第7話 あの頃の私へ
失敗は、思いがけない時に起こる。
その日も共同事業は順調だった。ルビー・ロッサの試験販売は好調で、追加注文の話まで出ている。リディアは商会と取引先の間に立ち、調整役として忙しく動いていた。
だからこそ、その違和感に気付いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
「……違う」
机の上の発注書を見つめる。数字が合わない。本来送るはずだった数量より、少なく記載されている。このままでは納品数が足りなくなる。
リディアの指先が冷たくなった。
何度も確認した。見直した。それなのに。
「私が……」
喉が渇く。
すぐに取引先へ連絡し、事情を説明する。商会へ報告し、代替案を考え、関係各所へ頭を下げる。
幸い、早く気付いたことで納品日への影響は出なかった。取引先も快く修正に応じてくれたため、大きな損害にもならない。
誰も責めなかった。
それでも、リディアだけは自分を責め続けていた。
夕方になっても商会はいつも通り慌ただしく、人々の声が行き交っていた。
「間に合って良かったですね」
「ええ」
「大事にならなくて安心しました」
誰も怒っていない。責めてもいない。
それなのに、会議室へ戻ったリディアは、一人で書類を見つめ続けていた。同じ数字を何度も確認する。
なぜ間違えたのだろう。
どうして気付かなかったのだろう。
もっと慎重に確認できたはずだ。
もっと頑張れたはずだ。
もっと――。
「まだ帰っていなかったのですね」
穏やかな声に顔を上げると、カイルが立っていた。
リディアは慌てて姿勢を正す。
「申し訳ありません」
反射的に謝る。
カイルは苦笑した。
「まず謝るのですね」
その言葉が胸へ刺さる。
「ご迷惑をおかけしました」
「迷惑はかかりました」
あっさり認められ、リディアは俯いた。
やはりそうだ。
迷惑をかけた。
失敗した。
「ですが」
カイルは静かに続けた。
「問題は解決しました」
リディアは何も答えられない。
「取引先との調整も終わりました」
「はい」
「損害も最小限です」
「……はい」
「でしたら、この件はもう終わっています」
終わっている。
そんなふうに思えたら苦労しない。
リディアは小さく首を振った。
「私がもっと注意していれば」
「そうですね」
「もっと確認していれば」
「そうかもしれません」
「でしたら――」
「リディア様」
静かな声だった。
責める響きはない。ただ、穏やかで優しい。
「今のあなたは、この失敗を知っています」
リディアは黙って聞く。
「でも」
一呼吸置いて、カイルは続けた。
「あの日のあなたは、まだ知りませんでした」
胸が小さく震えた。
「知らなかった人を」
カイルは穏やかに微笑む。
「知っている今のあなたが責め続けるのは、少し可哀想だと思いませんか」
その瞬間、胸の奥で何かが止まった。
可哀想。
そんなふうに考えたことは、一度もなかった。
失敗したのだから責められて当然。
自分が悪かったのだから当然。
そう思い続けてきた。
でも。
あの日の自分は、本当に何も知らなかった。
「でも……」
声が震える。
「私は間違えました」
「ええ」
「迷惑もかけました」
「かけましたね」
否定されない。
だから言葉を続けられた。
「責任があります」
「あります」
「反省もしなければ」
「それも必要です」
カイルは静かに頷く。
「でも」
優しく続ける。
「それと、自分を傷つけ続けることは別です」
リディアは息をのんだ。
自分を傷つける。
そんなつもりはなかった。ただ反省していただけだ。もっと良くなろうとしていただけだ。
なのに。
「一つ、お聞きしてもいいですか?」
「……はい」
「昔からのご友人が、今日と同じ失敗をしたら」
リディアをまっすぐ見つめる。
「責めますか?」
首を横に振る。
「責めません」
「どうしてです?」
「誰にでも失敗はありますから」
「そうですね」
カイルは微笑んだ。
「では、どうして自分には同じことを言ってあげられないのでしょう」
言葉を失った。
どうしてだろう。
他人には言える。
大丈夫ですよ、と。
次がありますよ、と。
でも、自分には言えない。
ずっと、言えなかった。
胸の奥が熱くなる。
「私は……」
幼い頃からそうだった。
もっと頑張りなさい。
もっとしっかりしなさい。
期待に応えなさい。
正しくありなさい。
そう言われ続けてきた。
だから失敗した時は、いつも自分が悪いと思った。
もっと頑張れたはずだ。
もっとできたはずだ。
その時の自分には、その時なりの精一杯があったのに。
気付けば視界が滲んでいた。
涙が頬を伝う。
カイルは何も言わない。
ただ静かに、一枚のハンカチを差し出した。
リディアはそれを受け取り、小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
それだけで十分だった。
「あの頃の私は……」
声が震える。
涙で前が見えない。
「……精一杯だったんですね」
一粒、涙が落ちた。
「私なりに」
もう一度、小さく呟く。
「精一杯だったんですね」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で固く結ばれていたものが、ゆっくりほどけていく。
失敗は消えない。
間違えた事実も変わらない。
それでも。
あの日の自分を、責め続けなくてもいいのかもしれない。
初めてそう思えた。
「はい」
カイルが静かに頷く。
「きっと、そうです」
優しい声だった。
リディアは涙を拭う。
泣いてしまったことは少し恥ずかしい。
けれど心は、不思議なくらい軽かった。長い間背負っていた荷物を、ようやく少し下ろせたような気がした。
窓の外では夕暮れが街を優しく染めている。
世界は何も変わっていない。
それでも。
リディアの中では、確かに何かが変わり始めていた。
◇
リディアを見送ったあと、静かな会議室には夕陽だけが差し込んでいた。
カイルは窓の外を眺め、小さく息を吐く。
彼女が笑えるようになってほしい。
そんなことを、いつから願うようになったのだろう。
最初は放っておけなかっただけだった。
真面目で、頑張りすぎて、自分を責めてばかりいる人。
けれど今は違う。
彼女が笑うと嬉しい。
落ち込んでいると気になる。
今日、涙を流す姿を見た時は、胸が痛んだ。
思わず苦笑する。
商売なら答えはすぐに見つかる。
けれど、この気持ちだけはどうにも答えが見つからなかった。
窓の外では、夕陽がゆっくりと街の向こうへ沈んでいった。
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