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「君は正しすぎる」と婚約破棄された私は、もう自分を責めない  作者: 黒猫と珈琲


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第6話 答えは一つじゃない

 共同事業は順調に進んでいた。


 少なくとも、リディアが想像していた以上に。


 あの小さな村で見つけた果実――ルビー・ロッサは試験販売で予想以上の反響を呼び、商会の職員たちは嬉しい悲鳴を上げながら忙しく動き回っている。


 その日もリディアは会議室で資料を確認していた。


「こちらが次回の販売計画です」


 若い職員が緊張した面持ちで書類を差し出す。


 リディアは目を通した。


 数字にも誤りはない。


 構成も分かりやすく、よくまとめられている。


 だが、その隣から資料を覗き込んだカイルが、小さく首を傾げた。


「面白くないですね」


 会議室が静まり返る。


 リディアは内心で苦笑した。


 この人の口癖だ。


「どこがでしょうか」


 若い職員がおそるおそる尋ねる。


「悪くありません」


 カイルはまずそう言った。


「むしろ、とても良くまとまっています」


 職員がほっと息を吐く。


 しかし。


「だからこそ、面白くないんです」


「えっと……」


 困惑した空気が流れる。


 カイルは机の上に置かれたルビー・ロッサを手に取った。


「この果実を買ってくださるのは、女性が多いんですよね?」


「はい」


「でしたら、果実として売るだけではもったいない」


 深紅の果皮を眺めながら続ける。


「この色も、この香りも、この果実だけの魅力です」


 職員たちが自然と身を乗り出した。


「例えば、ジャムにすれば一年中楽しめます」


「焼き菓子も良さそうです」


 一人の職員が言う。


「夏ならシャーベットも!」


 別の職員が続ける。


「果実茶はいかがでしょう?」


「贈答用の詰め合わせもできますね」


「王都の喫茶店とも組めそうです」


 次々と意見が飛び交う。


 カイルは楽しそうに頷いた。


「もう私が何も言う必要はありませんね」


 その一言で、会議室の空気がさらに明るくなる。


「季節限定にしたら毎年楽しみにしていただけそうです」


「王都の名物になるかもしれません!」


 完成だと思っていた企画が、みるみる広がっていく。


 若い職員の目は期待で輝いていた。


 リディアはその光景を静かに眺める。


 カイルは否定しない。


 駄目だとも言わない。


 もっと面白くなる方法を、一緒に探している。


 だから皆が前を向けるのだろう。


 机の上のルビー・ロッサへ視線を落とす。


 最初に村で見た時は、珍しい果実だと思っただけだった。


 けれど今は違う。


 一つの果実が、ジャムになり、焼き菓子になり、果実茶になり、誰かへの贈り物になる。


 村で実った一つの果実が、遠く離れた誰かを笑顔にする。


 そんな未来を、自然と思い描いていた。


 数字だけを見ていた頃の自分には、見えなかった景色だった。


 会議が終わったあと。


 資料をまとめながら、リディアは口を開く。


「皆さん、とても楽しそうでしたね」


 カイルが顔を上げる。


「そうですか?」


「はい。会議なのに、皆さん笑顔で話していらして」


 以前のリディアなら考えられなかった。


 会議とは緊張するものだと思っていたから。


「仕事は楽しい方が良いでしょう」


 カイルは当然のように言う。


「ですが責任もあります」


「ありますね」


「失敗することもあります」


「あります」


 全部肯定されるので、少し調子が狂う。


 カイルは可笑しそうに笑った。


「だから、楽しくないと続きません」


 その言葉は、妙に納得できた。


 好きなこと。


 楽しいこと。


 以前のリディアなら、どこか子どもっぽい考えだと思っていた言葉だった。


「何か良いことがありましたか?」


 突然カイルが尋ねる。


「え?」


「最近、表情が柔らかくなりました」


 また見られていたらしい。


 リディアは少し照れながら答えた。


「好きだった本を、また読めるようになったのです」


「おや」


 カイルが嬉しそうに笑う。


「最後まで読めそうですか?」


「ええ、まだ途中ですが」


「面白いですか?」


 リディアは自然に答えていた。


「面白いです」


 その一言を口にした瞬間、自分でも少し驚いた。


 以前の自分なら。


 「息抜き程度ですが」


 そんな言葉を付け加えていただろう。


 けれど今日は違う。


「面白いです」


 もう一度そう言う。


 カイルは静かに微笑んだ。


「それは良かった」


 たったそれだけだった。


 なのに胸の奥が、じんわりと温かくなった。



 帰りの馬車を待ちながら、二人は商会の前に立っていた。


 夕暮れの空が、王都を優しい橙色に染めている。


「カイル様」


「はい」


「どうして皆さんに考えてもらうのですか?」


 会議中の様子を思い出しながら尋ねる。


 若い職員の提案も、経験の浅い者の意見も、カイルは最後まで耳を傾けていた。


「私より面白いことを思いつく人がいるからです」


 リディアは目を丸くした。


「カイル様より、ですか?」


「ええ」


 カイルはあっさり頷く。


「私の考えなんて、一人分しかありませんから」


 その言葉に、リディアは思わず笑ってしまった。


「ですが、間違った意見もありますよね」


「もちろんあります」


「でしたら、経験のある方だけで決めた方が効率的ではありませんか?」


 侯爵家ではそうだった。


 経験のある者が判断し、立場のある者が決める。


 その方が失敗は少ないと教えられてきた。


 カイルは少しだけ空を見上げた。


「私が一番怖いと思うのは、答えを持っていない人ではありません」


 リディアは首をかしげる。


「『こうするべきだ』という答えを、一つしかないと信じている人です」


 夕暮れの風が、二人の間を優しく吹き抜ける。


「答えを知らない人は考えます。分からないから人に聞きます」


 カイルは穏やかに微笑んだ。


「でも、答えは一つだと思い込むと、人は考えることをやめてしまう」


 その言葉が、静かに胸へ落ちてきた。


 真っ先に思い浮かんだのは、ロイだった。


 そして――自分自身も。


 正しくあろうとすることばかり考えて、自分の気持ちを置き去りにしてきた。


「正しいやり方は大切です」


 カイルは続ける。


「でも、正しい答えが一つとは限りません」


 リディアは黙って頷いた。


「だから私は、皆さんに考えてもらいます」


 そう言って、少し照れたように笑う。


「その方が、私も勉強になりますから」


 その笑顔につられ、リディアも小さく笑った。


「……難しいですね」


「ええ」


 カイルは肩をすくめる。


「私もまだまだ経験ばかりですよ」


「経験、ですか?」


「そうです」


 楽しそうに頷く。


「失敗ではなく、経験です」


 もう何度も聞いた言葉だった。


 それなのに。


 今日は以前より、その意味が少しだけ分かった気がした。


 馬車が到着する。


 乗り込む前に、リディアは振り返った。


 夕陽を背に立つカイルが見える。


 最初は理解できない人だった。


 今も予定は守らないし、価値観もまるで違う。


 それでも。


 この人と話すたび、自分の世界が少し広くなる。


 答えは一つじゃない。


 その言葉が、静かに胸へ残っていた。


 そして。


 また次に会える日を、少しだけ待ち遠しいと思っている自分がいた。


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