第8話 居場所
共同事業が始まってから、一か月ほどが過ぎていた。
リディアはヴァレンティア商会へ通うことにも、少しずつ慣れ始めていた。朝になると職員たちが笑顔で挨拶をしてくれる。会議室へ行けば資料が用意されていて、分からないことを尋ねれば誰かが丁寧に教えてくれる。
以前は緊張していた場所だった。けれど今は、不思議と自然に足が向く。
「リディア様、おはようございます」
「おはようございます」
挨拶を返したあと、ふと気付く。そのやり取りが、もう特別ではなくなっていた。
それが、少し嬉しかった。
◇
その日も二人は市場を視察していた。
店先には見覚えのある深紅の果実が並んでいる。
ルビー・ロッサ。
以前よりも、ずっと多くの店で見かけるようになっていた。
「人気ですね」
リディアが呟くと、店主が嬉しそうに笑った。
「おかげさまで。最近は果実だけじゃないんですよ」
店主が店先を指差す。そこには小さなガラス瓶が並んでいた。陽の光を受けた深紅のジャムが、宝石のように輝いている。
「こちらはルビー・ロッサのジャムです。贈り物に選ばれる方も増えました」
隣には可愛らしく包装された焼き菓子も並んでいた。
「こちらも人気ですよ。香りが良くて、お茶請けにぴったりだと評判です」
店主はさらに嬉しそうに続ける。
「向かいの喫茶店では、夏限定のシャーベットも始めたんですよ」
「シャーベットですか?」
「ええ。毎日のように売り切れてしまうんです」
カイルが楽しそうに笑った。
「思った以上に広がるのが早かったですね」
「本当に助かっています」
店主は何度も頷く。
「今では『ルビー・ロッサをください』と、名前で買いに来てくださるお客様も増えました」
リディアは自然と微笑んでいた。
あの日、会議室で皆が自由に出し合った案。ジャム。焼き菓子。シャーベット。一つひとつが形になり、人々の笑顔へ繋がっている。
数字だけでは見えなかった景色が、今は目の前にあった。
「良かったですね」
カイルが穏やかに言う。
「はい」
リディアは迷いなく頷いた。
皆で考え、皆で育ててきた。その一員になれたことが、心から嬉しかった。
一通り市場を見終えた頃、カイルが空を見上げた。
「お腹が空きましたね」
あまりにも自然な一言に、リディアは思わず笑う。
「急ですね」
「急ではありません」
真面目な顔で返ってくる。
「人は昼になるとお腹が空くものです」
「それはそうですが」
「昼食にしましょう」
結局、笑いながら頷くしかなかった。
案内されたのは市場裏の小さな食堂だった。商人や職人たちで賑わう、温かな雰囲気の店。焼き立てのパンと具沢山のスープ、それに香草の香りが食欲を誘う。
「よく来られるのですか?」
「ええ。美味しいんですよ」
料理が運ばれてくる。リディアがパンへ手を伸ばそうとした、その時だった。
少し遠かった皿が、すっと目の前へ寄せられる。
「どうぞ」
カイルだった。
「あ……ありがとうございます」
あまりにも自然な仕草だった。特別なことではない。だからこそ、その気遣いが胸に残る。
スープを一口飲むと、優しい味が体へ染み渡った。
「美味しいです」
「でしょう?」
なぜかカイルが得意そうに笑う。
「カイル様がお作りになったわけではありませんよね」
「違いますね」
即答だった。
二人で顔を見合わせて笑う。そんな何気ない時間が、心地よかった。
昼食を終えた二人は、そのまま書店街へ向かった。市場の帰りに立ち寄ることが、いつしか二人の習慣になっていた。
リディアも、それを密かに楽しみにしている。
「続きは読み終わりましたか?」
「あの冒険譚ですか?」
「ええ」
リディアは嬉しそうに頷いた。
「読み終わりました」
「どうでした?」
「とても面白かったです」
自然と笑みがこぼれる。
「主人公は何度も失敗するのですが」
「はい」
「それでも前へ進むんです」
カイルは静かに耳を傾けている。
「昔の私は『もっと考えればいいのに』と思っていました」
「今は?」
リディアは少し照れながら笑った。
「頑張っているから、応援したくなりました」
カイルも微笑む。
「泣きました?」
「え?」
「最後です」
リディアは少しだけ視線を逸らした。
「ええ……少しだけ」
「やっぱり」
「分かるのですか?」
「その顔を見れば分かります」
思わず吹き出してしまう。
「そんなに分かりやすいでしょうか」
「ええ」
迷いのない返事だった。
「今のリディア様は、とても分かりやすいですよ」
頬が少し熱くなる。
けれど、嫌ではなかった。
夕方、二人が商会へ戻ると、職員たちが慌ただしく動いていた。
「会頭!」
「例の荷物、無事に届きました!」
「それは良かった」
「皆さんのおかげです!」
誰かが冗談を言い、周囲から笑い声が上がる。活気があって、自由で、少し賑やか。以前なら落ち着かないと思っていた空気だった。
けれど今は違う。
その輪の中にいる自分がいた。
「どうしました?」
気付けばカイルが隣に立っていた。
リディアはゆっくり周囲を見渡す。笑顔で働く人たち。忙しくても楽しそうな職員たち。皆が同じ方向を向いている。
「楽しいなと思いまして」
その言葉は自然に口からこぼれた。
カイルは一瞬だけ目を丸くする。そして、とても嬉しそうに笑った。
「それは良かった」
その笑顔を見て、リディアの胸も温かくなる。
婚約を解消されたあの日は、こんな未来が待っているなんて思いもしなかった。人生は思っていたより広い。正しい答えは、一つではない。
だからこそ、まだ知らない景色に出会える。
そのことが、少し楽しみになっていた。
夕暮れの光が商会の窓から差し込む。笑顔で職員たちと話すリディアを見つめながら、カイルは小さく息を吐いた。
彼女が笑う。
それだけで嬉しい。
「どうやら、予定通りにはいきませんね」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
最初は放っておけなかっただけだった。真面目で、頑張りすぎて、自分を責めてばかりいた人。
でも、もう違う。
彼女が笑うと、自分まで嬉しくなる。その笑顔を、もっと見ていたいと思う。
商売なら答えはすぐに見つかる。
けれど。
この気持ちだけは、まだ答えが分からない。
夕暮れの光の中、笑うリディアを見つめるカイルの表情は、本人だけがまだ気付いていないほど、どこまでも優しかった。
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