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「君は正しすぎる」と婚約破棄された私は、もう自分を責めない  作者: 黒猫と珈琲


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第8話 居場所

 共同事業が始まってから、一か月ほどが過ぎていた。


 リディアはヴァレンティア商会へ通うことにも、少しずつ慣れ始めていた。朝になると職員たちが笑顔で挨拶をしてくれる。会議室へ行けば資料が用意されていて、分からないことを尋ねれば誰かが丁寧に教えてくれる。


 以前は緊張していた場所だった。けれど今は、不思議と自然に足が向く。


「リディア様、おはようございます」


「おはようございます」


 挨拶を返したあと、ふと気付く。そのやり取りが、もう特別ではなくなっていた。


 それが、少し嬉しかった。



 その日も二人は市場を視察していた。


 店先には見覚えのある深紅の果実が並んでいる。


 ルビー・ロッサ。


 以前よりも、ずっと多くの店で見かけるようになっていた。


「人気ですね」


 リディアが呟くと、店主が嬉しそうに笑った。


「おかげさまで。最近は果実だけじゃないんですよ」


 店主が店先を指差す。そこには小さなガラス瓶が並んでいた。陽の光を受けた深紅のジャムが、宝石のように輝いている。


「こちらはルビー・ロッサのジャムです。贈り物に選ばれる方も増えました」


 隣には可愛らしく包装された焼き菓子も並んでいた。


「こちらも人気ですよ。香りが良くて、お茶請けにぴったりだと評判です」


 店主はさらに嬉しそうに続ける。


「向かいの喫茶店では、夏限定のシャーベットも始めたんですよ」


「シャーベットですか?」


「ええ。毎日のように売り切れてしまうんです」


 カイルが楽しそうに笑った。


「思った以上に広がるのが早かったですね」


「本当に助かっています」


 店主は何度も頷く。


「今では『ルビー・ロッサをください』と、名前で買いに来てくださるお客様も増えました」


 リディアは自然と微笑んでいた。


 あの日、会議室で皆が自由に出し合った案。ジャム。焼き菓子。シャーベット。一つひとつが形になり、人々の笑顔へ繋がっている。


 数字だけでは見えなかった景色が、今は目の前にあった。


「良かったですね」


 カイルが穏やかに言う。


「はい」


 リディアは迷いなく頷いた。


 皆で考え、皆で育ててきた。その一員になれたことが、心から嬉しかった。


 一通り市場を見終えた頃、カイルが空を見上げた。


「お腹が空きましたね」


 あまりにも自然な一言に、リディアは思わず笑う。


「急ですね」


「急ではありません」


 真面目な顔で返ってくる。


「人は昼になるとお腹が空くものです」


「それはそうですが」


「昼食にしましょう」


 結局、笑いながら頷くしかなかった。


 案内されたのは市場裏の小さな食堂だった。商人や職人たちで賑わう、温かな雰囲気の店。焼き立てのパンと具沢山のスープ、それに香草の香りが食欲を誘う。


「よく来られるのですか?」


「ええ。美味しいんですよ」


 料理が運ばれてくる。リディアがパンへ手を伸ばそうとした、その時だった。


 少し遠かった皿が、すっと目の前へ寄せられる。


「どうぞ」


 カイルだった。


「あ……ありがとうございます」


 あまりにも自然な仕草だった。特別なことではない。だからこそ、その気遣いが胸に残る。


 スープを一口飲むと、優しい味が体へ染み渡った。


「美味しいです」


「でしょう?」


 なぜかカイルが得意そうに笑う。


「カイル様がお作りになったわけではありませんよね」


「違いますね」


 即答だった。


 二人で顔を見合わせて笑う。そんな何気ない時間が、心地よかった。


 昼食を終えた二人は、そのまま書店街へ向かった。市場の帰りに立ち寄ることが、いつしか二人の習慣になっていた。


 リディアも、それを密かに楽しみにしている。


「続きは読み終わりましたか?」


「あの冒険譚ですか?」


「ええ」


 リディアは嬉しそうに頷いた。


「読み終わりました」


「どうでした?」


「とても面白かったです」


 自然と笑みがこぼれる。


「主人公は何度も失敗するのですが」


「はい」


「それでも前へ進むんです」


 カイルは静かに耳を傾けている。


「昔の私は『もっと考えればいいのに』と思っていました」


「今は?」


 リディアは少し照れながら笑った。


「頑張っているから、応援したくなりました」


 カイルも微笑む。


「泣きました?」


「え?」


「最後です」


 リディアは少しだけ視線を逸らした。


「ええ……少しだけ」


「やっぱり」


「分かるのですか?」


「その顔を見れば分かります」


 思わず吹き出してしまう。


「そんなに分かりやすいでしょうか」


「ええ」


 迷いのない返事だった。


「今のリディア様は、とても分かりやすいですよ」


 頬が少し熱くなる。


 けれど、嫌ではなかった。


 夕方、二人が商会へ戻ると、職員たちが慌ただしく動いていた。


「会頭!」


「例の荷物、無事に届きました!」


「それは良かった」


「皆さんのおかげです!」


 誰かが冗談を言い、周囲から笑い声が上がる。活気があって、自由で、少し賑やか。以前なら落ち着かないと思っていた空気だった。


 けれど今は違う。


 その輪の中にいる自分がいた。


「どうしました?」


 気付けばカイルが隣に立っていた。


 リディアはゆっくり周囲を見渡す。笑顔で働く人たち。忙しくても楽しそうな職員たち。皆が同じ方向を向いている。


「楽しいなと思いまして」


 その言葉は自然に口からこぼれた。


 カイルは一瞬だけ目を丸くする。そして、とても嬉しそうに笑った。


「それは良かった」


 その笑顔を見て、リディアの胸も温かくなる。


 婚約を解消されたあの日は、こんな未来が待っているなんて思いもしなかった。人生は思っていたより広い。正しい答えは、一つではない。


 だからこそ、まだ知らない景色に出会える。


 そのことが、少し楽しみになっていた。


 夕暮れの光が商会の窓から差し込む。笑顔で職員たちと話すリディアを見つめながら、カイルは小さく息を吐いた。


 彼女が笑う。


 それだけで嬉しい。


「どうやら、予定通りにはいきませんね」


 誰にも聞こえないほど小さく呟く。


 最初は放っておけなかっただけだった。真面目で、頑張りすぎて、自分を責めてばかりいた人。


 でも、もう違う。


 彼女が笑うと、自分まで嬉しくなる。その笑顔を、もっと見ていたいと思う。


 商売なら答えはすぐに見つかる。


 けれど。


 この気持ちだけは、まだ答えが分からない。


 夕暮れの光の中、笑うリディアを見つめるカイルの表情は、本人だけがまだ気付いていないほど、どこまでも優しかった。


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