止める。


「そうだ。これを」


 差し出されたのは、一冊の本だった。


「本ですか?」


「続きです」


 リディアの目が輝く。以前貸してもらった冒険譚の続編だった。


「ありがとうございます」


「読み終わったら感想を聞かせてください。楽しみにしています」


 その言葉が、妙に嬉しかった。


 その夜、自室へ戻ると、リディアは早速本を開いた。物語は相変わらず面白かった。主人公は失敗し、迷い、遠回りもする。それでも諦めずに前へ進んでいく。


 気付けば夢中になってページをめくっていた。


 けれど一晩では読み終わらなかった。続きが気になり、翌日も、その翌日も、寝る前の時間に少しずつ読み進める。


 そして数日後。


 最後のページを閉じた。


「面白かった……ふふ」


 自然と笑みが浮かぶ。


 早く感想を伝えたい。


 そう思った瞬間、読み終えた嬉しさより先に、一人の顔が浮かんだ。


 カイルだった。


 リディアは、はっとする。


 自分が楽しみにしているのは、本の感想を話すことだけではない。


 カイルと話すことだ。


「え……」


 胸が大きく跳ねた。


 最近の自分を思い返す。商会へ行くのが楽しみだった。市場へ行くのも、書店街へ行くのも、昼食を一緒に取るのも、全部楽しかった。


 仕事が楽しいから。


 もちろん、それもある。


 けれど、本当にそれだけだろうか。


 リディアは立ち上がり、窓辺へ歩いた。夜風が頬を撫でる。


 市場で笑っていた顔。本を薦めてくれた時の声。川沿いで交わした会話。


 ――本当はどうしたいのですか?


 あの日の問い。


 失敗ではなく経験だと言ってくれたこと。


 自分の言葉を、いつも静かに待ってくれること。


 一つひとつの思い出が、胸の中へ静かに積み重なっていく。


 会えない日は少し寂しい。


 明日会えると思うと嬉しい。


 何か話したいことがあると、真っ先に伝えたくなる。


 それは友人だからだろうか。


 仕事仲間だからだろうか。


 違う。


 リディアはゆっくり目を閉じた。


 答えは、もう分かっていた。


「私……」


 言葉が続かない。


 けれど胸の奥では、もう答えが出ている。


「好き、だったのですね」


 頬が熱くなる。


 ようやく気付いた。


 会いたいと思う。


 もっと話したいと思う。


 一緒にいると楽しい。


 笑っていると嬉しい。


 その理由を。


 恋愛経験はロイしかない。しかも婚約から始まった関係だった。だから知らなかった。


 誰かを好きになるとは、こういうことなのだと。


 翌朝。


 目を覚ました瞬間、真っ先に思い浮かんだのはカイルだった。


「……重症ですね」


 思わず呟き、誰もいない部屋で一人、顔を覆う。


 好きだと気付いてしまった。


 もう以前と同じではいられない。


 けれど不思議だった。怖いよりも、少しだけ嬉しい。


 窓から朝の光が差し込む。


 まだこの恋がどうなるのかは分からない。それでも、自分の答えを探し始めたリディアは今、新しい気持ちと向き合い始めていた。



 それから数日。


 周囲から見れば、リディアは何も変わっていなかった。


 以前と同じように仕事をしている。以前と同じように職員たちと話している。以前と同じようにカイルとも接している。


 ――つもりだった。


 けれど実際は違う。


 カイルの姿を見つけると嬉しい。声を聞くと安心する。目が合うだけで、胸が少し忙しくなる。


 好きだと気付いてしまったから。


 その日の朝、商会へ着いたリディアはいつものように執務室へ向かった。すると廊下の向こうからカイルが歩いてくる。


「おはようございます」


 先に声をかけられた。


「お、おはようございます」


 少しだけ返事が遅れる。


 カイルは気付いていないようだった。けれどリディアの心臓は忙しい。


 たったそれだけなのに。


 挨拶をしただけなのに、胸が落ち着かなかった。


 午前中の会議でも同じだった。カイルが何かを説明し、職員たちが質問する。いつもと変わらない光景だ。


 なのに気付けば、彼を目で追ってしまう。


「リディア様?」


 不意に名前を呼ばれた。


「はい」


 慌てて顔を上げる。


「何か意見はありますか?」


 会議の内容が頭に入っていなかった。


 リディアは一瞬固まる。するとカイルが少しだけ笑った。


「後でお聞きしますね」


 助け舟だった。


 その優しさが嬉しくて、同時に少し恥ずかしかった。


 昼休み。


 リディアは一人で小さく息を吐いた。


「好きになるというのは、大変なのですね……」


 思わず苦笑する。


 好きだと気付いてから、どうにも調子がおかしい。以前ならもっと冷静だったはずなのに、今は会うだけで嬉しくて、話すだけで嬉しくて、それなのに少し緊張する。


 自分でも可笑しくなってしまう。


 その日の午後、仕事が一段落した頃だった。


「リディア様」


 カイルが声をかけてくる。


「はい」


「少し休憩しませんか」


 そう言って差し出されたのは、温かい紅茶だった。


「ありがとうございます」


 受け取りながら微笑む。


「お疲れのようでしたので」


 カイルは自然に言う。


 その言葉に胸が温かくなった。


 この人は本当によく見ている。自分でも気付かないようなことまで。


 二人で窓際の席へ移動する。窓の外には青空が広がっていた。


「最近忙しいですからね。無理はしていませんか?」


「大丈夫です」


 そう答える。


 本当は少し違う。疲れているわけではない。落ち着かないだけだ。


 原因は目の前にいる。


 もちろん、言えないけれど。


「それなら良かったです」


 カイルは穏やかに笑った。


 その笑顔を見るだけで嬉しくなる。


 だから困る。


 リディアはそっと紅茶へ視線を落とした。顔が熱くなっている気がした。


「リディア様?」


「はい」


「本当に大丈夫ですか?」


 心配そうな声だった。


 リディアは慌てて頷く。


「だ、大丈夫です」


 少し強く答えすぎた。


 カイルが不思議そうに首を傾げる。


 当然だろう。自分でも変だと思う。


 その時、廊下の向こうから職員が走ってきた。


「会頭!」


「例の件ですが――」


 カイルが立ち上がる。


「行ってきます」


「はい」


 短いやり取り。


 それだけだった。


 それだけなのに、少し寂しいと思ってしまった。


 カイルの背中が見えなくなる。リディアは小さく息を吐き、それから苦笑した。


 以前の自分なら想像もしなかった。


 誰かと話したいと思うことも。


 誰かの姿を探してしまうことも。


 離れて少し寂しいと思うことも。


 窓の外では、風が木々を揺らしている。


 恋とはもっと劇的なものだと思っていた。


 けれど実際は違うらしい。


 会えると嬉しい。


 笑ってくれると嬉しい。


 少し話せるだけで、一日が特別になる。


 そんな小さな積み重ねだった。


 知らなかった。


 こんな気持ちになることを。


 そして少しだけ思う。


 もしこの気持ちが伝わったら。


 その先には、どんな未来があるのだろう。


 まだ分からない。


 けれど、その未来を想像すると不思議と心が温かくなる。


 その理由を、リディアはもう知っていた。


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