第11話 好き、だったのですね
あの日から数日が過ぎた。
共同事業は順調だった。ルビー・ロッサの新しい販路の話も進み、商会の中は以前にも増して活気に満ちている。
リディアも毎日忙しく過ごしていた。失敗することもあるし、思うように進まないこともある。それでも不思議と、商会へ向かう足取りは軽かった。
仕事が楽しい。
以前の自分なら考えられなかったことだ。
けれど最近、その理由を深く考えないようにしていた。
その日の午後、打ち合わせが予定より早く終わった。職員たちがそれぞれの仕事へ戻っていく中、リディアは資料を整理しながら小さく息を吐く。
「お疲れさまです」
聞き慣れた声に顔を上げると、カイルが立っていた。
「お疲れさまです」
自然と笑顔になる。するとカイルも微笑んだ。
「今日は珍しく順調でしたね」
「いつも順調ではありませんか?」
「そうでもありません。私は予定通りに動くのが苦手なので」
「知っています」
思わず即答してしまった。
カイルが吹き出す。
「信用がありませんね」
「ご自身の胸に聞いてください」
二人で顔を見合わせて笑った。そんな何気ない会話が、ひどく心地良かった。
帰り際、カイルが何かを思い出したように足を止める。
「そうだ。これを」
差し出されたのは、一冊の本だった。
「本ですか?」
「続きです」
リディアの目が輝く。以前貸してもらった冒険譚の続編だった。
「ありがとうございます」
「読み終わったら感想を聞かせてください。楽しみにしています」
その言葉が、妙に嬉しかった。
その夜、自室へ戻ると、リディアは早速本を開いた。物語は相変わらず面白かった。主人公は失敗し、迷い、遠回りもする。それでも諦めずに前へ進んでいく。
気付けば夢中になってページをめくっていた。
けれど一晩では読み終わらなかった。続きが気になり、翌日も、その翌日も、寝る前の時間に少しずつ読み進める。
そして数日後。
最後のページを閉じた。
「面白かった……ふふ」
自然と笑みが浮かぶ。
早く感想を伝えたい。
そう思った瞬間、読み終えた嬉しさより先に、一人の顔が浮かんだ。
カイルだった。
リディアは、はっとする。
自分が楽しみにしているのは、本の感想を話すことだけではない。
カイルと話すことだ。
「え……」
胸が大きく跳ねた。
最近の自分を思い返す。商会へ行くのが楽しみだった。市場へ行くのも、書店街へ行くのも、昼食を一緒に取るのも、全部楽しかった。
仕事が楽しいから。
もちろん、それもある。
けれど、本当にそれだけだろうか。
リディアは立ち上がり、窓辺へ歩いた。夜風が頬を撫でる。
市場で笑っていた顔。本を薦めてくれた時の声。川沿いで交わした会話。
――本当はどうしたいのですか?
あの日の問い。
失敗ではなく経験だと言ってくれたこと。
自分の言葉を、いつも静かに待ってくれること。
一つひとつの思い出が、胸の中へ静かに積み重なっていく。
会えない日は少し寂しい。
明日会えると思うと嬉しい。
何か話したいことがあると、真っ先に伝えたくなる。
それは友人だからだろうか。
仕事仲間だからだろうか。
違う。
リディアはゆっくり目を閉じた。
答えは、もう分かっていた。
「私……」
言葉が続かない。
けれど胸の奥では、もう答えが出ている。
「好き、だったのですね」
頬が熱くなる。
ようやく気付いた。
会いたいと思う。
もっと話したいと思う。
一緒にいると楽しい。
笑っていると嬉しい。
その理由を。
恋愛経験はロイしかない。しかも婚約から始まった関係だった。だから知らなかった。
誰かを好きになるとは、こういうことなのだと。
翌朝。
目を覚ました瞬間、真っ先に思い浮かんだのはカイルだった。
「……重症ですね」
思わず呟き、誰もいない部屋で一人、顔を覆う。
好きだと気付いてしまった。
もう以前と同じではいられない。
けれど不思議だった。怖いよりも、少しだけ嬉しい。
窓から朝の光が差し込む。
