第4話 失敗の、その先
その日、リディアは朝からヴァレンティア商会を訪れていた。商会はいつものように活気に満ち、職員たちが帳簿を抱えて行き交っている。リディアが共同事業の資料を確認していると、一階に若い男性の声が響いた。
「申し訳ありません!」
その場にいた職員たちが一斉に顔を上げる。声の先では、商品の発注や在庫管理を担当する若い職員、ニコラスが深く頭を下げていた。真面目でよく働く青年だが、今日は顔色が真っ青で、握りしめた手まで震えている。その前にはカイルが立っていた。
「何があったのですか?」
リディアが近くの女性職員へ尋ねる。
「ニコラスが、商品の発注数を間違えたそうです」
「発注数を?」
「本来の倍の数量を仕入れてしまったようで」
決して小さな間違いではない。商品によっては大きな損失につながる。
「本当に申し訳ありません……」
震えるニコラスを見ていると、リディアまで苦しくなった。もし自分なら、なぜ確認しなかったのか、もっと慎重にできたはずなのにと、何度も自分を責めるだろう。
だが、カイルは怒鳴りもため息もせず、「そうですか」と答えただけだった。
「まず確認しましょう。発注したのは、この商品ですね?」
「はい」
「数量は?」
「予定していた数の、倍です」
「取り消しは?」
「もう届いています……」
「なるほど。保存期間は?」
「二か月です」
「でしたら、まだ時間はありますね」
カイルは少し考え、ニコラスを見る。
「では質問です。今回、なぜ間違えたと思いますか?」
「……え?」
「原因が分からなければ、次も同じことが起きますから」
責める声ではない。けれど、甘やかしているわけでもなかった。
「確認不足でした。急いでいたので、入力した数字を見直さず、そのまま発注してしまいました」
「他には?」
「一人で確認して……他の者に見てもらいませんでした」
「なるほど」
「次からは入力後に必ず見直します。それから、大きな発注は他の人にも確認してもらいます」
「いいですね」
それでもニコラスの表情から不安は消えない。
「会頭……怒らないのですか?」
「怒ってほしいですか?」
「い、いえ!」
あまりにも早い即答に、周囲から笑いが漏れ、張りつめていた空気が緩んだ。
「ですが、私、大きな損失を……」
「まだ損失になると決まったわけではありません。商品はここにあるのでしょう?」
カイルは積まれた木箱を指した。
「なら、売ればいい」
ニコラスが目を丸くする。
「もちろん予定外の仕入れです。保管費もかかりますし、利益率も下がるかもしれません。ですが、間違えたことと、すべてを失ったことは同じではありません。今できることを考えましょう」
「……はい」
「もう一つだけ。同じ間違いを、もう一度しますか?」
「しません。絶対にしません」
今度の声はしっかりしていた。
「でしょうね。そのために、今日のことを覚えておいてください」
カイルはわずかに笑う。
「それなら、失敗ではありません。経験です」
リディアの指が止まった。
失敗。そう呼べば、そこで終わってしまうように聞こえる。けれど経験なら、その先がある。
「経験……」
ニコラスも確かめるように呟いた。
「もちろん、間違えない方がいいですよ。私もできれば胃を痛くしたくありませんから」
「申し訳ありません!」
「謝罪はもう聞きました。それより売り方を考えましょう」
カイルが軽く手を叩く。
「保存期間は二か月。通常の倍あるなら、いつもの売り方だけでは厳しいですね。何か案はありますか?」
「贈答用に組み替えるのはどうでしょう」
「まとめ売りなら取引先に提案できます」
「地方支店にも回せるかもしれません」
「それなら輸送費を確認しましょう」
次々に意見が上がり、職員たちが動き始める。誰もニコラスを責めず、起きてしまったことより、これからどうするかを考えていた。
「私、取引先を回ります」
「一人で抱え込まないように」
「はい!」
先ほどまで震えていた声に力が戻っている。
間違いそのものは消えない。それでも、その後を変えることはできる。まだ自分自身に当てはめることはできなかったが、誰かの失敗をいつまでも責め続けなくてもいい。そのことだけは、少し分かった気がした。
* * *
昼過ぎ。打ち合わせを終えた応接室には、リディアとカイルだけが残っていた。
「考え込んでいますね。ニコラスの件ですか?」
「……はい。驚きました」
「何がです?」
「もっと厳しく叱るのかと思っていました」
カイルは紅茶のカップを置いた。
