第8話 ここで働くのが、楽しい
共同事業が始まってから、一か月ほどが過ぎていた。リディアはヴァレンティア商会へ通うことにもすっかり慣れ、朝になれば職員たちと笑顔で挨拶を交わすようになっていた。以前は扉をくぐるたび、失礼がないよう背筋を伸ばしていた場所だ。けれど今は、もう違う。
「リディア様、おはようございます」
「おはようございます」
挨拶を返して奥へ向かおうとすると、後ろから慌ただしい足音が聞こえた。
「おはようございます、リディア様!」
振り返ると、ニコラスが書類の束を抱えて走ってくる。
「おはようございます。そんなに急いで大丈夫ですか?」
「大丈夫です。今日はまだ何も落としていません」
「まだ、ですか?」
「ニコラス。それは自慢になりませんよ」
横からエマの冷静な声が飛んできた。
「朝から縁起でもないことを言わないでください。また拾うのは私なんですから」
「今日は落としませんよ」
「昨日もそう言っていました」
「昨日は一枚だけです」
「枚数の問題ではありません」
二人のやり取りに、リディアは笑った。少し前までなら、仕事中にこんな会話をしていていいのだろうかと思ったかもしれない。けれど今は、この賑やかさにもすっかり馴染んでいる。
「ところで、会頭を見ませんでしたか?」
「カイル様ですか?」
「先ほどまで執務室にいたはずなのですが」
三人で顔を見合わせた、その時だった。
「ここですよ」
背後から声がした。振り返ると、カイルが木箱を抱えて立っている。
「会頭」
エマの声が一段低くなった。
「何をしているのですか?」
「荷物を運んでいます」
「見れば分かります。なぜ会頭自ら運んでいるのですか」
「人手が足りなさそうだったので」
「それで執務室から消えたのですか?」
「すぐ戻るつもりでした」
「会頭」
「はい」
「あとでお話があります」
「……分かりました」
珍しく素直に返事をしたカイルに、ニコラスが声を潜める。
「会頭、頑張ってください」
「ニコラス。あなたもです」
「なぜ私まで?」
「昨日落とした書類の件があります」
「一枚だけなのに……」
しょんぼりするニコラスを見て、リディアはとうとう声を立てて笑った。
「リディア様まで……」
「ごめんなさい。でも、皆さん、本当に仲がいいのですね」
三人が顔を見合わせる。
「仲がいいのでしょうか」
「どうでしょう」
「私は仲がいいと思っていますよ」
ニコラスだけが即答した。
「まあ、悪くはありません」
「それは仲がいいということですよ」
「ニコラスは黙っていてください」
「はい」
また笑い声が上がる。その輪の中に自分がいることを、リディアはもう不思議には思わなかった。
* * *
午前の打ち合わせでは、ルビー・ロッサの販売状況が報告された。
「果実そのものも好調ですが、加工品の売り上げが伸びています」
エマが資料を机へ並べる。
「ジャムと焼き菓子は追加注文が入っています。喫茶店のシャーベットも連日売り切れているそうです」
「そんなに?」
リディアは資料を覗き込んだ。一か月前には王都でほとんど知られていなかった果実が、今ではいくつもの店で名前を呼ばれている。
「あの村で初めて見た時には、こんなふうになるとは思いませんでした」
「私もです。だから商売は面白いんですよ」
カイルの言葉に、リディアも自然と頷いた。
「そういえば、一つ相談があります」
ニコラスが手を上げる。
「取引先から、新しい焼き菓子の商品名を一緒に考えてほしいと言われています」
「商品名ですか?」
「はい。ルビー・ロッサを練り込んだ小さな焼き菓子で、贈答用にも売り出す予定だそうです」
「それなら午後、市場へ行った時に実物を見て考えましょうか」
エマの提案に、カイルがすぐ頷いた。
「賛成です。リディア様もどうです?」
「もちろんです」
