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「君は正しすぎる」と婚約破棄された私は、もう自分を責めない  作者: 黒猫と珈琲


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第5話 好きなものを好きと言うこと

「今日は予定を変更します」


 その日、商会へ着くなり、カイルはいつものようにそう言った。


 リディアは驚かなかった。


 少しだけ慣れてしまった自分がいる。


「理由を伺ってもよろしいでしょうか」


「もちろんです」


 カイルはにこやかに頷く。


「書店街へ行きます」


「……書店街?」


「ええ」


 あまりにも当然という顔だった。


 今日は共同事業の打ち合わせではなかっただろうか。


 そんな考えが顔に出ていたらしい。


 カイルが楽しそうに笑う。


「ちゃんと仕事ですよ」


「本当でしょうか」


「失礼ですね」


 少しも傷ついた様子はない。


 むしろ面白がっているようだった。


「市場を見るのと同じです」


「書店を?」


「王都の流行は本にも出ますから」


 それは確かに一理ある。


 リディアが納得しかけたところで、カイルが続けた。


「それに、あなたも好きでしょう?」


「何がですか?」


「本が」


 心臓が小さく跳ねた。


 リディアは目を見開く。


「なぜ……」


「前に資料の間から栞が落ちましたよね」


 言われて思い出した。


 数日前、古い栞を落としてしまったことがあった。


 冒険譚の挿絵が描かれた、お気に入りの栞だった。


「それだけではありません」


 カイルは穏やかに笑う。


「書店の前を通る時だけ、歩く速度が少し遅くなるでしょう?」


 リディアは息をのんだ。


 そんなことまで見られていたなんて、思いもしなかった。


「随分前から気付いていました」


「……どうして何もおっしゃらなかったのですか」


「好きなものは、自分で思い出した方が嬉しいでしょう?」


 その一言に、返す言葉が見つからなかった。



 王都の書店街は今日も賑わっていた。


 石畳の通りには大小さまざまな書店が並び、新刊を扱う店、古書店、専門書を集めた店まである。


 どこを見ても本ばかりだった。


 子どもの頃なら、きっと目を輝かせて走り回っていただろう。


 けれど今は違う。


 懐かしさと同時に、胸の奥が少しだけ痛んだ。


「どうしました?」


 カイルが隣から覗き込む。


「いえ」


「あまり嬉しそうではありませんね」


 図星だった。


 リディアは苦笑する。


「昔は好きだったのです」


「昔は?」


「今はあまり読みません」


 そう答えると、カイルは首を傾げた。


「飽きたのですか?」


「そういうわけでは……」


 言葉が続かない。


 飽きたわけではない。


 読む時間がなくなった。


 読むべきではないと思った。


 もっと優先するべきことがあると、自分で決めてしまっただけだ。


「でしたら、好きなのではありませんか?」


 あまりにも自然に言われ、リディアは足を止めた。


「好きでも」


 言葉を探す。


「大人になれば、好きなものばかり選んでいられません」


 そう答えると、カイルは少し驚いたような顔をした。


「なぜです?」


「なぜ、と言われましても……」


 好きなことより、やるべきことを優先する。


 それが当たり前だと思っていた。


 カイルは少し考え込むように本棚を眺める。


 やがて一冊の本を手に取った。


「実は何冊か迷いました」


「迷われたのですか?」


「ええ。でも」


 彼は表紙へ目を落とす。


「これは、あなたが一番長く見ていましたから」


 差し出されたのは、冒険譚だった。


 若い冒険者が地図を片手に、未知の大陸を目指す物語。


 昔なら迷わず買っていた。


「ですが」


 リディアは小さく笑う。


「読む時間もありませんし」


 そう言った瞬間、自分でも違和感を覚えた。


 本当に時間がないのだろうか。


 それとも。


 自分で読むことを許していなかっただけなのだろうか。


 カイルはそんなリディアを静かに見つめていた。


「リディア様」


「はい」


「好きなものを好きと言えるのは、とても良いことです」


 穏やかな声だった。


 押しつけるような響きはない。


 ただ、本当にそう思っているのだと分かる声だった。


 リディアは目を伏せる。


 好きなものを好きと言う。


 それだけのことが、どうしてこんなにも難しいのだろう。


「私は……」


 気付けば言葉がこぼれていた。


「冒険譚が好きでした」


 カイルは少しだけ笑う。


「そうですか」


 そして首を横に振った。


「その本を見ている顔は、『好きでした』には見えませんでしたけどね」


 リディアは言葉を失う。


 カイルはそれ以上何も言わず、本を棚へ戻した。


 その沈黙が心地よかった。


 好きだった。


 そう思っていた。


 けれど違う。


 表紙を見ただけで胸が高鳴った。


 ページをめくってみたいと思った。


 主人公と一緒に旅へ出たいと思った。


 それなら。


 私は今も、本が好きなのだろうか。


 その答えは、もう分かっていた。


 それから二人は何軒もの書店を巡った。


 旅行記。


 歴史書。


 植物図鑑。


 冒険譚。


 気付けば時間を忘れて本を手に取っていた。


「随分楽しそうですね」


 カイルが笑う。


 リディアは思わず笑みを浮かべた。


「そう見えますか?」


「ええ」


 迷いのない返事だった。


「今の方が、ずっと良い顔をしています」


 その言葉に頬が少し熱くなる。


 けれど否定はできなかった。


 久しぶりだった。


 何かを、ただ楽しいと思えたのは。


 帰る頃には、リディアの手には紙袋があった。


 中には、あの冒険譚が入っている。


「良い買い物ができましたね」


 隣を歩くカイルが言う。


 リディアは少し照れながら頷いた。


「そうかもしれません」


 本を一冊買っただけなのに、胸が少し軽かった。


 少しだけ昔の自分へ近づけた気がする。


「お持ちしますよ」


 突然、カイルが紙袋へ手を伸ばした。


「大丈夫です」


「知っています」


「でしたら」


「持ちたいだけです」


 リディアは目を丸くする。


「あなたが、とても大切そうに抱えているので」


 紙袋へ優しく視線を落とす。


「落としたら悲しいでしょう?」


 その言葉に、小さく笑ってしまった。


「それは困りますね」


 リディアは紙袋をそっと渡す。


 カイルは大事そうに受け取った。


 まるで本ではなく、宝物を預かったかのように。


 その姿が少し可笑しくて、少し嬉しかった。



 夕暮れの王都を並んで歩く。


「何でしょうか」


 視線に気付き、リディアが尋ねる。


 カイルは少し照れたように笑った。


「いえ」


 一拍置いて続ける。


「ようやく見られたなと思いまして」


「何をです?」


「あなたの自然な笑顔を」


 リディアは立ち止まる。


 自分では分からない。


 けれど頬が熱くなっていく。


 カイルは何事もなかったように歩き出した。


「次は別の店をご案内します」


「まだあるのですか?」


「もちろんです」


 その背中を見つめながら、リディアは静かに微笑む。


 最初は信用できない人だと思っていた。


 今も予定は守らないし、理解できないことも多い。


 それでも。


 この人といると、忘れていた自分に少しずつ出会える。


 そのことが嬉しかった。


 紙袋の中には、新しい冒険譚が一冊。


 そして心の中には、小さな変化が一つ。


 止まっていた時間は、少しずつ動き始めていた。


 夕暮れの王都を歩きながら、リディアはそっと隣を見上げる。


 いつの間にか。


 隣を歩くこの人の存在が、心地よく感じられるようになっていた。


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