「怒ったら、お金が戻りますか?」
「……戻りません」
「ですよね。でしたら、売る方法を考えた方がいい。怒るのは、それからでもできます」
「それから怒るのですか?」
「必要なら」
「必要なさそうなお顔ですけれど」
「よく分かりましたね」
カイルが笑い、リディアの口元も緩む。
「ですが、本当に平気なのですか?」
「まさか」
「え?」
「胃が痛いです。かなり痛いです」
あまりにも真顔で言われ、リディアは吹き出した。
「では、全然平気ではないのですね」
「平気なわけがありません。できれば間違えないでほしいです」
「それなら、もう少し怒ってもよかったのでは?」
「怒らなくても、ニコラスが一番分かっていましたから」
リディアの笑みが消えた。
「自分が一番後悔している時に、横から同じことを言われても苦しいだけでしょう」
「……そうですね」
カイルはそれ以上触れず、何でもないことのように続けた。
「それに、私も昔は失敗ばかりでしたから」
「あなたが?」
「もちろんです。初めて大量に仕入れた商品なんて、半分腐らせました」
「半分も?」
「一か月分の利益が飛びました」
「それは……」
「三日ほど立ち直れませんでした」
真面目な顔で言うので、リディアの口元が緩む。
「笑いましたね」
「申し訳ありません」
「あ、また謝りました」
「……」
しまった、と思った時には遅かった。カイルが楽しそうに笑っている。
「謝るの、本当に癖なんですね」
「失礼しました」
「ほら」
「……今のは違います」
「何が違うんです?」
「今のは……」
言い返そうとして、言葉に詰まる。カイルは急かすことなく返事を待っていた。以前なら、ここで黙っただろう。けれど――。
「……カイル様が、しつこいからです」
一瞬、カイルが目を丸くし、それから声を上げて笑った。
「それは失礼しました」
「今度はカイル様が謝るのですね」
「必要な時は謝りますよ」
「そうなのですか?」
「どういう意味です?」
「そのままの意味です」
「ずいぶん言うようになりましたね」
「カイル様の影響かもしれません」
「それは光栄です」
リディアもとうとう笑ってしまった。商会へ来てから何度か笑うことはあったが、こんなふうに何も考えず笑ったのは初めてだった。
笑いが収まると、カイルが穏やかに尋ねる。
「リディア様は、失敗するのが怖いですか?」
突然の問いに、リディアは黙った。いつもなら「いいえ」と答えたかもしれない。けれど今日は、取り繕う気になれなかった。
「……怖いです。誰かを失望させるかもしれません。迷惑をかけるかもしれません。だから、できるだけ間違えないようにしてきました」
カイルは最後まで遮らずに聞いていた。
「それは、悪いことではないと思います」
「え?」
「間違えないよう努力することも、責任を持って仕事をすることも、大切です。ただ、本人が十分反省しているなら、それ以上責めても仕方がないと、私は思っています」
「……他人なら、そうかもしれません」
口にしてから、リディアはしまったと思った。
「他人なら?」
「……何でもありません」
「そうですか」
カイルは追及しなかった。答えを求められない。自分の考えを否定されることも、話したくないところまで踏み込まれることもない。その距離が、今は心地よかった。
* * *
帰りの馬車で、リディアは窓の外を眺めていた。朝のニコラスの姿が、何度も頭に浮かぶ。
大きな間違いをした。損失が出るかもしれない。それでも、誰もニコラス自身を否定しなかった。間違えたところを確認して、次にどうするかを考える。それだけだった。
――それなら、失敗ではありません。経験です。
カイルの言葉が蘇る。まだ、自分について同じように考えられるとは思わない。婚約が終わったことも、これまでの生き方も、もし違う自分だったならと考える気持ちは消えていない。
「他人なら……」
朝のニコラスに対して、自分は「もっと自分を責めるべきだ」とは思わなかった。むしろ、もう十分だと思った。
なら、どうして自分に対してだけは、いつまでも許さないのだろう。
答えはまだ出ない。今すぐ出さなくてもいいような気もした。
ただ一つ、カイル・ヴァレンティアという人が、どうしてこんなふうに物事を見るようになったのか。それを、もう少し知ってみたい。
そう思う気持ちは、以前より少しだけ大きくなっていた。
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