答えてから、自分でも少し驚いた。以前なら「私もですか」と聞き返していただろう。けれど今は、行ってみたいと思った。だから、そう答えた。
* * *
午後、四人は市場の一角にある菓子店を訪れた。店主が見せてくれたのは、手のひらほどの箱に並んだ小さな焼き菓子だった。丸い生地にはルビー・ロッサの果汁が練り込まれ、淡い紅色に染まっている。
「可愛らしいですね」
「若い女性や贈り物向けに売りたいんですが、どうにも名前が決まらなくて。商会の皆さんにも知恵を借りられればと」
四人は店の隅にある小さな卓を囲んだ。
「では、案を出しましょう。採用されなくても気にしない。まず思いついたものを言ってみる、でどうです?」
「それなら会頭が最初にどうぞ」
「私ですか?」
「言い出した方からお願いします」
「そうですね……『ロッサの宝石』」
「普通ですね」
「早くありません?」
「もう少し捻ってください」
「厳しいですね」
リディアが笑いを堪えながら口元へ手を添える。
「では、エマは?」
「『紅玉のひとくち菓子』」
「エマさんも結構普通ですよ」
ニコラスが言うと、エマの視線が向いた。
「では、あなたはもっと良い案があるのですね?」
「もちろんです。『食べれば幸せ! 真っ赤なロッサちゃん』」
沈黙が落ちた。
「……ロッサちゃん?」
「親しみやすいでしょう?」
「却下です」
「早い!」
「贈答品ですよ」
「子どもには受けるかもしれません」
「今回は若い女性向けです」
「では、『恋するロッサちゃん』」
「悪化しました」
「なぜですか!」
リディアはとうとう堪えきれず、吹き出した。
「ふふっ……ごめんなさい」
「リディア様まで!」
「でも、少し可愛いです」
「本当ですか?」
「少しだけです」
「味方がいた!」
「採用するとは言っていませんよ」
今度はカイルが笑った。
「では、リディア様は?」
「私ですか?」
三人の視線が集まる。以前なら、ここで正解を探しただろう。変な案を出してはいけない。誰もが納得する名前でなければ、と。
けれど今は、目の前の焼き菓子を見た。淡い紅色で、小さくて可愛らしい。箱を開けた時、宝石を見つけたように嬉しくなる。
「……『ルビーのひと粒』はどうでしょう」
思いついたまま口にした。
「ルビーのひと粒」
カイルが繰り返す。
「いいですね」
「私も好きです」
エマもすぐに賛成した。
「負けました……」
「勝負だったのですか?」
「もちろんです」
「知りませんでした」
リディアが笑うと、店主も嬉しそうに頷いた。
「『ルビーのひと粒』。いいですね。覚えやすいし、贈り物にも合いそうだ」
「本当にいいのですか?」
「ええ。使わせてください」
リディアは手元の焼き菓子を見つめた。完璧に考えた案ではない。何度も見直したわけでもない。ただ、その場で感じたことを言葉にした。それでも、誰かが受け取ってくれた。
「良かったですね」
「はい」
隣から聞こえたカイルの声に、リディアは素直に笑った。
「嬉しいです」
* * *
商会へ戻る頃には、夕方になっていた。
「今日は私の案が採用されませんでした」
「まだ言っているのですか?」
「ロッサちゃん、可愛いと思うんですけど」
「諦めてください」
「次の商品で使いましょう」
「使いません」
「エマさんは厳しいですね」
「誰かが止めなければならないので」
そのやり取りを聞きながら、リディアは笑った。商会へ戻ればまた仕事が待っている。職員たちが行き交い、あちらこちらから声が飛ぶ。
「リディア様、こちらの数字を見ていただいてもいいですか?」
「はい」
自然に返事をして資料を受け取る。
「ここですが、前回の記録と少し違いませんか?」
「あ、本当だ。確認してきます」
「お願いします」
職員を見送ってから、リディアは周囲を見渡した。笑い声、紙をめくる音、誰かを呼ぶ声。忙しく人々が行き交う中で、自分も当たり前のように仕事をしている。
