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「君は正しすぎる」と婚約破棄されたので、自分の答えを探すことにしました  作者: 黒猫と珈琲


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第4話 失敗ではなく経験です

 共同事業が始まって間もない頃だった。


 その日、リディアは朝からヴァレンティア商会を訪れていた。


 商会の中はいつものように活気に満ちている。職員たちは忙しそうに動き回り、帳簿を抱えて行き来していた。


 そんな中だった。


「申し訳ありません!」


 突然、若い男性の声が一階へ響いた。


 その場にいた職員たちが一斉に顔を上げる。リディアも資料から視線を外した。


 声のした方を見ると、一人の若い職員が深く頭を下げていた。顔色は真っ青で、今にも倒れてしまいそうなほど緊張している。


 その前にはカイルが立っていた。


「何があったのですか?」


 近くにいた女性職員へ小声で尋ねる。


「商品の発注数を間違えたそうです」


「発注数を?」


「本来の倍の数量を仕入れてしまったみたいで」


 リディアは息を呑んだ。


 決して小さな失敗ではない。商品によっては大きな損失になる。


 若い職員は震える声で言った。


「本当に申し訳ありません……」


 その姿は痛々しかった。


 リディア自身も似たような経験がある。


 失敗した時。迷惑をかけた時。自分の価値まで否定されたような気持ちになる。


 だからこそ、これから始まる叱責を覚悟した。


 だが。


「そうですか」


 カイルは静かに頷いた。


 怒鳴りもしない。ため息すらつかない。


「では質問です」


 穏やかな声だった。


 若い職員が戸惑ったように顔を上げる。


「何を学びましたか?」


「……え?」


 商会の空気が一瞬止まった。


 リディアも思わず瞬きをする。質問の意味が分からなかった。


「今回の件で何を学びました?」


 カイルはもう一度尋ねる。


 若い職員は混乱した様子だった。


「えっと……確認不足でした」


「なるほど」


「入力した後に見直すべきでした」


「他には?」


「数字を急いで打つ時ほど気を付けなければいけないと……」


 カイルは頷いた。


「良いですね」


 若い職員はさらに困惑している。叱られると思っていたのだろう。


 リディアもそう思っていた。


「会頭……怒らないのですか?」


 恐る恐る尋ねる。


 カイルは不思議そうな顔をした。


「なぜです?」


「私、大きな損失を……」


「そうですね」


 あっさり認める。


 若い職員の肩が震えた。


 だが次の言葉は予想外だった。


「では聞きますが」


 カイルは腕を組む。


「同じ失敗をもう一度しますか?」


「しません!」


 即答だった。


「絶対にしません!」


「でしょうね」


 カイルは少し笑った。


「同じ失敗をしないために学んだのでしょう?」


「はい……」


「なら十分です」


 若い職員は呆然としていた。


 カイルは穏やかに続ける。


「それなら失敗ではありません」


 一瞬の静寂。


 商会の中にカイルの声だけが響いた。


「経験です」


 その言葉に、リディアは思わず息を止めた。


 失敗。


 その言葉には重さがある。責める響きがある。


 だが経験という言葉には違った響きがあった。


 前へ進むためのもの。次へ繋げるためのもの。そんな温かさがある。


 リディアは思わずカイルを見つめた。


 もし婚約を解消されたあの日、誰かにそんな言葉をかけてもらえていたら。


 少しは自分を責めずに済んだのだろうか。


「経験……ですか」


 若い職員が呟く。


「そうです」


 カイルは頷いた。


「もちろん損失は出ました。ですが学びましたよね」


 若い職員が小さく頷く。


「なら無駄ではありません」


 あまりにも自然な口調だった。説教するわけでもない。励まそうとしているわけでもない。ただ当たり前のことを言うように。


 それが余計に胸へ残った。


 若い職員の目が少し潤む。


