第7話 あの頃の私は、精一杯だった
失敗は、思いがけない時に起こる。その日も共同事業は順調だった。ルビー・ロッサの試験販売は好調で、追加注文の話まで出ている。リディアは商会と取引先の間に立ち、朝から忙しく動いていた。だからこそ、机の上の発注書に違和感を覚えた瞬間、頭の中が真っ白になった。
「……違う」
本来送るはずだった数量より、少なく記載されている。このままでは納品数が足りない。何度も確認した。見直した。それなのに、間違えた。
リディアはすぐに取引先へ連絡し、事情を説明した。商会にも報告し、代替案を考え、関係各所へ連絡を入れる。幸い、早く気付いたことで納品日への影響は出なかった。取引先も修正に応じてくれ、大きな損害にもならずに済んだ。問題は解決した。誰もリディアを責めなかった。それでも、リディアだけは自分を許せなかった。
* * *
夕方になっても、商会はいつも通り慌ただしかった。
「間に合って良かったですね」
「大事にならなくて安心しました」
職員たちはそう言って、それぞれの仕事へ戻っていく。誰も怒っていない。責めてもいない。それなのに会議室へ戻ったリディアは、一人で発注書を見つめ続けていた。同じ数字を何度も確認しては、また最初へ戻る。
なぜ間違えたのだろう。どうして気付かなかったのだろう。もっと慎重に確認できたはずだ。もっと早く気付けたはずだ。もっと――。
その言葉を繰り返した瞬間、リディアの指が止まった。婚約を解消されてからも、ずっと同じことを考えていた。もっと優しくできたはず。もっと相手の気持ちを考えられたはず。もっと笑えばよかった。もっと頼ればよかった。何かがうまくいかなかった時、リディアはいつも「もっとできたはずの自分」を探してしまう。
「まだ帰っていなかったのですね」
穏やかな声に顔を上げると、入口にカイルが立っていた。リディアは慌てて姿勢を正す。
「申し訳ありません」
「まず謝るのですね」
苦笑され、リディアは唇を結んだ。
「……ご迷惑をおかけしました」
「迷惑はかかりました」
あっさり認められ、胸が縮む。けれどカイルは責める様子もなく、向かいの椅子へ腰を下ろした。
「ですが、問題は解決しました。取引先との調整も終わっていますし、納品日にも間に合います」
「はい」
「損害もほとんどありません。では、今回の件で次から変えることはありますか?」
予想していなかった質問に、リディアは顔を上げた。
「確認方法を変えます。発注書を作成した者とは別の人間が、最後に数量を確認するようにします」
「いいですね。他には?」
「急ぎの時ほど、一度時間を置いてから見直します」
「では、それでいきましょう」
カイルはあっさり頷いた。
「これで仕事としては終わりです」
リディアは返事ができなかった。原因を確認し、次の対策を決めた。取引先への対応も済んでいる。仕事としては、確かに終わっている。それでも、自分の中では終わっていなかった。
「……私がもっと注意していれば」
「そうですね」
「もっと確認していれば、そもそもこんなことにはなりませんでした」
「そうかもしれません」
「でしたら――」
言いかけたところで、カイルが口を開いた。
「リディア様」
「はい」
「今日と同じ間違いを、もう一度すると思いますか?」
リディアは考えてから、首を横に振った。
「しないと思います」
「なぜです?」
「今回のことで、確認方法に問題があると分かりましたから。次は、変えられます」
「ええ」
それでも、リディアの指は発注書の端を握ったままだった。
「でも、間違えたことはなくなりません」
「なくなりませんね」
「迷惑をかけたことも」
「ええ」
否定されない。大丈夫だとも、気にしなくていいとも言われない。だからこそ、胸の内に残っていた言葉が零れた。
「私は、間違えました」
声が震える。
「もっとできたはずなのに」
その言葉を口にした途端、あの日の声が蘇った。
『君は正しすぎる』
婚約を解消された時も、リディアは自分の中に間違いを探し続けた。どこを変えれば、あの結末にならなかったのか。もっと優しくできたのではないか。もっと相手の気持ちを考えられたのではないか。もっと笑えばよかった。もっと頼ればよかった。今日の発注書を前にしている自分と、あの日からずっと自分を責め続けている自分が重なった。
カイルはすぐには答えず、やがて穏やかに尋ねた。
「それは、いつ分かったのですか?」
「え?」
「もっと確認するべきだったことも、確認方法を変えた方がいいことも」
「……間違えたあとです」
「そうですよね」
カイルは静かに頷いた。
「でしたら、知らなかった頃の自分を、今の自分が責め続けるのは……少し可哀想ではありませんか?」
リディアは目を瞬いた。
「可哀想……?」
「ええ。今のリディア様は、間違えたからこそ、次はどうすればいいのかを知っています。ですが、間違える前のリディア様は、それを知らなかったのでしょう?」
何も言えなかった。
「昔からのご友人が、今日と同じ失敗をしたら、リディア様はその方を責めますか?」
「責めたりなんて、しません」
「どうしてです?」
「誰にでも、間違えることはありますから」
「では、その方が『もっとできたはずなのに』と自分を責め続けていたら?」
言葉が止まった。きっと言うだろう。その時には分からなかったのだから仕方がない。次から気をつければいい。もう十分反省しているのだから、そんなに自分を責めなくてもいい、と。
「……自分には、言えません」
「どうしてでしょうね」
答えを求めている声ではなかった。
リディアは手元へ視線を落とした。昔から、間違えることが怖かった。期待に応えられないことも、誰かを失望させることも怖くて、もっとできるはず、もっと頑張らなければと自分を動かしてきた。婚約者に対しても同じだった。良い婚約者でいようとした。彼のためになると思うことを考え、自分なりに精一杯やってきた。けれど、それが彼には息苦しかった。
『君は正しすぎる』
あの一言を、何度思い返しただろう。今なら、もっと違うやり方があったと思える。自分の気持ちを伝えることも、相手の気持ちを聞くことも必要だったのだろう。でも、それは今だから分かることだ。あの時の自分は、知らなかった。知らないなりに、一生懸命だった。
――知らなかった頃の自分を、今の自分が責め続けるのは、少し可哀想ではありませんか?