一か月前まで、ここでは部外者だった。それなのに今は、誰かに呼ばれれば自然に返事をしている。
「どうしました?」
いつの間にか、カイルが隣に立っていた。以前なら「何でもありません」と答えていただろう。けれど今日は、そうしたくなかった。
「……楽しいなと思って」
「何がです?」
「ここで働くのが。皆さんと一緒に考えて、それが形になっていくのを見るのが楽しいです。市場へ行くのも、知らないものを見るのも。今日みたいに、皆でくだらないことを言いながら考えるのも」
「くだらないとは何ですか!」
少し離れたところから、ニコラスの声が飛んできた。
「聞こえていたのですか?」
「ロッサちゃんは本気です!」
「そこは聞かなくていいです、ニコラス」
エマがすぐに遮り、また笑い声が上がった。
リディアもひとしきり笑ってから、カイルを見る。
「それから、書店へ寄るのも好きです」
一瞬、カイルが黙り、やがて目元を柔らかくした。
「それは良かった」
「はい」
婚約を解消されたあの日は、決めていた道から外れたことで何もかも終わったように思った。けれど、道を外れたからこそ出会えたものもある。
知らなかった仕事。忘れていた本。自分の意見を聞いてくれる人たち。失敗しても、次を考えられる場所。
そして――。
リディアは隣に立つカイルへ視線を向けた。ちょうどニコラスに呼ばれた彼が、「今行きます」と手を上げる。その姿を見ていると、自然と口元が緩んだ。
明日もここへ来たい。
明日も、この人たちと働きたい。
誰かに言われたからでも、そうするべきだからでもない。
自分が、そうしたいから。
* * *
「会頭、こちらもお願いします!」
ニコラスに呼ばれたカイルは、受け取った書類へ目を通した。
「分かりました。そこへ置いておいてください」
「はい」
数字を確認し、一つ気になる箇所を見つける。
「ニコラス、ここですが――」
顔を上げた時、少し離れた場所でリディアがエマと話しているのが目に入った。何かを言われたらしく、彼女が楽しそうに笑う。カイルもつられるように口元を緩めた。
「……会頭?」
「はい?」
「聞いていました?」
「……すみません。もう一度お願いします」
ニコラスが珍しいものを見るような顔をした。
「会頭が話を聞いていないなんて、珍しいですね」
「そうですか?」
「そうですよ」
カイルは誤魔化すように書類へ視線を戻した。けれど、しばらくするとまた目が向いてしまう。今度はリディアが真剣な顔で資料を確認していた。その横顔まで無意識に目で追っていることに気付き、苦笑する。
最初は、少し気になる人だった。真面目で優秀で、それなのに自分には驚くほど厳しい人。もう少し肩の力を抜けばいいのにと、そう思っていただけだった。
けれど、いつからだろう。
彼女が商会へ来ると嬉しい。姿が見えないと、どこにいるのか気になる。面白いものを見つけると、彼女ならどう思うだろうと考える。そして彼女が笑っていると、自分まで嬉しくなる。
「どうやら……」
誰にも聞こえない声で呟く。
「予定通りにはいきませんね」
自分で言って、可笑しくなった。予定変更ならいくらでもしてきた。必要なら迷わず変えるのが自分のやり方だ。
けれど、自分の気持ちだけは、思っていたよりずっと扱いが難しいらしい。
もう一度リディアを見ると、ちょうど彼女が顔を上げた。一瞬、目が合う。
リディアが笑った。
カイルも自然と笑い返した。
本当は、もう少しくらい分かり始めているのかもしれない。けれど今は、まだそれでいい。
カイルは手元の書類へ視線を戻した。その口元には、しばらく笑みが残っていた。
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