まだこの恋がどうなるのかは分からない。それでも、自分の答えを探し始めたリディアは今、新しい気持ちと向き合い始めていた。
◇
それから数日。
周囲から見れば、リディアは何も変わっていなかった。
以前と同じように仕事をしている。以前と同じように職員たちと話している。以前と同じようにカイルとも接している。
――つもりだった。
けれど実際は違う。
カイルの姿を見つけると嬉しい。声を聞くと安心する。目が合うだけで、胸が少し忙しくなる。
好きだと気付いてしまったから。
その日の朝、商会へ着いたリディアはいつものように執務室へ向かった。すると廊下の向こうからカイルが歩いてくる。
「おはようございます」
先に声をかけられた。
「お、おはようございます」
少しだけ返事が遅れる。
カイルは気付いていないようだった。けれどリディアの心臓は忙しい。
たったそれだけなのに。
挨拶をしただけなのに、胸が落ち着かなかった。
午前中の会議でも同じだった。カイルが何かを説明し、職員たちが質問する。いつもと変わらない光景だ。
なのに気付けば、彼を目で追ってしまう。
「リディア様?」
不意に名前を呼ばれた。
「はい」
慌てて顔を上げる。
「何か意見はありますか?」
会議の内容が頭に入っていなかった。
リディアは一瞬固まる。するとカイルが少しだけ笑った。
「後でお聞きしますね」
助け舟だった。
その優しさが嬉しくて、同時に少し恥ずかしかった。
昼休み。
リディアは一人で小さく息を吐いた。
「好きになるというのは、大変なのですね……」
思わず苦笑する。
好きだと気付いてから、どうにも調子がおかしい。以前ならもっと冷静だったはずなのに、今は会うだけで嬉しくて、話すだけで嬉しくて、それなのに少し緊張する。
自分でも可笑しくなってしまう。
その日の午後、仕事が一段落した頃だった。
「リディア様」
カイルが声をかけてくる。
「はい」
「少し休憩しませんか」
そう言って差し出されたのは、温かい紅茶だった。
「ありがとうございます」
受け取りながら微笑む。
「お疲れのようでしたので」
カイルは自然に言う。
その言葉に胸が温かくなった。
この人は本当によく見ている。自分でも気付かないようなことまで。
二人で窓際の席へ移動する。窓の外には青空が広がっていた。
「最近忙しいですからね。無理はしていませんか?」
「大丈夫です」
そう答える。
本当は少し違う。疲れているわけではない。落ち着かないだけだ。
原因は目の前にいる。
もちろん、言えないけれど。
「それなら良かったです」
カイルは穏やかに笑った。
その笑顔を見るだけで嬉しくなる。
だから困る。
リディアはそっと紅茶へ視線を落とした。顔が熱くなっている気がした。
「リディア様?」
「はい」
「本当に大丈夫ですか?」
心配そうな声だった。
リディアは慌てて頷く。
「だ、大丈夫です」
少し強く答えすぎた。
カイルが不思議そうに首を傾げる。
当然だろう。自分でも変だと思う。
その時、廊下の向こうから職員が走ってきた。
「会頭!」
「例の件ですが――」
カイルが立ち上がる。
「行ってきます」
「はい」
短いやり取り。
それだけだった。
それだけなのに、少し寂しいと思ってしまった。
カイルの背中が見えなくなる。リディアは小さく息を吐き、それから苦笑した。
以前の自分なら想像もしなかった。
誰かと話したいと思うことも。
誰かの姿を探してしまうことも。
離れて少し寂しいと思うことも。
窓の外では、風が木々を揺らしている。
恋とはもっと劇的なものだと思っていた。
けれど実際は違うらしい。
会えると嬉しい。
笑ってくれると嬉しい。
少し話せるだけで、一日が特別になる。
そんな小さな積み重ねだった。
知らなかった。
こんな気持ちになることを。
そして少しだけ思う。
もしこの気持ちが伝わったら。
その先には、どんな未来があるのだろう。
まだ分からない。
けれど、その未来を想像すると不思議と心が温かくなる。
その理由を、リディアはもう知っていた。