「ありがとうございます……」


 先ほどまでの絶望はもうなかった。


「さて」


 カイルが軽く手を叩いた。


「落ち込むのは後にしましょう。今は余った商品をどう売るか考えます」


 すると周囲の職員たちが動き始めた。


 誰も若い職員を責めない。どうすれば損失を減らせるかを話し合い始める。


 その光景を見ながら、リディアはしばらく動けなかった。



 午後。


 打ち合わせを終えた後も、リディアの頭の中には朝の出来事が残っていた。


 失敗ではなく経験。


 そんな考え方を聞いたのは初めてだった。


 侯爵家では違う。失敗は反省するものだ。二度と繰り返さないために改善するものだ。


 もちろん、それは間違っていない。


 けれど。


 経験。


 その言葉には責める響きがなかった。


「考え込んでいますね」


 顔を上げると、いつの間にかカイルが向かいへ座っていた。


「朝の件ですか?」


 見透かされたらしい。リディアは素直に頷いた。


「驚きました」


「何がです?」


「もっと厳しく叱るのかと思っていました」


 カイルは紅茶を一口飲んだ。


「怒ったらお金が戻りますか?」


 リディアは言葉に詰まる。


 戻るはずがない。


「戻りません」


「ですよね」


 カイルはあっさり頷いた。


「なら次を考えた方が建設的です」


 合理的な答えだった。


 だが、それだけではない気がした。


「皆さん、あなたを信頼しているのですね」


 ふと口にすると、カイルは少し驚いたような顔をした。


「そう見えますか?」


「見えます」


 朝の光景を思い出す。


 失敗を報告した若い職員も、周囲の職員たちも、カイルを恐れてはいなかった。


 信頼していた。


 カイルは少しだけ笑った。


「昔は私も失敗ばかりでしたから」


「あなたが?」


 思わず聞き返す。


「もちろんです」


 カイルは苦笑した。


「商売で大損したこともあります。取引先を怒らせたこともあります。部下にもたくさん迷惑をかけました」


 リディアは目を丸くした。


「意外です」


「よく言われます」


 そう言って肩を竦める。


「でも失敗しない人なんていませんから」


 その言葉には妙な説得力があった。


 この人はきっと、本当に失敗してきたのだろう。そして、その経験ごと受け入れている。


「リディア様は失敗が嫌いですか?」


 突然尋ねられる。


 リディアは少し考えた。そして頷く。


「失敗は怖いです」


 正直な気持ちだった。


 誰かを失望させるかもしれない。迷惑をかけるかもしれない。


 だからいつも失敗しないように気を張っていた。


 ずっと。


 カイルは静かに聞いている。


「失敗しないよう努力することは素晴らしいことです」


 やがて彼は言った。


「ですが」


 そこで言葉を区切る。


「失敗した自分に厳しすぎる人は多いですね」


 その瞬間、胸が小さく痛んだ。


 まるで自分のことを言われたような気がしたからだ。


「私には関係ありません」


 反射的に答える。


 だが声は少し硬かった。


 カイルは何も言わない。ただ穏やかに笑っただけだった。


 その笑顔が妙に落ち着かない。見透かされた気がしたからだ。



 帰りの馬車の中。


 リディアは窓の外を眺めていた。


 失敗ではなく経験。


 失敗しない人はいない。


 失敗した自分に厳しすぎる人は多い。


 どれも聞いたことのない言葉だった。


 そしてふと気付く。


 朝の若い職員を羨ましいと思ったのだ。


 もし自分だったら、失敗した自分を許せるだろうか。


 きっと無理だ。


 何度も責める。何度も後悔する。もっと頑張れたはずだと、自分を追い込む。


 ――経験です。


 カイルの声が蘇る。


 リディアは窓に映る自分を見つめた。


 その考え方はまだ理解できない。


 けれど。


 どうしてこの人は、そんなふうに前を向けるのだろう。


 その答えを知りたいと思った。


 カイル・ヴァレンティアという人のことを。


 初めて、自分から。


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