カイルの言葉が、胸の奥にゆっくりと落ちていく。視界が滲んだ。
「……あの頃の私は」
声が震える。カイルは何も言わない。ただ、続きを待っている。
「精一杯だったんですね」
言葉にした途端、一粒の涙が頬を伝った。ずっと、誰よりも自分自身に言ってほしかった言葉だった。
「うまくできなかったことは、あったと思います。でも……あの時の私は、それを知らなかった」
涙で滲む視線を、手元の発注書へ落とす。
「今日の私も、間違えました。でも、間違えようと思って間違えたわけじゃない」
「ええ」
カイルが短く答えた。正しかったとも、悪くなかったとも言わない。ただ、その一言だけだった。だからこそ、リディアは初めて、自分の言葉をそのまま受け止めることができた。
あの頃の自分は、完璧ではなかった。間違えたこともあった。足りなかったことも、きっとあった。それでも、あの時の自分にできることを、精一杯やっていた。それなのに自分だけは、ずっとあの頃の自分を責め続けていた。
俯いて涙を拭おうとすると、一枚のハンカチが差し出される。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
受け取って目元を押さえる。こんなところで泣くつもりなどなかった。いつもの自分なら、「泣いてしまって申し訳ありません」と謝っていただろう。けれど今日は言わなかった。泣いている自分まで、責めたくなかった。
しばらくして、カイルが口を開く。
「リディア様」
「はい」
「今、何を考えていますか?」
リディアは少し考えた。
「……次は、気をつけようと思っています」
「はい」
「でも」
机の上の発注書を見る。間違えた事実は消えない。けれど、次にどうするかはもう決めた。
「今日は、もう帰ろうと思います」
一瞬、カイルが目を丸くした。それから、柔らかく笑う。
「それがいいですね」
リディアも笑った。反省した。次にすることも決めた。なら、今日はここまででいい。
過去も同じなのかもしれない。今なら変えられたと思うことがあるなら、これから変えていけばいい。過去の自分を罰するためではなく、これからの自分のために。
リディアは机の上の書類を揃え、椅子から立ち上がった。
「お先に失礼します」
「はい。お疲れさまでした」
「カイル様も、あまり遅くならないでくださいね」
「おや。心配してくださるのですか?」
「共同事業の責任者に倒れられては困りますので」
「なるほど。仕事上の心配ですか」
「……そういうことにしておきます」
言ってから、自分でも少し驚いた。カイルも一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。
「では、そういうことにしておきます」
リディアは頬が熱くなるのを感じながら、会議室を出た。
失敗をしなくなったわけではない。婚約が終わった事実も変わらない。それでも、あの頃の自分は精一杯だった。知らなかった頃の自分を、今の自分がいつまでも責め続けなくてもいい。そう思えただけで、胸の奥にずっとあった重いものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
* * *
リディアを見送ったあと、カイルはしばらく閉じた扉を眺めていた。
「……そういうことにしておきます、ですか」
口元が緩む。最初に会った頃の彼女なら、きっと言わなかった。真面目な顔で「もちろん仕事上です」と答えていただろう。最近、彼女はよく笑う。自分の意見を口にすることも増えたし、時々こちらが予想もしない言葉を返してくる。
変わったのだろうか。それとも、今まで隠れていた彼女自身が見えるようになっただけなのか。カイルには分からない。ただ、今日、彼女が発注書を握りしめている姿を見た時は放っておけなかった。泣いている姿を見れば、胸が落ち着かなかった。気の利いた言葉をかけたかったわけでも、答えを教えたかったわけでもない。ただ、彼女が自分で答えを見つけるまで、そこにいたかった。
カイルは机の上の書類へ視線を戻した。商売なら、数字を見れば判断できる。けれど、人のことはそう簡単にはいかないらしい。
明日の予定表を見ると、午後にはリディアとの打ち合わせが入っていた。それを確認しただけで、少し気分が軽くなる。明日も彼女が商会へ来る。
そのことを楽しみにしている理由については――まだ、考えないことにした。
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