第5話 好きだった、ではなく
「今日は予定を変更します」
その日、商会へ着くなりカイルはそう言った。以前ならすぐ理由を問いただしていただろう。けれど今のリディアは、ひとまず続きを待つことができた。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろんです。書店街へ行きます」
「……書店街?」
「ええ」
さすがに予想外だった。今日は共同事業の新しい販売方法を検討する予定だったはずだ。
「ちゃんと仕事ですよ」
「本当でしょうか」
「信用がありませんね」
「日頃の行いでは?」
「エマと同じことを言うようになりましたね」
カイルが楽しそうに笑う。
「市場を見るのと同じです。王都の流行は、書店にも出ますから」
「本から、ですか?」
「ええ。旅行記が売れていれば遠方への関心が高まっているのかもしれない。料理本が増えていれば、新しい食材を売るきっかけになるかもしれません」
それなら共同事業とも無関係ではない。
「それに、あなたも本がお好きでしょう?」
「……なぜ、それを?」
リディアの足が止まった。
「前に、資料の間から栞が落ちましたよね」
数日前、持参した資料から古い栞を落としたことがあった。冒険者が海を見つめる挿絵が描かれた、子どもの頃から使っているものだ。
「それだけで?」
「それだけではありません。書店の前を通る時だけ、少し歩くのが遅くなります」
「……そんなことまで見ていたのですか」
「たまたま気付きました」
疑うように見つめると、カイルはますます楽しそうに笑った。
「では、行きましょうか」
「はい」
それ以上、カイルは何も聞かなかった。そのことに少しほっとしながら、リディアは彼とともに商会を出た。
* * *
王都の書店街には大小さまざまな店が並び、通りへ入った途端、紙とインクの匂いが漂ってきた。リディアの歩みが自然と緩む。
懐かしい。子どもの頃は父に連れてきてもらうたび、帰りたくないと思ったものだ。
「どうしました?」
「いえ」
「あまり嬉しそうではありませんね」
「……昔は、よく来ていたのです」
「今は?」
「あまり本を読みません」
「飽きたのですか?」
「いいえ」
返事は迷わず出た。
「では、忙しくなった?」
「それもあります。ですが……好きな本を読むくらいなら、もっと役に立つことを覚えるべきだと思っていました。礼儀作法や社交、領地経営のことも。覚えなければならないことがたくさんありましたから」
「なるほど」
カイルはそれだけ言った。
「……何もおっしゃらないのですね」
「何か言った方がいいですか?」
「いえ」
リディアは笑った。カイルは、こういう時に答えを押しつけてこない。
「せっかく来たのですから、見ていきませんか?」
「そうですね」
リディアは店の中へ足を踏み入れた。
* * *
最初は見るだけのつもりだった。けれど気付けば、一冊の冒険譚の前で立ち止まっていた。表紙には、若い冒険者が地図を片手に船の甲板へ立ち、未知の大陸を見つめる姿が描かれている。
リディアは本を手に取り、最初の一ページを読む。すぐに続きを読みたいと思った。
「気になります?」
顔を上げると、カイルが少し離れた場所からこちらを見ていた。
「……少し」
「では、読んでみては?」
「ですが……」
時間がない。もっと優先するべきことがある。役に立つものを読んだ方がいい。いつもの言葉が出かかったが、今日はどれも少し違って聞こえた。
「昔は、こういう本が好きでした」
「そうですか」
カイルは笑った。それだけだった。好きなら買えばいいとも、我慢する必要はないとも言わず、リディアが決めるのを待っている。
婚約を解消された夜に開いた、あの古い旅行記を思い出す。あの時は一ページも読めなかった。それでも、本が嫌いになったわけではなかった。
「……違いますね」
「何がです?」
「好きでした、ではありません」
リディアは本を胸元へ引き寄せた。
「私は今も、こういう物語が好きです」
声にすると、不思議なくらいすんなりと言えた。カイルの目元が和らぐ。
「そうですか」
「はい」
それだけの会話だった。けれど、自分の中に置き去りにしていたものを一つ拾い直したような気がした。
「これを買います」
今度は迷わなかった。
* * *
それから二人は何軒もの書店を巡った。カイルは店員へ最近売れている本を尋ね、料理や旅行に関する本の売れ行きを確認する。その横でリディアは、地方料理をまとめた本を見つけた。
「カイル様、こちらを」
「何かありました?」
開いたページには、地方の果実を使った菓子が載っていた。
「ルビー・ロッサにも応用できるかもしれません」
「なるほど。菓子に加工すれば、日持ちの問題も変わってきますね」
「はい。生の果実だけを売る必要はありません」
「いいですね。試してみる価値がありそうです」
カイルはすぐに手帳へ書き込んだ。
仕事として来た。けれど、楽しい。その二つは同時にあってもいいのかもしれない。
さらに何軒か回った頃には、リディアはすっかり時間を忘れて本棚を眺めていた。
「随分楽しそうですね」
「そう見えますか?」
「ええ」
リディアは少し考えてから笑った。
「……楽しいです」
「それは良かった」
何かを褒められたわけでも、正しいと言われたわけでもない。ただ、自分が楽しいと思っている。今は、それだけで十分だった。
* * *
帰る頃には、リディアの手に冒険譚と地方料理の本が入った紙袋があった。
「良い買い物ができましたね」
「はい。買って良かったと思います」
「それなら何よりです」
しばらく歩くと、カイルが紙袋へ視線を向けた。
「お持ちしましょうか?」
「大丈夫です」
「そう言うと思いました」
あっさり引き下がられ、リディアは少し拍子抜けした。
「……持ってくださらないのですか?」
「今、大丈夫だと」
「そうですけれど」
「では、私がお持ちしましょうか?」
いつもなら、もう一度「大丈夫です」と答えただろう。自分の荷物なのだから、自分で持つべきだ。一人で持てるものを誰かに頼む必要はない。
けれど今日は。
「……少し重いので、お願いしてもいいですか?」
カイルが柔らかく笑った。
「もちろんです。では、お預かりします」
リディアは差し出された手へ紙袋を渡した。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
一人でも持てる。けれど、一人で持たなくてもいい。誰かに頼るというのは、案外こんなに小さなことからでもいいのかもしれない。
* * *
夕暮れの王都を二人で歩く。カイルの手には、リディアが買った本の入った紙袋がある。隣から視線を感じ、リディアは顔を向けた。
「どうかしましたか?」
「いえ」
「では、なぜこちらを見ているのです?」
「……随分、笑うようになったなと思いまして」
リディアは瞬きをした。
「私が?」
「ええ。最初に会った頃より、ずっと」
それだけ言って、カイルは前を向く。リディアは少し遅れて、その隣へ並んだ。頬がわずかに熱い。
「カイル様」
「はい?」
「次は、どこへ行くのですか?」
「気になります?」
「……少しだけ」
「では、まだ秘密です」
「またですか」
「楽しみは取っておいた方がいいでしょう?」
「そういう問題ではありません」
呆れながらも、笑ってしまう。
最初は、何を考えているのか分からない人だった。今も分からないことは多い。けれど今日、リディアは一つ思い出した。
自分は、本が好きだ。冒険譚が好きで、知らない場所の話を読むと胸が躍る。そんな自分は、ずっと前から自分の中にいた。
彼が答えをくれたわけではない。ただ、自分で思い出すまで待っていてくれた。
それが今は、少し嬉しかった。
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